果てなく廻って

ただいまというべきか、懐かしむべきか。
久方振りに訪れたそこは所々様変わりしていて、嬉しいような寂しいような複雑な気持ちになる。
両親を失ってから一度も足を踏み入れる事のなかった、私の生まれ故郷。もしかしたらもう一生縁がないのでは、とまで思っていた。それが意外にもたった五年越しで実現するとは。

あの血鬼術から生還してひと月ほど蝶屋敷で過ごした私は、今回とある目的を持ってこの地へ訪れた。私にしか出来ない、鬼殺隊士としての私がやるべき最後の任務。
鬼舞辻無惨の死をもって鬼が全て消滅したとされ、事実、鬼の出現や被害も全く聞かなくなった。藤襲山に放たれていた鬼達も一体残らず消え去っていたという。
けれど、それはあくまで無惨に血を分け与えられた鬼の話に限る。私に執着していたあの少年鬼は、自らの力で鬼になったと確かにそう言った。それに血鬼術は破ったものの、鬼自体は結局討ち取れていないままだ。
あれから何の干渉もないにしても、確実にこの目で確かめるまでは安心できない。推測の域を出ないけれど、あの鬼がまだどこかに居る気がしてならなかった。


「ここが名前ちゃんの故郷かぁ」
「至って平凡でしょ、これでも五年前に比べると華やかになったんだけどね…善逸のいた街と比べると人もお店も少ないし」
「そう?趣があって良い町じゃない」

しみじみと呟く善逸の背には、師範の骨壷がしっかりと背負われている。
お骨やお墓の事から師範のお屋敷の管理まで。私が血鬼術で身動きの取れなかった間、本部との橋渡し役としてそれら全てを善逸が請け負ってくれていた。
そんな経緯もあって、この個人的な旅にも当たり前のように同行してくれている。今更遠慮するのも無粋だろうと好意を素直に受け入れられているのは、そういう彼の嫌味のない思い遣りによる所が大きい。
私の頭も少しは柔軟になったのかな。彼に甘える決心がついた、とも言うけれど。

「でも、何でその鬼がここにいるって分かるの?」
「急患で運ばれたのがうちだったって事は、近くに住んでたんじゃないかと思って」
「あぁそっか、それで」
「うん、あの子が暮らしてた場所…還るとすればきっとそこだから」

もしも師範がいなかったら。善逸とも出逢わず鬼殺隊にも入らず一人孤独に生涯を終えていたら、私もきっと自分の家に還っていたと思う。
大切な家族と過ごした、唯一の居場所に。

様相が変わっても体が土地勘を忘れる事はなかった。迷う事なく目的地に辿り着き、足を止めて遠巻きにそこを眺めた。


「ここ」
「…そっか、」

言わずとも察した様子の善逸は小さく相槌を打って、少し後ろで立ち止まった足を数歩前へ踏み出す。ぴったりと私の隣へ立つと、建物へ出入りする人達を同じように黙って眺めていた。

空き家となったこの診療所を別の町のお医者さんが引き継いでくれた事は、師範の元へ引き取られて暫く経った頃に聞いていた。
外観こそ変わったものの、今もこの町の人々が日々健やかに暮らすための要となっているようだった。


「君…もしかして、苗字さんとこの?」

名前を呼ばれて振り返ると、その声の主は見知らぬ中年の男性だった。
手にしている紙袋はおそらく処方された薬だろう。この診療所の患者さんという事は、もしかすると以前うちに通ってくれていたのかもしれない。

「あ…はい、名前です」
「おぉやっぱりそうか!その瞳の色に覚えがあってね、こりゃあまた…すっかり綺麗なお嬢さんになったなぁ」

感慨深そうに目を細める男性に、少し気恥ずかしさを感じながら会釈する。
ちらりと横目で見た善逸も何やら微笑ましそうにこちらを見つめてくるものだから、肘で軽く小突いてやった。

「元気そうでなによりだよ、親戚のお爺さんのとこへ引き取られたって聞いたけど」
「はい、お陰様で…大叔父は先日亡くなって、これからお骨を納めに行くところなんです」
「そうか…それは大変だったね、」

善逸の背負っているものが骨壷だと分かると、男性は手を合わせてくれた。
それに頭を下げて応えつつ、話を切り出す事にした。私がここにいた頃を知っているという事は、あの少年の事も何かしら聞いているかもしれない。

「不躾にすみません、実は人を探してまして」
「ん?この町の人かな?」
「はい、おそらく…私と同じくらいの歳で身寄りのない少年なんですが、心当たりはありませんか?」
「あぁ…その子はね、もうこの町にはいないんだ、」

