月夜見の愛に染まる

陽が傾き始めた頃に町を出てから休み休み歩いて、そこへ着く頃にはすっかり空が茜色に覆われていた。
門柱をくぐり敷居を跨げば、連なる瓦屋根とあの頃鍛錬で汗を流した広い庭が目に入る。
ここを出てから一年と少ししか経っていないのに、その佇まいはやけに侘しく感じられた。砂や埃で薄らと白んだ縁側の板張りに、師範はもういないのだと痛感する。

「お墓は裏手にあるって、景色の良い所にしてくれたみたいだよ」
「そう…きっと師範も喜ぶね」

弔う場所まで設えて下さったのは、先代のお館様のご意向だという。
師範の自刃が隊律違反に対する引責であるにも関わらず、ここまでの施しを残して下さるなんて。ついぞお目通りの叶わなかった事が悔やまれてならない。
神妙な気持ちを抱きつつ足を運んだそこには、整然と広がる桃園と未だ表皮の焦げついた大樹。そしてその片隅に、真新しい墓石が夕焼けに染められ佇んでいた。
花立にはまだぴんと茎を伸ばした小菊が活けられていて、行き届いた管理とその配慮に感服のため息が漏れた。

抱えていた風呂敷を下ろした善逸がその包みを解き、箱から骨壷を取り出す。小さく頷いて受け取ると、少しひんやりとした陶器の質感が手の平から伝わった。
元々小柄だったその体はこうして簡単に抱えられるほどに小さくなり、強く慈しい温もりももう記憶を頼りに思い出す事しかできない。
それでもずしりと腕にのし掛かる重みは、確かに師範の豪傑な姿を思い起こさせた。

露わになった空洞は文字通り空っぽで、物悲しさを覚えながら陶器を据え置いた。
骨壷の数なんて増えない方がいいに決まってる。でも、狭くて暗い所に一人なのは寂しいだろうな。
そんな矛盾の落とし所をこれから先もきっと探し続ける事になるのだろうし、元よりそのつもりで帰ってきたのだ、この場所に。

ただいま。
そう心の中で呟く私と対照的に、善逸は小さいながらもはっきりと言葉にする。

「帰ったよ、じいちゃん…兄貴」

鬼となって死んでしまえば、骨すら残らない。
今まで何体も鬼を滅してきたのだから、そんな事分かりきっていたはずなのに。
こんな想いをする事はこの先もう無いと言えるからこそ、胸に刻まれたこの虚しさが際立って仕方ない。茜色の残っていた空もとっぷりと暮れて、心ごと攫われてしまいそうになるのをじっと堪えた。

すると、宵闇に飲み込まれた影の代わりに墓石のてっぺんが艶めく。疑問に思う間もなく首を擡げれば、その光源が私達を見下ろしていた。
名前ちゃん、と呼ばれた声の方へ目線を移す。彼もまた、その青白い光に誘われていたようだった。


「お月見しよっか、縁側で」
「…私もそれ言おうと思ったとこ」


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屋敷の中は私達が居た頃と変わりなく、おかげで雑巾も難なく見つかった。
まるで昨日までずっと暮らしてきたかのような自然な動作で、埃っぽい床板を軽く吹き上げた。

「風、寒くない?」
「うん、むしろ気持ちいいくらい」
「だいぶあったかくなってきたよねぇ」

人二人分ほど空けて並んで座れば、いつか見たものと全く変わらない景色がそこにあった。
すっかり二人のお決まりとなったこの“お月見”だけれど、善逸から言い出したのは今回が初めてだ。
不思議な事に、普段は口に出せない事や立ち入った話も月明かりの下なら許された気になる。
心の奥まで見透かすような光。臆病な私はその神秘的な力を借りて、何度も彼の心根を垣間見た。
きっと彼も今それを望んでいる。だからこうして誘い出してくれたんだ。
案の定、善逸は気遣うような口調で話を切り出す。

