夢は告げる

人の笑顔が好き。人と人とが笑い合っている空気が好き。その空間にいる自分なら、好きになれた。
楽しい事や嬉しい事は、いくらあったって困らない。そんな幸せな瞬間がいつまでも続けばいいのに。
なんて、他人任せな事を思っていたのはいつまでだっただろうか。


時折夢を見る。何度も何度も同じ夢を。
今宵も大切な両親が血だまりの中に転がっていた。夢といえど、その光景は紛れもなくいつか見た現実で。
父が母を庇うようにして折り重なり冷たくなった姿を見る度に、自分の無力さに打ちのめされる。
どうすれば、二人は死なずに済んだ?
どうしたら、家族みんなで笑って過ごす未来を守れた?

同じ夢を繰り返す内に、自然と一つの結論に辿り着く。
私が、強くならなくちゃ。
強くなって、自分の身は、幸せは、自分で守る事。
それから、その『幸せ』に浸りすぎない事。
大切なものが大切になればなるほど、それを失った時に心が脆くなってしまうから。執着しない。期待しない。
もう、あんな想いはしたくない。


はっきりと意志を持った足が、屋敷の一番奥へと続く廊下を進んでいく。夕餉も済んだこの時間ならばもう修行もないし、自室にいらっしゃるだろう。
歩を進めつつ意識を集中させると、突き当たりの部屋によく知った気配が揺らめいていた。
襖の前で膝をつき、軽く息を吐いて緊張を紛らわせる。

「慈悟郎さん、失礼します」

少しだけ襖を引くと、刀に打ち粉をしている慈悟郎さんの姿が見えた。

「すみません、お手入れ中でしたか」

刀の手入れ中に口を開くのは仕上がりに影響するのでご法度だ。出直そうと再び引き手に手を掛けたところ、慈悟郎さんがそれを目で制した。
今一度、会釈をしつつなるべく手入れに障らないよう静かに部屋へ入ると、丁子油の独特な香りがふわりと鼻を擽った。それが丁寧に塗られていくにつれて刀身が輝きを増していく。
カチンと鞘に納まる音とともに、慈悟郎さんがこちらへ向き直った。

「待たせたのう、名前」
「いえ…その刀は、日輪刀と呼ぶんですよね」
「うむ、もう振るう事はないがな…せめて錆びぬよう、こうして手入れをしておる」
「大切なものなんですね」
「昔の儂の、命そのものじゃ」

そう言って慈悟郎さんは少し目を伏せる。
鬼狩りとして戦ったその過去には、辛い事や苦しい事が数え切れないほどあったことだろう。
きっと、助けられなかった人だってたくさんいたはずだ。私の両親がそうだったように。

「ところで、何か儂に相談事かの」
「相談…というよりは、お願いに近いのですが」
「ほう、言ってみなされ」


桑島慈悟郎さん。三年前、両親を鬼に殺されて身寄りのない私を引き取ってくれた唯一の親族だ。
お世話になるからには、と給仕係や雑用を買って出て以来、このお屋敷でずっとそうやって過ごしてきた。
母方の大叔父にあたる慈悟郎さんの話は、幼い頃からよく母に聞かされていた。昔はとっても強い剣士さんで、たくさんの人を怖い鬼から守ってくれていたんだよ、と。
当時はそもそも人喰い鬼やそれを成敗する鬼狩りという人たちがいることも、桃太郎みたいなおとぎ話としか捉えてなくて。自分の両親が犠牲になって初めてその話を信じる事になるなんて、皮肉なものだ。

かつての慈悟郎さんみたいに、強くなりたい。
お前には無理だと突き返されるかもしれない。そもそも女である私に務まるものなのかすら分からない。
それでも、一度固めた決意は揺らぐ事はなかった。
誰かに頼ってばかりじゃいつまで経っても弱いまま。その弱さを理由に、また誰かを頼ってしまう。そんな悪循環を繰り返しながら生きていく事に、何の希望があるだろうか。
非力な自分を捨てて、父と母の仇を討つ。それが私に残された、前を向き続けるための唯一の道だから。

ひとつ深呼吸をして、そっと畳に手をつき慈悟郎さんを見据えた。

「私を、弟子にしてください」

一度目を逸らしてしまうと誠意が伝わらない気がして、瞬きをするのも憚られた。
慈悟郎さんは一瞬目を丸くしたかと思うと、すぐに元の表情に戻る。暫くそのまま見つめれば、困ったように眉を下げて苦笑した。

「そんなことだろうと思ったわい」
「え、」

てっきり門前払いかと思っていたから拍子抜けする。
慈悟郎さんはお見通しだと言わんばかりにふん、と鼻息を漏らして腕を組んだ。

「名前よ、時折夜半に魘されておるじゃろう」
「…はい、父と母の…それも何度も同じ夢を」
「やはりな、それはおそらく何かの暗示じゃ」
「暗示?」
「うむ、不明瞭なものゆえ断言は出来ぬが…昔そういった類の術を使う鬼に出くわした事があってな」