男性は少し口調を落として目を伏せる。少年がこの町で暮らしていた事は間違いないようだった。

「暫くは近所の奥さん達が面倒を見ていたんだが、ある日突然居なくなってそれきりだ」
「そうでしたか、」
「父親も不慮の事故で亡くなったそうでね、今頃どうしてるのか…どこかで元気にやってるといいんだけれど」
「…そう、ですね」

あの子が鬼となり実の父親をも殺めた事なんて、今となっては知る由もない。誰も知らないんだ、彼の苦しみも悲しみも憎しみも。
だからせめて、彼が生きていた証を記憶に焼き付けておきたかった。私がその原因だったなら、尚更。
ただの罪滅ぼしだ、と拒絶されるかもしれない。けれど、一人きりで不条理さに苛まれ続けるのは余りに不憫で、切ない。

「その子が当時暮らしていた家はどちらに?」
「家?えぇと…それならそこの角を曲がって川辺に突き当たった所だよ、今は職人さんの工房になっているけど」
「ありがとうございます、本当に助かりました」

最後にもう一度、診療所を目に焼き付ける。
これでここに来る理由も無くなった。かつての居場所に心の中で別れを告げれば言いようのない寂しさが広がって、振り切るように踵を返した。
ここはもう、私の帰る場所じゃない。


「いってらっしゃい」

背中に掛けられたその言葉が無性に胸を打って、踏み出した足が止まる。

任務で近くまで寄る事はこれまで何度もあったし、来ようと思えばきっと来れた。足が遠のいた原因なんて自分の弱さに他ならない。
怖かったんだ、戻れない日々を思い出す事が。戻りたいと後悔してしまう事が。

それでもこの町は、ここにある。時が流れても、暮らした家がなくなっても、家族を亡くしても。
私が生きてきた事実は、記憶は、私が目を背けない限りずっとここにあるんだ。そう思うと、過去に付き纏う仄暗い影が少しずつ明るく照らされていく。
忘れなくていい。抱えたままでいい。陰鬱とした思考も漠然とした恐怖も、前を向く為の糧になるのなら。


「いってきます」


振り返って応える私に、男性は小さく手を振ってくれた。
前へ向き直るとまたもや安心したように眉を下げる善逸と目が合う。肘鉄の代わりに、今度はゆるりとはにかみ返したのだった。


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男性に聞いていた通りそこは小さな工房だった。家の奥からは時折何か作業をする音が聞こえてくる。
通りに面した一角は商店にもなっていて、そこで作られた工芸品などが売られているようだった。
名前ちゃん、と私の肩を叩いた善逸が、商品の陳列された台を指差す。

「似てると思わない?あの鏡と」
「…ほんとだ」

そこに並んでいたのは、天然石で作られているであろう色とりどりの鏡。一つ一つ色合いが異なるものの、あの時割れてしまった手鏡とよく似た作りだった。

「いらっしゃい、良かったら見ていってちょうだいね」

この店のおかみさんだろうか、気さくな雰囲気の女性が店先に顔を出す。

「ここで売られてる鏡は、全てこちらで作られたものなんですか?」
「お目が高いわね、それうちの看板商品なの!有難いことに他の街にも卸させてもらってるのよ」

思わず善逸と顔を見合わせる。
あの鏡が他の私物と一緒に消えなかった事、術が解けた時に割れてしまった事。妙だと感じていた点と点が線で繋がった気がした。
鏡面がなくなり枠組みだけとなった瑠璃色を懐から取り出す。大変な目に遭った元凶だとしても、手放すという選択肢はなかった。

「うちの鏡を使っていただいてたのね、どうも有難う」
「別の街の小間物屋で少し前に買ったんです、お気に入りだったんですけど…」
「もし時間があるなら直させてもらえないかしら?お代は結構ですから」
「え?あ、いやそんな、お金はお支払いします」

女性は鏡を陽の光に翳すと、角度を変えながらじっと見つめる。

「大切に使っていただいてたのが分かるもの…これほど職人冥利に尽きる事はないわよ、ねぇあなた!」
「おう全くだ、ちょっと待ってておくれお嬢さん」
「お茶でも用意するから、ささ、上がって」
「へ、あっはい、」

ひょい、と顔を出したかと思うと職人さんがあっという間に私の鏡を持って奥へと引っ込み、女性はにこやかな表情で履き物を脱ぐよう促してくる。
有無を言わさぬ連携であれよあれよとお茶をいただく運びになってしまい、善逸と二人して苦笑を浮かべた。