「ここに来た事、無理してない?蝶屋敷の方が何かと便利だろうし」
「それは大丈夫…ただ、色々思い出して後悔しちゃったりは、した」
「後悔?」
「そもそも私と出会ってなかったら、鬼になる事も無かったんじゃないかって」

獪岳さんも、あの少年も。
誰かの人生を変えるほどの影響力が私にあるとは思えないけれど、意図せず運命を狂わせる歯車の一つになってしまった事は否めない。

それに、ほんの一瞬。全てが終わったら善逸は私とは別の道を歩むんじゃないか、なんて漠然とした空想が頭を過った事もあった。
現に、師範も兄弟子ももう居ない。あのまま本当に私が消えていたら、善逸の帰る場所はどこだったんだろうかと。
血鬼術で見せられたあの光景があるべき未来なんだとしたら、きっと彼は。

「俺は、名前ちゃんと出会えてよかったって思ってるよ」

はっきりとした口調でそう言った善逸は、少しだけ怒っているようにも見える。
これは多分、いや確実に音を聞かれた。ごめん、と漏らしかけた口を噤んで、言葉を紡ぎ直す。

「…ありがとう、私の事思い出してくれて」

すると善逸は何とも言えない複雑な表情を浮かべて、決まりが悪そうに口を開いた。

「実はさ…炭治郎の方が先に勘付いたんだよ、あいつ手紙見るや否や『何だか嗅いだことのある匂いがする』って言い出して」
「なるほど、匂い…さすが炭治郎」

あの手紙が手掛かりとなった事は聞いていたけれど、そういう経緯があったとは。
香りと記憶の結び付きは強いと言うし、加えてあの炭治郎の嗅覚だ。血鬼術も干渉できない盲点だったのかもしれない。

「先越されてたって後から気付いて、正直悔しかった」
「私は嬉しかったよ、見つけてくれたのが善逸で」
「…焦ってたんだ、まだ伝えられてない事があったから」

ちらりと一度だけこちらへ目線を送った善逸は、また前へ向き直る。

「覚えてる?あの時の約束」
「…うん、」

静かな月夜に交わした、あの約束。忘れるはずもない。
我儘を押し通して、彼の気持ちに待ったをかけた。想いの通った言葉を留める権利なんて誰にもないのに、私はそれを懇願という形で行使してしまったのだ。それも彼の優しさを織り込み済みで踏み切っているのだから、命令や支配よりもよっぽどタチが悪い。
とはいえ自分から申し出た手前引っ込みも付かず、内容が内容なだけに、どうぞ言ってくださいというのもおかしな話で。
未練を残さないよう作った壁に逃げ道を塞がれて、ずっと胸の中に後悔が渦巻いていた。


「ほんとはさ、柱になったら伝えるつもりだったんだ…自分の強さに自信が持てたら、って」

善逸が床に突っ張った腕に重心を預けると、板張りが小さく軋む。
すぅ、と息を吸う音が微かに聞こえた。

「だけど、強いからって何でも守れる訳じゃないんだよね」

ぽつりと空間に吐き出された儚く虚しい言葉とは裏腹に、彼の視線はしっかりと上を向いていた。
その先には雲の掛かった月が空に滲んでいる。

「生きてればこの先誰かとお別れしたり、大切なものを手放す時が来るかもしれない…でもそういう時にいくら自分が強くったって、きっとどうする事もできない」

奪われた、壊された、そう言って全ての不条理を鬼の所為にする事で、明確な仇を作りぶれない精神を保つ。
鬼という脅威を嫌という程知り日々命を晒していた鬼狩り達は、無意識の内にそうしてきた者も多いと思う。私もきっと例外なく。もしかすると、鬼を憎み滅する事である意味救われていたところもあったのかもしれない。
けれど、鬼という存在が無くなったからといって不幸や不運が無くなる訳じゃない。
悲しい別れや身を切られるような想いに駆られても、それを払拭する方法を知らない。時間が解決してくれたとしても、胸には大きくしこりが残り続ける。
奪わせない、壊させない、絶対に許さない、と、そんな叫びにも似た激情がいつの間にか自分の心まで脆くしてしまった。あれほど強さを追い求めた私達は、人間としては余りにも弱いのだ。
鬼を知らぬまま暮らす人々がどれだけ幸せな事か。鬼殺隊がその存在を公にしてこなかった理由が、今となって身に染みて分かる。

