大きな手3
ただただ、涙をこぼす後輩を、三之助は抱きしめていた。日が暮れようかというのに、急かすこともせず。見つけた先輩の義務とでもいうように、泣き止むのを待っていた。
「大変だったよなあ、しろ」
突然、話しを振られて四郎兵衛は首をかしげた。
風呂からの帰り道、たまたま一緒に上がった左近と長屋までを歩いているときだった。
「昨日だよ。次屋先輩の迷子に巻き込まれたんだろう。三反田先輩から聞いたんだ」
「あ、いや、それは」
巻き込まれた、というのは正確ではない。最初の迷子はお互い様だし、さらに迷ったのは完全に四郎兵衛が悪い。四郎兵衛が訂正しようと口を開けるよりも早く、左近が思いもよらない一言を口にした。
「滝夜叉丸先輩も今度ばかりは本気で叱ったみたいじゃないか」
四郎兵衛は、え、と足を止めた。迎えに来たのはやっぱり滝夜叉丸だったということは、あとから聞いて知った。その頃、四郎兵衛は泣き疲れて眠ってしまっていて、気が付いたら自分の部屋で朝を迎えていたのだ。
「あたりまえだけどさ、しろをあんな目に合わせて」
左近によると、三之助はひとつのいいわけもなく叱られたらしい。「後輩を巻き込んで迷子になるとは何事か」と。
四郎兵衛の、湯上りで赤く染まっていた頬から、血の気が引いた。一日たって、ようやくまともに動き出した心臓が、また締め上げられるように痛んだ。
考えてみれば、起きてから一度も滝夜叉丸に会っていない。きっと叱られると覚悟をしていたのに、それがなかったから少しだけ安堵したのは間違いないが、自分が叱責から逃れられたとは思っていなかった。委員会の日までお預けになっただけかと思っていたのに。
(次屋先輩が悪いんじゃない)
それははっきりしているはずなのに、どうして本当のことを言わなかったんだろう。四郎兵衛が一緒に迷子になって、勝手に逃げ出して、もっと道に迷ったって言えば、滝夜叉丸だって三之助だけを責めるようなことはしなかっただろうに。
四郎兵衛はふらふらしながら部屋に戻った。左近がしきりに心配していたが、大丈夫だからと断って逃げ込んだ。
いよいよ、委員会に行きにくくなった。滝夜叉丸の誤解を解かなくてはいけないし、何より、三之助に謝らなければいけない。大事なことだ、やらなければいけないと分かっているし、放棄する気もない。だが、無責任な行動をした自分を、先輩たちの前にさらすのが恐ろしかった。
滝夜叉丸はまだいい。委員長として自分を叱責したあと、こだわりなく接してくれる。いつも三之助にそうしているのを見ているから、四郎兵衛も疑いなく信じられる。
だが、三之助はどうだろうか。
後輩のせいで叱られて、怒られて。その四郎兵衛は何も知らずに寝こけていただなんて。三之助に軽蔑の視線でも向けられたら、自分は立ち直れないのではないだろうかと四郎兵衛は思った。今、このときでさえ、三之助は腹を立てているかもしれない。一日たったのに、四郎兵衛は謝りに行っていないのだから。
(嫌われるなら、早いほうがいいかな)
四郎兵衛は同室の人間に断ると、そろりと部屋を出た。こんな時間に五年長屋へ行くのは勇気がいったが、三之助に明日まで嫌な気分を引きずらせるよりはいいと思った。
夜ともなれば空気は冷える。四郎兵衛は寝巻きのままだった。上着を羽織ってくればよかったかなと後悔したが、自室に戻ったら気持ちがくじけそうでいやだった。
そこまでしてやってきたのに、長屋の入り口で四郎兵衛は怖じ気づいた。消灯間際にお邪魔して、迷惑にならない確証がなかった。よしんば三之助が思わなくとも、同室の先輩には迷惑になるかもしれない。
「あれ? 三年生の……時友くん、だよね?」
その四郎兵衛に声をかけたのは三反田数馬だった。桶を抱えている彼は、どうやら風呂上りらしい。
「どうしたの? こんな時間に」
「あ、いえ、あの、なんでも……」
「ああ、三之助か。大丈夫だよ、おいで」
うろたえて、引き返そうとする四郎兵衛を、数馬はあっさりと捕まえた。柔らかな口調とは正反対に、問答無用でろ組の部屋の前まで連れて行かれる。
「さくちゃん、いる?」
「いるぞ。どうした、なんか用か?」
数馬の呼びかけに、すぱん、と戸が開けられる。顔を出したのは富松作兵衛だった。
「ちょっといい?」
四郎兵衛は数馬をきょとんと見上げた。何故彼が作兵衛を呼び出したのか分からない。四郎兵衛が会いに来たのは三之助だということは見破っているはずなのに。
「な、なんだよ。こんな時間に」
「いいから、ちょっと」
数馬は作兵衛を引っ張り出すと、控えていた四郎兵衛を前に押し出した。作兵衛はこのとき初めて四郎兵衛がいたことに気付いたようだった。
「時友くんが三之助に用があるんだよ。さくちゃん、その間、ぼくたちの部屋に来てくれる?」
疑問符はついていたが、それは決定したことのように告げられた。さすがにそんな迷惑をかけられないと四郎兵衛は慌てたが、数馬は「気にしないの」と取り合わない。
「三之助、落ち込んじゃってるんだ。時友くんと話せばちょっとは浮上するかもしれないし。先輩たちからのお願い」
そんな風に言われては、拒否することはできない。四郎兵衛は覚悟を決めて、ろ組の部屋をのぞいた。
「つ、次屋、先輩」
がたん、と盛大な音がして衝立が倒れた。
衝立の向こうにいた三之助が引っ掛けたのだが、迷子にはなっても間抜けな失態はおかさない三之助にしてはめずらしいことだ。
「あの、ぼく、あやまりに」
来ましたという前に、三之助が四郎兵衛の手を取った。目を白黒させている間に、手を引かれて部屋の中に入る。「そこに座って」と布団の上を指され、四郎兵衛はおずおずとかけ布団をのけて正座した。
声は鋭く、ぼんやりとしたいつもの三之助ではない。やはり怒っているのだと悲しくなった。
早く謝って、怒りを解いてもらおう。嫌われてしまったらしかたないけれど、謝れば少しは不快な気持ちもやわらぐだろうから。
三之助は部屋の戸を閉めて、それから四郎兵衛に向き直った。
明かり一つしかない部屋の中で、三之助の表情はよく見えない。
「しろ」
それでも、声音に含まれたため息は感じられた。
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