家の中へ案内される内、家屋の造りからして増築されているのが見て取れる。ちらりと見えた工房や歩き進めた廊下と比べ、通された客間は年季の入り方が明らかに違っていた。
そしてほんの微かに感じる、あの少年鬼の気配。

「古くってごめんなさいね、建て替える時にできるだけ元の家を壊したくなくて」
「じゃあ、ここは以前建っていた家をそのまま?」
「えぇ、昔孤児の男の子が住んでいたみたいでね…だから残しておきたかったの、いつ帰ってきても良いように」
「……」
「ここに工房と店を作ったのも人が集まるようにと思ってね、ほら、いざ帰って誰もいないんじゃ寂しいでしょう?」


同じだ、と、先ほど目にしたばかりの実家を思い出す。
人の願いや想いは潰えることなく、きっと誰かの元へ受け継がれていく。失った事ばかりを嘆いていたあの頃の自分に聞かせてやりたい。

「きっと、喜んでくれると思います」

私の気持ちを代弁するかのように、不意に善逸が言葉を溢す。
その瞳は優しく細められ、それでいてどこか寂しげにも見えた。

「その子だって独りになりたくてなった訳じゃないんだし…誰かが気にかけてくれるってだけで、救われる事もあるんじゃないかなって…俺は、そう思います」
「…えぇ、そうね、」

有難う、と小さく笑った女性に善逸は少し恥ずかしそうに頭を下げて、それから膝の上の骨壷をぎゅっと抱え直した。
彼もまた、誰かの想いに救われた人だ。親のいない善逸にとって、師範の存在は私でも窺い知れないほど大きなものだったのだと思う。
血の繋がりさえも凌駕した恩義は、師を亡くした今でも強固な信念として心に据わっている。

それにね、と女性は言葉を重ねる。


「いつか、母親に会いに戻って来る気がするの」
「母親に…?」
「えぇ、お墓が裏手にあるのよ、良かったらお線香あげてって貰えるかしら」

女性が障子を開けると、裏庭の隅にぽつんと立てられた墓石が見えた。
病に苦しみ自ら命を終えた母と、その嘆きを憎しみに変え鬼へと成り果てた子。例え人の道を外れたとしても、あの少年が母親の眠る地を放り出すとは思えなかった。

「是非、あげさせてください」
「あら本当?そう言ってくれて嬉しいわ、たまには違う顔ぶれでも来ないとつまらないだろうからね」

その冗談めかした言い方に優しさと思いやりが滲んでいて、それはお墓の状態からも見て取れた。綺麗に手入れが為され、お花も萎れている様子は微塵もない。毎日きちんと目を掛けているのは一目瞭然だった。

「お線香に蝋燭にマッチ、一通り入ってるから」
「はい、お借りします」
「工房の様子を見てくるから好きに過ごしててね、鏡が仕上がったら知らせるわ」


女性が立ち去るのを見送って、墓前へと歩み寄る。
客間で微かに感じていた気配と同じものが、墓石の傍で小さく揺らめくのが見えた。

「きっとここにいる」
「うん…すっごく小さいけど聞こえるよ、鬼の音」

女性に手渡された袋からマッチと蝋燭を取り出して火をつける。数本抜き取った線香を束にして翳せば、燃え移った灯火から白煙が立ち昇った。
香炉にそっと供え、目を閉じ静かに手を合わせる。

この決して広くはない町で、それも自分とそう歳の変わらぬ子どもに起きた哀しい経緯。
我が子に要らぬ不安を与えないようにと、両親が私の耳に入らないよう立ち回ってくれていたのかもしれない。万が一知ったとしても、私みたいな子どもにどうこうできた訳ではないのも分かっている。
それでも、こんなにも身近な悲劇を何も知らないまま生きていた事に愕然とした。どれほど自分が守られていたか、こんな形で今更思い知るなんて。


控えめに漂っていた線香の香りが一瞬強まって、反射的に目を開く。
真っ直ぐに昇っていた線香の煙がふわりと細く棚引いたかと思えば、数歩先に少年鬼が姿を現した。
容姿はあの夜と同じだけれど、あの時のような敵意や殺意は感じられない。ただ黙ってそこに佇んでいるだけだった。
善逸に目配せをすれば、こくりと頷いて席を外してくれた。


「お母さんの事は、ごめんなさい」
「……」
「それを伝えたくて会いにきたの」

失った悲しみは失った者にしか分からない、そんな風に心を閉ざした時が私にもあった。余りに唐突で理不尽な現実から逃れるために、誰かのせいにしたり自分を責めたり。
けれどそれで埋まるほど心の傷は浅くなくて、結局何も考えないように殻に閉じ籠ってしまっていた。
そんな私に周りの大人達が掛けてくれたのは、いつも似たような言葉で。