「でもね、考えたんだ、弱い俺でも出来ること」

何度も自分へ投げ掛け続けてきたその言葉が、善逸の口から出た事にはっとする。
彼は少し苦笑を浮かべながら、それでいてどこかすっきりとしたような口調で続けた。

「俺は名前ちゃんや蝶屋敷の女の子達みたいに誰かの為になるような事はできないし、炭治郎みたいな芯の強さも伊之助みたいな自信もないから…あんまり大層な事言えないけど」

そんな前置きの後、何でもないような普段通りの口振りで言葉を落とす。

「居場所が無いなら作ろうよ、一緒に、悲しい事も嬉しい事も分け合ってさ」

月明かりに照らされた横顔は柔らかく微笑んでいた。まるで、心配事なんて何もないよと諭すみたいに。
居場所というのは既に誰かの手によって形作られたもので、扉を叩いて招き入れてもらうものだと思っていた。いつも、他人の信頼関係を間借りしているような感覚で。
だから、作るだなんて事考えてもみなかった。自分の居たい場所に居たい人と居られる、それが本当の意味での居場所なんだろうか。

「じいちゃんの事聞いた時、とにかくけじめ付けなきゃってそればっかり考えてたけど…少しして思ったんだ、名前ちゃんに逢いたいな、って」
「あ…」
「誰かがそばにいるだけで気持ちが楽になる事ってあるでしょ?俺にとっては名前ちゃんなんだなって改めて思って…それを伝えたかったんだ、ずっと」

あの時殆ど衝動的に綴った四文字。それが彼の心にも等しく浮かんでいた事に、胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。
他人の役に立てないと彼は言うけれど、自分を過小評価し過ぎだ。少なくとも私は何度も救われている。
こんなにも気持ちを汲んで寄り添ってくれる誰かを、私は他に知らない。
こんなにも温かく穏やかな気配を、他に知らない。

「それなのに、誰かさんはいきなりいなくなっちゃうし!温めに温めた気持ちが爆発しちゃったらどうしてくれるのさ」
「へ…あ、えっと、ごめん…?」

大袈裟にため息を吐いていじけたように話す善逸に、しどろもどろになりながらも言葉を返す。
彼は拗ねたように口を尖らせたまま、ちくちくと痛い所を突いてくる。

「そんで夢の中に出て来たかと思えば、自分だけちゃっかり言いたい事言っちゃうんだもんなぁ」
「そ、それは本当にごめん」
「人には言わせなかった癖にずるいと思わない?」
「返す言葉もございません…」
「うぃひひっなーんてね、いいよ嬉しかったし!それにそういうところも…、」

途切れた言葉に顔を上げると、空へと向けられていたはずの琥珀色と視線がぶつかった。
ぐっ、と引き締まった表情からは先程までの緩さは消えていて、思わず息を呑む。
善逸は一度目を伏せて小さく息を吐き出すと、揺れる瞳をまたこちらへ向けた。


「好きなんだ、名前の全部が」


いつもそう。我妻善逸という人は。
私が自分から遠ざけたせいで今更欲しがれなかったものを、惜しみなくくれるのだ。

心から湧いて出た感情を濾過せず言葉にしたような飾り気のない気持ち。
名前ちゃんといるとそのままの自分でいられる、と言ったいつかの彼に対して、あれこれ疑心暗鬼になっていた自分が恥ずかしく思える。今なら、私もだよ、と応えられるのに。
可愛げのない照れ隠しにも、彼は忘れるわけがないと言い切った。そして言葉通り、忘れないでいてくれた。

衣擦れと板の軋む音を立て、善逸が空いていた距離を少し詰める。そして徐に懐から包みを取り出し、私の目の前に差し出した。
深紅の布を捲って晒されたのは、黄金色の装飾が目を引く一本の簪だった。

