二百十日1

 委員会の終了した保健室は、がらんとしていた。
 薬研も釜も片付けられて、あるのは数馬の出してくれたお茶だけ。その前で四郎兵衛は、正座をして待っていた。
 保健委員会委員長が帰って来るのを。


「時友くん!?」
 真っ赤に泣きはらした目を隠すことなく現れた四郎兵衛に、数馬は目を丸くした。保健室に残っていたのが数馬だけなのは幸いだった。下級生がいたら、大騒ぎになっていたことだろう。
 四郎兵衛をその場に座らせ、あたたかい茶を出す。
 「落ち着いてからでいいよ」というと、彼はこくんとうなずいた。
 目の前の四年生は、すっかり悄然としてしまっている。四郎兵衛とそれほど仲がいいというわけではない数馬にも、原因は簡単に予想がついた。
 同学年の、無自覚方向音痴。
 時友四郎兵衛が特別に慕っているのは、あの男しかいないのだから。

「ねえ」
 時友くん、と呼びかけようとした声は、すぱん! と勢いよく戸を開ける音にさえぎられた。
「数馬!」
「さくちゃん!?」
 四郎兵衛がびっくりして振り返り、作兵衛も泣き顔の彼を見て固まる。
「保健室の戸は静かに開けてよ」
 数馬は呆れてため息をついた。
「わ、わりい。いや! それより時友どうしたんだよ。もしかして、三之助か?」
 どうやら、考えることは皆同じらしい。数馬は少しおかしくなって笑ってしまった。
 しかし、四郎兵衛はその名を聞いただけで肩を震わせる。それを見た作兵衛はいきり立った。
「あいつ! 後輩になにやってんだよ!」
 そのまま長屋へ駆けていってしまいそうな作兵衛を、数馬はあわてて引き止めた。
「さくちゃん、ちょっと待って」
「止めんなよ、数馬。今度ばかりは一発殴ってやる」
 数馬がつかんだ袖を振り払う勢いで、作兵衛は前へと足を踏み出す。
 その態度に数馬は少しばかり腹を立てる。四郎兵衛からまだなにも聞いていないというのに、余計なことをしてはいけないのだ。
「さ、く、ちゃん?」
 にっこり笑って見せると、作兵衛は再びかたまった。
「ちょっと、外に行こうか」
「え?」
「そ、と、に」
「お、おう。はい」
 作兵衛がおびえたように背を向けた。
 数馬は「ちょっと待っててね」と言い置いて、保健室の戸を閉めた。


 そうして、しばらく。
 四郎兵衛は所在なげに辺りを見回した。金吾に言われるまま保健室へ来てしまったけれど、数馬に何を言えばいいのだろう。
 夢のことを話す? でも、それは三之助の迷惑にならないだろうか。
 やはり、帰ろうと腰を浮かせたときだった。
 「ごめんね」と数馬が戻ってきた。振り返った四郎兵衛を見て、「落ち着いたようだね」と笑う。
「あの」
 ぼく、やっぱり帰ります。
 と言う前に、数馬がぽんと肩に触れた。
「さ、話を聞こうか」
 やわらかい笑みに、ほろり、と涙がこぼれた。
 あの夜のことから、すべてをしゃべった。ひとつこぼれると、次々とあふれた。
 数馬はそれを、うなずきながら静かに聞いてくれた。
「夢を、見るんです」
「どんな?」
「次屋先輩に口を吸われる夢です」
「そうなんだ」
「毎日そんな夢ばかりで、ぼく、どうしちゃったんでしょう」
「そうか」
「次屋先輩の顔も見られないんです」
「うん」
「こんなんじゃ、次屋先輩にきらわれちゃう……」
 お茶をすすって、一息ついて、数馬がくすりと笑った。
「最近どうしちゃったのかと思っていたんだけど、安心した」
 四郎兵衛が首をかしげると、「三之助を避けているようだったから」と言う。体育委員会だけならまだしも、五年生に気付かれるほど、あからさまだったろうか。他人にどう見られるかなんて、かまっている余裕がなかった。
「僕も、さくちゃんも、たぶん、藤内たちも内心ほっとしてたんだ」
「なにを、ですか?」
「三之助は時友くんにひどい態度をとったでしょう? だから、まさか探しに行ってくれるとは思っていなかったんだよ」
「それは、ぼくが勝手に行ったんです。結局、何の役にも立てなかったし」
「そんなことない」
 数馬があまりにきっぱりと言うものだから、四郎兵衛は目をしばたいた。
「時友くんが行ってくれなかったら、三之助は見つからなかったかもしれない。得意の方向音痴を発揮して、どこかに行ってしまっていたかも」
「で、でも、次屋先輩は自力で帰っていらっしゃったと」
 たしかに四郎兵衛は目印をつけて歩いたが、あんな大風の後で、三之助がそれに気付いたかは分からない。むしろ、一人で歩くこともできなくて、ただの重荷になっていたはずだ。
 しかし、数馬はそれを否定した。
「時友くんがいなかったら、三之助はあんなに必死になって、帰ろうとしなかったはずだよ」
「そう、でしょうか」
 そうだったのなら、嬉しいなと思う。だって、それが本当だったら、三之助にそのくらいは大事にされているという証だから。
「それなのに、夏休みが終わったとたんに、三之助を避けるものだから、どうしたのかと心配だった」
「ごめんなさい」
「僕に謝ることはないよ。それに理由が理由だしね」
 むしろそれは三之助が悪い、と続けたいところだったが、数馬はそれを飲み込んだ。
(まったく、肝心なところで踏み込めないんだから)
 しかし、しかたないことなのかもしれない。自分のときを思い返したら、数馬もあまり強いことはいえないのだ。次屋三之助がいたおかげで、今、数馬は作兵衛と一緒にいられるのだから。

「時友くん」
 数馬が改まった様子で名を呼ぶと、四郎兵衛は「はい」と思いのほかはっきりとした返事をした。
「今晩、三之助に会いに行ってきなよ」
 しばらく、沈黙があった。
「うぇ、えええ、ええええ」
 奇妙なうめき声を出して、あたふたしたあと、四郎兵衛は「むりです」と首を振る。
 しかし、数馬には分かっていた。これは結局のところ、本人たちが腹をくくるしか、解決できない問題だ。数馬ができるのは、それの手助け。

「大丈夫だから、行っておいで」


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