『ごめんなさい、助けられなくて』
『こんな事しかできなくてごめんね』

何も謝る必要のない人達が、罪の意識を滲ませながら幾度となくそんな事を口にする。
心苦しさを感じる一方で、その言葉に確かに救われていた。私の為に心を痛めてくれる人がいるのだと、そう思うだけで気持ちが少しだけ楽になった気がした。それに応えるべく、自分のやるべき事やあるべき姿を見つけ出す事もできた。

だからこそ私は目の前の少年へ、同じように言葉を掛ける。
もうこれ以上自分を見失って欲しくなかった。

すると、口を閉ざしたままだった少年がぽつりと呟いた。

「心の病は、薬だけじゃ治せない…そんな事分かってたんだ、はじめから」
「…受け入れたくなかったのね」

俯き気味に小さく頷く様子は随分と弱々しい。
けれど前髪の間から覗く瞳は、あの夜見たそれよりもずっと強く光を宿していた。
きっとこの子はもう、全部分かっている。自分のやるべき事も、あるべき姿も。
その背中を押してくれる誰かを、ずっと待っていたのかもしれない。


「鬼となり人を殺めてしまったあなたは、きっとお母さんと同じ所には行けない…それがたとえ大切な人の為だったとしても」

言い聞かせるように、諭すように。
犯した罪の大きさを抱えて、償って、そしていつか赦される時が来たのなら。


「今度こそ、最後まで大切な人の傍にいてあげて」

生まれ変わったその先を自分で選ぶ事なんてできない。道を間違えない保証もない。
でも、その時に傍に居てくれる人がいるのなら。互いの想いを、過ごせる時間を、大切に噛み締めて生きてほしい。
もう二度と後悔しないように。この子も、私も。


「…僕は、君の大切な人を…っ、」

少年は言葉を詰まらせたかと思うと、くしゃりと顔を歪ませる。震える手を握り締めて、やがてぽろぽろと涙を零し始めた。

父が優しかった頃の笑顔の絶えない母が大好きだった。
貧しくても家族みんな一緒にいられるだけで幸せだった。
ただ両親といつまでも笑い合って楽しく暮らしたかっただけなんだ。

そんな胸の内を嗚咽混じりに吐き出した後、少年はゆっくりと顔を上げた。

「君が、羨ましかったんだ……ごめん、ごめんなさい、」

謝罪の言葉を合図に、少年の体が少しずつ崩れ始めた。まるで花びらが舞い散るようにはらはらと足元から風に攫われていく。

泣き濡れた目元を擦るその姿はあどけなく、年相応の男の子だった。
もしもこの子が道を違えず、善良な大人達に助けられながら暮らせていたなら、歳の近い私とも仲良くなれていただろうか。
そんなあり得たかもしれない未来を、そっと心の奥に仕舞い込んだ。

「またね、」

さよならではなく、そう伝えた。
またいつか会えたその時は、何のしがらみも無い世界で笑い合えていますように。そんな願いを込めて。
もはや顔の上半分だけとなった少年と視線がかち合う。
最期に目にしたのは、優しく細められた目元だった。


跡形もなく消えてしまったその姿かたちは、いつまで記憶に残り続けるだろうか。今となっては土に染み込んだ涙の跡だけが、彼がここに居た唯一の証。
さらさらと乾いた砂がその水分を奪っていくのを、いつまでも見つめていた。


「…お待たせ、」

少し前からそこにいた、と思う。何も言わず、何も聞かず、最期まで見届けてくれていた。
振り返って呼び掛ければ、彼は小さく頷いていつものように優しく微笑む。

「はい、綺麗に直ったよ」
「あ…」

善逸が両手で包み込むようにして手鏡を差し出す。
職人さんの厚意で磨き直してくれたのだろう、装飾の色合いも新品同様の輝きを取り戻していた。
確かに感じる重みと滑らかな感触に、ほっと小さく息を吐いた。

「そんなに気に入ってたんだね」
「…大切な人がくれた贈り物だから、ずっと大事に持ってたいの」

一瞬目を見開いた善逸は、思いを巡らせるように視線を落とす。
次にこちらへ向けられたその瞳は、少しだけ潤んだ穏やかな琥珀色で。


「帰ろっか、名前ちゃん」

そう言って差し伸べられた手に、いつかの両親の姿を見た。
その手を何の躊躇いもなく握っていた頃の私にはもう戻れないけれど。
父ほどは大きくなく母よりも皮の厚いその手の平を、私はもう拒む理由はなかった。

迷いなく重ねた手は、泣きたくなるくらいに温かかった。

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