「俺の気持ち…受け取って、くれる?」

今まで色恋沙汰に全く縁のなかった私は、簪を贈る事の意味など知るはずもなかった。共同任務の時の彼の言動が気になって、出来心で宇髄さんの奥さん達に尋ねるまでは。
いつか贈るから、と確かに言ったあの日の彼を思い出しては幾度となく一人で顔を熱くした。もしもその時が来たらどんな顔でどんな言葉を返せばいいんだろう、なんて想像するだけで堪らなくなって。
でもいざその時を迎えると、驚くほど迷いは生まれなかった。

そっと、包みごと手に取った。
痛いほど胸が鼓動してじわじわと体が熱を持ち、彼の懐で温められていたそれを私の体温が上書きしていく。
逃げ出したくなるような羞恥心。でもそれ以上に、込み上げてくるものがあった。
雁字搦めにした心が解けて、つかえのなくなった声帯を震わせる。

「私も善逸が好き、…ずっと一緒にいてほしい」

素直に吐き出した思いの丈は、静寂の合間にふわりと溶けた。
ぐんぐんと上がっていく熱を俯きながらやり過ごす。これ以上はいよいよ体がおかしくなってしまいそうだった。
何も言葉が返ってこないのは、噛み締めているのか固まっているのか。困惑や拒絶ではない事が分かるだけに、じれったくてもどかしくて。
意を決して顔を上げれば、そこにはとろとろに蕩けた甘い表情で目尻を下げる彼がいた。
私だけに注がれる、愛おしさを湛えた眼差し。私の大好きな、彼。

その顔を見た瞬間、どうしようもなく胸が苦しくなった。
言葉では伝えきれないほど大きく膨らんだ想いに、堪え兼ねた涙腺がいとも簡単に崩壊してしまった。
ぽろぽろととめどなく溢れ出す雫が手元の簪を濡らす。つるんとした表面を滑り落ちる端から次々と包みの布地に染み込んで、その赤が更に濃く滲んでいく。
ふわり、と覆われた暗がりの中、均しく並んだ鱗模様がぼやけた視界いっぱいに広がった。
包むというには優しすぎて、抱くというには強すぎる、そんな加減で回された彼の手がゆっくりと私の背を擦る。

「すっかり泣き虫になっちゃったねぇ」
「善いつの、せいだよ、」
「うん」
「優しいから…っ、わたしを、甘やかすからっ、」
「うん、」
「…っ…自分だって、泣いてるくせに、」
「…っ、うん、」

ぐず、と頭上で鼻を啜る音が聞こえて、小刻みに震え出した背中を抱き返す。
善逸が泣くのなんてもう見尽くしたと思っていたのに。嗚咽を堪えて静かに涙を流すその姿に治まりそうだった波がまた押し寄せて、肩口に顔を思いきり埋めた。
いま生きている喜びと、たくさん失った切なさと。そんな相反する感情が入り混じったぐちゃぐちゃの心に、ただそっと寄り添う。善逸が今までそうしてくれたように。
これからは、そうやって生きていく。そうやって生きていいんだ。


「はぁ…もうほんっと格好付かないよなぁ…」
「…そんなの、今更でしょ」
「んふふ、そういう辛口なところも好きだよ」
「そ、んな、簡単に言わないで、」
「言うよ!今まで我慢してた分、もう勘弁してってくらいに」

んん、と改まったように一つ咳払いをした善逸は、着物の合わせをきゅっと直す。
つられてこちらも軽く姿勢を正すと、真っ直ぐに私の目を見つめて言い切った。


「約束する、もう二度と一人にしないって」


今まで交わしたものとは比べ物にならないほど壮大で、途方もなく不確実で。
それでも、いっとう嬉しい約束だった。

濡れた頬に張り付いた髪を払って、そのままうなじから持ち上げ後ろへ流す。乾き切らない水滴を拭って簪を差し出せば、善逸は一瞬息を呑んで小さく頷いた。
簪を手にした彼に背を見せるようにして体の向きをずらすと、少しだけ震える指先がゆっくりと私の髪を撫でる。そして耳の高さ辺りで結えた髪留めの根本に、そっと簪を差し込んだ。
硝子細工を扱うような繊細な手つきで、慈しむように、愛おしむように、それはそれは優しく。
彼の方へ向き直ると設られた装飾が微かに揺れるのが分かって、まるで神聖な儀式でも執り行ったような気分になる。
髪留めのほんの僅かな重みを感じ取った時、命を懸け続けた今までのどんな日々よりも生きている実感が湧いた。


