あたらしい風と

翌日、師範は朝餉を終えて少し経った頃に街へと出掛けていった。
からりと澄み切った青空の下、早朝から干していた洗濯物がもう乾き切っている。竿に下がったお弟子さんの稽古着を取り込もうとすると、まさにその持ち主の気配が背後に現れた。
その声が背中に投げられる前に振り向く。

「獪岳さん」
「…っおい、いきなり振り向くんじゃねえ」
「あ、ごめんなさい」

いつにも増して不機嫌そうな獪岳さんは、眉間に深く皺を寄せてチッと舌打ちする。
周りと調和する事をあまり好まないのか、獪岳さんは他人に対して必要以上に関わらないし、余り友好的とも言えない。ただ、その分黙々と何かに打ち込む事に関しては長けているように思う。
他の育手の稽古を見た事がないので比べようがないけれど、素人目に見ても師範の稽古はかなり厳しい。それでも努力を怠ることなく鍛錬に励むそのひたむきさに、師範も満足そうな顔で日々労いの言葉を掛けていた。

そして私が新たに弟子入りしたという事は、この人はこれから私の兄弟子という事になる。稽古の時はどうなるんだろうか、きっと良い顔はしないだろうな。
どちらにせよ、挨拶くらいはしておかなくちゃ。

「獪岳さん、私もこの度…」
「お前、どういうつもりだ」
「…え?」
「なに今更弟子入りしてんだよ」
「私も強くなりたいからです」
「邪魔だ、今すぐ辞めろ」

案の定私が弟子入りした事を良く思っていないらしく、かなりお怒りだ。まぁ気に食わないのも頷ける。彼からしてみれば、今まで独占できていた師範との時間を分け与えないといけないのだから。
かと言って、私も引き下がる気なんてさらさらないのだ。ひとまずこの場をどう鎮めようか考えていると、獪岳さんは更に畳み掛けてきた。

「強くなるだと?笑わせんな、その分俺に稽古付けた方が何千倍も何万倍も見返りがある」

「大体、女の細腕で刀なんか振れる訳ねえだろ」

「孫だか姪孫だか知らねえが、それだけで認められたつもりか?自惚れてんじゃねぇよ!」


矢継ぎ早に捲し立てられたその罵倒に、こちらも少々かちんと来た。いつもの私なら適当に笑って誤魔化したりして、波風立てないように引き下がるところだけれど。
一番に、師範との関係を蔑ろにされたことが許せなかった。
唯一の家族となってしまった慈悟郎さんという存在が私にとってどれ程心の拠り所になっているかなんて、この人には到底理解できないんだろう。


「無駄かどうかは、やってみないと分かりませんよ」


怒りで言葉が震えてしまうかと思ったけれど、自分でも思いがけず冷たく静かな声色だった。
私が初めて口答えした事に獪岳さんは心底驚いた様子で、さっきまでの勢いはとうに消え失せていた。

「私が師範の血縁だからと言って贔屓されるとでも思ってます?」
「…それは、」
「そう思ってるなら、師範に対して失礼ですよ」
「お前が言ったって何の説得力も、」
「師範はそんな事絶対にしません」

語気を強めて遮るようにそう言うと、獪岳さんは更に眉間の皺を深くして押し黙った。

「私はもう覚悟を決めてます、どんなに辛かろうと苦しかろうと、師範の教えに恥じない剣士になるって」
「…だから何だよ」

相変わらず苛立ちを隠さない獪岳さんを横目に、風に揺れる彼の稽古着を手に取って目の前に差し出した。

「一緒に頑張りましょう、兄さん」
「な、」

同じ師に、同じ時、同じ事を、同じだけ教わる。それだけで充分仲間と呼べる間柄じゃないかな。嫌がるのは分かってるけど、これほど関係性の分かりやすい呼び方は他に無い。
しばらく面食らった様子だった獪岳さんは、私の手から稽古着を乱暴に奪い取った。