鬼。その言葉を慈悟郎さんから直接聞くのは初めての事だった。背筋を嫌な汗が伝うのが分かる。

「近い将来、お前の身に何かが起こるかも知れん…そうなれば二つに一つ、」

おもむろに刀掛けへ手を伸ばし、鞘からすらりと刀身が引き抜かれる。
油がひかれたばかりのそれは鈍く光り、微かに稲妻のような紋様が走っている。慈悟郎さんの纏っている色とよく似た輝きだった。

「誰かに助けを乞うか、己で立ち向かうか」

その言葉と雰囲気に、一瞬息を飲む。
私の前でいつも見せる明るく優しい顔とは打って変わって、お弟子さんに稽古をつけている時の険しく厳しい表情。
今私が対峙しているのは、元鳴柱・桑島慈悟郎だ。気圧されないよう、膝の上でぐっと拳を握りしめた。

「私はもう、何もできないのは嫌なんです」

慈悟郎さんはしばらく射抜くような眼差しをこちらに向けていたが、やがて諦めたように軽くため息を漏らし目を細める。
鞘へと戻っていった鈍色が、ことりと音を立てて再び刀掛けに鎮座した。

「その真っ直ぐな眼、お前の母親にそっくりじゃ」
「あ、ありがとう…ございま、す…?」

先程まで張りつめていた空気が急に柔らかくなったせいか、見当違いな返答が口から漏れた。
慈悟郎さんの表情はいつもの優しいおじいちゃんに戻っていて、しどろもどろになっている私を見てわっはっはと豪快に笑った。

「一度言い出せば聞かぬお前の性分じゃ、断ったとて死んでも引き下がらんじゃろう」
「で、では…!」
「うむ、…しかし、本当に悔いはないのか?」

こういう言われ方は好かぬだろうが、と前置きした上で、慈悟郎さんは言葉を続ける。

「名前、お前は年端も行かぬ女子じゃ」
「…はい」
「一度鬼狩りとなれば、その命を掛けて鬼どもと戦い続ける事になる…体に生涯残るような傷も出来る」

柱として一線で戦ってきた、何よりの証。
左目の下の大きな傷跡と右足の脚絆の先から覗く義足が、その言葉の重みを増す。

「心得ているつもりです」
「想い合った男と添い遂げ、戦いとは無縁の人生を歩む道もあるのじゃぞ」

少し声色を落として、穏やかな口調でゆっくりと諭すように話す慈悟郎さん。
血の繋がりは勿論あるけれど、その優しさにどことなく母の面影が感じられて少し切なくなった。

「お前は儂の可愛い姪孫じゃ、その幸せを願わずにはおれぬ」
「…慈悟郎さん…」
「それでも尚揺るがぬ信念があると言うならば、その想いを無下にはできまい」

それに、と付け加えた慈悟郎さんの目は心なしか少し潤んでいるように見えて。

「せめてお前には、自分の生きたいように生きてほしいからのう」


その懐の大きさに言葉も出ない。
感謝と、尊敬と、恩義と。ありったけの気持ちを込めて、ただただ深々と頭を下げるのみだった。

「苗字名前、お前を正式に儂の弟子として認めよう」
「っ、ありがとうございます…!」

よろしくお願いいたします、と改めて深くお辞儀をしてから顔を上げると、慈悟郎さんはニヤリと口角を上げた。

「その代わり、女子とて容赦はせんぞ」
「無論、覚悟の上です」
「うむ、よろしい!今日はもう休むとよい」
「はい、朝起きてすぐに動けるよう支度しておきます」
「あぁ明日なんじゃが、修行は午後から始める事にしよう」

少しでも早く稽古をと息巻いているところに、慈悟郎さんの言葉が待ったを掛ける。

「そうですか…午前中は何かご用事が?」
「ちょっと街へ野暮用でな、その間屋敷の事を頼んだぞ」
「街ですか?何か御入用でしたら私が買って参りますが…」
「いや、まぁ買い物と言えばそうなんじゃが…ちと大きな買い物でな」

普段の生活で使う消耗品や食材なんかはいつも私が買い出しに出掛けているので、慈悟郎さんが街へ下りる事は滅多にない。
大きな買い物、ということは何か高価なものなのだろうか。確かに、そういう事ならば私の出る幕ではなさそうだ。

「わかりました、道中お気をつけくださいね」
「うむ、心遣い感謝する」

明日から厳しい修行の日々に身を投じる事になる。けれど、不思議な事に不安は一切無くて。
この決断は間違っていない、そう確信できる程には心に信念という火が灯っていた。

「おやすみなさい、…師範」

そう告げると、師範は満足そうに頷いた。

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