一つ年下の後輩
自分のことだけだった。まだ、先輩になったなんて自覚はなかった。だけど、あの日。
一つ年下の後輩が見上げていたのは、紛れもなく、「先輩」の次屋三之助だった。
「さあああんのすけええええええ!!!」
地から這い上がってくるような声に呼び止められて、三之助は足を止めた。
春の裏々々山。青々とした新緑に、似つかわしくない声だ。
振り返ると、ひどく疲れた様子の滝夜叉丸が、今にも飛びかかってきそうな形相で立っている。
「滝夜叉丸」
「先輩をつけろ、先輩を!!」
「たき」
「喜八郎みたいな呼び方をするな!」
「えー、じゃあなんて呼べばいいんですか」
「だから」と言いかけて、滝夜叉丸の動きがはたと止まった。そして、再び地の底から這い上がってくるような声で三之助の名を呼ぶ。
「そうじゃない! ちがうだろう! 私の呼び名は……どうでもよいわけではないが、今はどうでもいい!」
つかつかと三之助に詰め寄った滝夜叉丸は、ぐい、と胸倉をつかんだ。
「お前は迷うなと何度言ったら分かる」
「俺は迷ってませんよ。みんながいなくなったんじゃ」
「お ま え が!」
滝夜叉丸が三之助の言い分を遮った。
「道を外れたんだろう!」
滝夜叉丸に迷子防止の腰紐をつけられて、三之助は学園まで戻ることになった。すっかり日も暮れ、学園に灯る明かりが目につく。その前庭に一つの影があった。
一年生の時友四郎兵衛。
滝夜叉丸も、引きずられていた三之助も、最初は気付かなかった。だが、目にとめたとたん、二人ともがぎょっとした。
その小さな影は、わずかな明かりの下で、ぼたぼたと涙をこぼしているのだ。
大粒の滴が、地面に落ちていく。
「ど、どうした、四郎兵衛!」
滝夜叉丸が大慌てで駆け寄っていく。
しかし、四郎兵衛はその滝夜叉丸の脇をするりと抜けた。対象を見失ってきょろきょろする滝夜叉丸を尻目に、三之助に抱きつく。
「ふえっ……」
三之助が何かを言う間もなく、四郎兵衛はわんわんと泣きはじめた。ぎゅっと三之助の衣を握り締め、顔を押し付ける。
三之助は困った末に、顔を上げた。あまりしかとそう思ったことはないが、滝夜叉丸は一年先輩であり、後輩という生き物を扱うことについては三之助よりも慣れている。だから助けてもらおうと思ったのに。当の滝夜叉丸はあ然とこちらを見ているだけだった。
助言を求めることをあきらめて、三之助はまず、後輩の背をなでた。これで泣きやんでくれればいいと思った。
しかし、目的は果たされずに、四郎兵衛はぐずぐずと泣くばかり。頭をなでてみても変わらずに、三之助は困り果てたあげく、ぎゅっと抱きしめ返してみた。
「四郎兵衛、泣いてたってわかんないよ」
声をかけると、四郎兵衛はやっと顔を上げた。
変わらず涙はこぼれていたが、それでも、反応があったことに三之助はほっとする。
「どうしてこんなところにいたんだ?」
「つぎやせんぱいがっ」
ひどくたどたどしい様子で四郎兵衛は三之助の名を口にした。
「いなくなっちゃったから」
思いがけない返答に、三之助はと胸をつかれる。
「俺が?」
「戻っていらっしゃるか、こわくてひうっ」
四郎兵衛はしゃくりあげながらも、三之助の問いに答えた。
委員長や先輩たちに、長屋まで連れて行かれたあと、四郎兵衛もいったんは布団に入ったのだ。滝夜叉丸や委員長が三之助を探しに行ったことは知っていた。だからこそ、大人しくしていようと思ったのだ。しかし、「こわくて」と四郎兵衛は新しい涙を浮かべながら訴える。
どうしても、どうしても落ち着かなくて、庭に出てきたのだという。
三之助は驚きを隠すことなく、四郎兵衛の話しを聞いた。こんなふうに委員長や滝夜叉丸に連れ戻されることは何度もあったが、同級生すら、彼を待っていたことなどない。先輩方は「またか」といった様子で、三之助を心から心配するのは、探しに来てくれる委員長と滝夜叉丸くらいなものだった(悔しいから認めたくないけれど)。
それを。
先輩の義務でもなく。
委員長の責任からでもなく。
一学年下のこの小さな後輩は。
「いなくなったからこわかった」と言うなんて。
三之助は、いまだ泣きやまずにいる四郎兵衛を、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
安心してくれればいいと願う。自分はここにいるのだから、泣きやんでほしいと思う。
「ありがと」
ささやけば、こくりとうなずくように頭が動く。続いて、ずしりと重みが加わった。三之助がいぶかしんで腕を緩めると、四郎兵衛はそのまま崩れ落ちそうになった。
「わ」
慌てて支えなおした体は、とても小さい。改めて、顔をのぞきこむと、すー、という寝息が聞こえた。
「泣き疲れたんだな」
滝夜叉丸がおかしそうに言う。だが、不思議と腹は立たなかった。
三之助は寝てしまった四郎兵衛を一年長屋まで運び。一度も道を間違えずに滝夜叉丸を驚かせた。
その間、四郎兵衛はしっかりと三之助の衣を握ったままだった。
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