「気色悪い呼び方すんな、雑魚が」

そう吐き捨てて去って行く背中には、いつもと変わらない沼底のような涅色が纏っていた。やっぱり一筋縄ではいかないか、と見送りながらため息を吐く。
確かに、今の私は雑魚だ。だけどいつか肩を並べるその日が来れば、少しは獪岳さんとも打ち解けられるかもしれないから。そのためにも、午後からの稽古は精一杯励まなければ。
しっかり活力を蓄える要は、やはりきちんとした食事だろうか。勿論今までも考慮してはいたけれど、いざ自分も身を置くとなると更にその重要度を実感する。昼餉を作る所から鍛錬は始まっているのかも。

そうして一人ひっそりと意気込んでいたところに、表の方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
どうやら師範がお戻りになったらしい。意識を傾けると、師範のものとは別にもう一つの気配があった。
お客様かな、だとしたらお茶とお菓子の用意をしなくっちゃ、なんて考えながら早足で表まで回っていると、徐々にその騒がしさが大きく鮮明になってくる。

「えぇえええ!?ちょっと!!そんなの聞いてないんですけどぉ!?」
「言っただろう、お前は剣士になるのじゃ」
「無理無理無理!!無理すぎでしょ!!!第一、俺刀なんか握った事もないし!!」
「だから儂が一から叩き込んでやると言うとるじゃろう!」
「イヤァァアアーーーッ!!!もう帰る!!帰りますぅううーー!!」
「ならば肩代わりしてやったお前の借金、今すぐ耳を揃えて返すんじゃ」
「鬼ィィイイーーーッ!!!」
「誰が鬼じゃ馬鹿者!!!」

言い争うような声に疑問を抱きつつ恐る恐る玄関先を覗くと、そこには青筋を立てて説教をする師範と、それを受けてひどく泣き喚いている少年がいた。

「…おかえりなさいませ、師範」

遠慮がちに声を掛けると、おお戻ったぞ、という師範の声と共にばちんと弾かれたように少年が顔を上げた。
ぽかんと口を開けて私と師範の顔を何度か見比べた後、またもやさっきの調子に戻る。

「え…嘘、じいちゃんほんとに剣術の先生なの?」
「最初からそう言っておるじゃろう!」
「ただのお金持ちじゃなくて?」
「何を抜かすか、いい加減にせい!」

そうして遂に少年の頭に拳骨がお見舞いされる。うわ痛そう…と思う間もなく再び少年が顔をぐしゃりと歪めた。
見ず知らずの少年とはいえさすがに可哀想になってきたので、鼻息荒く目を吊り上げる師範と少年の間に割って入った。

「師範、そのくらいで…」

苦笑しながら師範を宥めつつちらりと少年の様子を伺うと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃな中にしんと佇む琥珀色の瞳と目が合った。
少しくすんだビードロのような、仄暗さと透明感が混在したような、そんな不思議な雰囲気を携えている。
綺麗な瞳だな、と純粋にそう思った瞬間、少年は目を真ん丸に見開いて顔を真っ赤に染め上げていく。
師範の背を擦っていた手を横から攫われ、そのままぎゅっと両手を一纏めにして包まれる。

「結婚しよう!!!」
「…は?」

自分の耳を疑ったけど、どうやら聞き間違いではないようだ。それは目の前の表情と気配の色が証明していた。
だらしなく口元を緩ませて「俺の事庇ってくれるなんて優しいね」「きみの瞳もとっても綺麗だよ」なんて、口説き文句にも満たないような言葉を次々と呪文のように唱えている。…あれ、私口に出して言ったっけ、瞳が綺麗だなって思った事。
とりあえずこの捕まったままの状態をどうにかしたい、と思っていると背後の師範の気配が恐ろしいほど怒りの色に満ちていた。