「…約束ね」

私の差し出した小指に視線を落とした善逸は、それまでの凛とした表情をゆるりと和らげた。
引っ掛けるようにして繋がれた指は、幼い子どもの指切りみたいに上下に揺れる。
そのなんとも言えない擽ったさに小さく笑うと、伸びてきたもう片方の手のひらに小指どころか他の指もろとも包み込まれてしまった。

善逸の手、こんなに大きかったっけ。
手の甲から指の一本一本まで確かめるようにじわりじわりとなぞられて、そんな感慨に耽る余裕もどこかへ飛んで行った。
手のひらの窪んだ所から割り込んできて、未だ指切りの形で固まったままの私の手を暴いていく。その指はつい今しがた私の髪を優しく扱ったものと同じはずなのに、信じられないくらい扇情的で。
解かれた指は五本とも余す事なく絡め取られてぴったりと密着する。指と指が擦れ合う感覚に、一気に心拍数が上がったのが分かった。

「…ぁ、」

その殆どを吐息が占めるような掠れた声が小さく漏れた。私の小指と結び合っていた彼の手が、いつの間にか私の首筋に添えられている。
けれど今まで散々逃げ続けた私の本心も漸く腹を括ったようで、その証拠に、絡まり合った指をさらに深く握り込んでいた。

それを合図に、甘い熱を帯びた琥珀色が迫る。
視覚も、聴覚も、五感を司る全ての神経が目の前の彼へと注がれた時、月明かりの映し出した二つの影が重なった。

触れた所から蕩けてしまいそうなほど熱くて、酩酊状態の脳がくらくらと揺れる。
全部、聴こえてしまえ。この激しい鼓動も、好きの気持ちも、甘えたい弱さも。
ずっと押し留めてきた私の全部を、取り零さず受け取ってほしい。


「心配しなくても、全部貰うよ」

どのくらいそうしていたのか、名残惜しそうに顔を離した善逸が照れ臭そうに笑う。

「期待してる」
「…もう待ったは無しだからね」

そう、どんなに祈っても願っても時間はお構いなしに進み続けて、待ってくれる事なんてない。これから先も季節は巡る。時代も、運命も、想いも。
だから私も歩き続けようと思う。流れるままに、思うままに。たまにふと立ち止まって振り返っても、それで遅れを取ったとしても、もう永遠に置いていかれる事はないんだ。
これからは一人じゃないから。あなたがいるから。

もう一度、自分から唇を寄せた。
一瞬触れただけのその口付けに善逸は面食らった顔をして、それから心底嬉しそうに微笑む。
滲んだ琥珀色いっぱいに映っていたのは、同じように頬を緩ませる私の顔。

他人任せでも夢幻でもない。自分で選んだそれが確かにいま目の前にある。
たくさん遠回りして辿り着いたこの瞬間こそが、きっと。


「しあわせ、」


あっという間に掻き消えた小さな小さな囁きに、善逸は目を細めて頷いた。出会った頃のままの穏やかな笑顔と蒲公英色の気配を携えて。

緩く吹き抜ける風が、更にその記憶を運んでくる。あの桃園は家主と兄弟を失っても尚、その壮観さを失う事なく実を生し続ける事だろう。
綻んだ蕾が一斉に花開き、またあの甘く瑞々しい香りを漂わせるその日に思いを馳せて。

待ち望んだ春は、もうすぐそこだ。



月詠の藍に染まる/完


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