「善逸ーーーー!!!!」
「ヒィィイイーーーーッ!!!!」

雷の呼吸の使い手が文字通り雷を落とせば、少年はへっぴり腰になりながら逃げ出した。
躍起になって捕まえようとする師範を何とか制し、抱えたままの疑問を投げ掛ける。

「し、師範!それよりもどちら様で…?」
「そうじゃ、まだ何も話しておらんかったな」

師範に杖でビシッと指された少年は、びくりと肩を跳ねさせ私の背に隠れる。

「名前、今日からこやつと共に修行を受けるのじゃ」
「この人と…?」

さっきの会話の内容からしてこの少年も弟子入りするんだろうとは思ったけれど、どう見ても自分から志願した訳ではなさそうだ。
第一、こんなにすぐ泣いたり逃げ出したりするような人が師範の稽古に耐えられるのだろうか。この少年をわざわざ連れて来た師範の意図がいまいち分からない。
いつの間にか師範に首根っこを掴まれていた少年は、今度は諦めたようにめそめそと静かに泣き出す。
そんな少年を一瞥した後、師範はこちらを向いて軽く頷いた。

「同志がおる方が励めるじゃろう」


同志。その新鮮な響きを心の中で反芻する。
家業の手伝いばかりしていた私には、友人も、文を交わすような相手もいない。
思えば父と母を亡くしてから、同じくらいの歳の子と言葉を交わしたのはこれが初めてだったかもしれない。
胸の奥がほんのりと温かくなるような、不思議な感覚。それと思い違いでなければ、師範はきっと私のために。

「大きな買い物というのは…」
「うむ、コレの事じゃ」
「ちょっと!人の事モノ扱いするのやめてもらっていいですかね!?」

師範は私が覚悟を決めるよりずっと前から考えてくれていたんだ。
私がひとりぼっちにならないように。
どこまでもお見通しの師範は、やっぱりとんでもない人だ。

「精一杯励みます、師範!」
「うむ、午後の稽古までにこやつに屋敷の案内を頼む」
「承知しました」

未だ地面にぺたりと座り込んで項垂れている少年に近づき、そっと手を差し伸べる。

「私は苗字名前、これからよろしくね」

にへ、と表情を緩ませた少年は、差し出した私の手の指先だけを遠慮がちにきゅっと掴んだ。
立ち上がってすぐにその手をぱっと離して、もじもじと視線を彷徨わせている。
この短時間で幾つの表情を見せただろうか。そんな人間味の豊かさが少しだけ羨ましいなと思った。

「へへ、素敵な名前だねぇ」
「…そうかな」
「うん、とっても」

あ。また違う顔。
今度はちょっとだけ大人びた微笑みを見せた少年に、そんなことを思う。

「俺は、我妻善逸!よろしくね、名前ちゃん」
「あがつま、くん」

誰々くん、なんて呼んだりするのはいつぶりだろう。
ちょっと照れ臭いようなもどかしいような、そんなくすぐったい感覚は初めてのことで、辿々しい呼び方になってしまった。

「ってことは結婚したらさぁ、我妻名前ちゃんになるんだよね…俺たち名前の相性的にもバッチリじゃない!!?」
「いや何言ってるの」
「え、そんないきなり冷たくなんないでよぉ…」

さっきまで可愛い感じの音出してたのに!とか何とか、また訳の分からないことを言い始めたのですっかり恥ずかしさも消し飛んでしまった。

「……善逸」
「な、なななんだよじいちゃん!」

さっきまで微笑ましく見守ってくれていた師範が、また少し不穏な気配を揺らめかせて口を開く。

「この娘は儂の大姪じゃ、手を出すならそれなりの覚悟を持て」
「…へ?」

間の抜けた声を上げた我妻くんはしばらくそのまま固まった後、俯いてふるふると震え始めた。
こりゃまた泣き出すかなと思いきや、くわっと目をひんむいて力の限り叫んだ。

「ハァアァアアア!!?こんなことある!?可愛い女の子と一緒に修行という名目で色々見たり触ったりできると思ってたのに半端に手も出せないなんてこんなの生殺しだよぉおおお!!!」


一息にそう言ってのけた下心丸出しの発言は、私の心をあっという間に冷やしていった。まったく、一瞬でも恥じらいを覚えた私の純粋な気持ちを返してほしい。
杖を振り上げた師範から再び脱兎のごとく逃げ出した我妻くんを遠巻きに眺めつつ、ひとつ大きなため息を吐いたのだった。

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