エメラルドに恵風

季節の移り目、風の運んでくる香りが変わる頃。
この時季は出来るだけ部屋にいる時間を長く取って、静かに意識を窓の外へと集中させる。
待ち遠しいような、後ろめたいような、そんな複雑な気持ちで、今日も。


執事が他の部屋の戸締りの最終確認とメイドへの伝達を済ませる僅かな時間だけが、彼の目の届かない唯一の隙間。
夕食後から就寝までのその限られた時間の中だけで、ある人物と、密かに言葉を交わすことができる。


こつん、と窓に何かが弾かれる音。
その秘密の合図と共に、音を立てないようそっと窓を開ける。


「炭治郎、」
「お久しぶりです、名前お嬢様」

薄汚れた上着を羽織った彼は、見る度に小さくなっていくように感じる。
それでも以前と変わらないのは耳の奥に優しく響く憂いのある声と、穏やかな顔つき。

「お変わり無いようで、安心いたしました」
「えぇ、そっちも元気そうね」
「はい」

本当は堂々と玄関から迎え入れて、部屋でゆっくりお茶でもしながら談笑したいところだけれど。
残念ながら、彼にはそれが許されない。


彼、炭治郎はこのお屋敷の庭師だった。
いつもどんな時も、窓から見える庭の景色は心を癒してくれた。
特に彼が念入りに手入れしていた薔薇園は、今でも目を瞑るとその色とりどりの美しさが鮮明に脳裏に蘇る。

「やっぱり薔薇は赤くないといまいちぱっとしないわよね」
「はは、木香薔薇にだって別の美しさがございますから」

その記憶とは全く別の、黄色やクリーム色しか花を付けない品種らしい、新たに植えられた薔薇。
その棘一つないつるつるの茎もあまり好きではなくて。

「棘があるから綺麗なのに」
「…私も、そう思います」

ぽつりと零したその言葉には切なさが滲んでいて、彼は一瞬はっとした顔になり俯いた。

「こんな事、私が言うといよいよ罰があたりますね」
「もう、そんなわけないでしょ」
「…申し訳、ございません」
「それ以上謝ると怒るわよ」


あたしが指先から血を出したあの瞬間、彼の運命は変わってしまった。
誕生日を迎えた彼に、彼の大好きな薔薇を手折ってあげようと、ただそれだけだったのに。

あんな遺言を遺したお祖父様を恨んだ。決断を下したお父様に噛み付いた。ただ黙っているだけの善逸に当たった。何より、自分自身を責めた。

誰が悪いのか、何が悪いのか、なんて、こんな狭い世界に閉じ込められたちっぽけなあたしなんかでは一生理解できないのかもしれない。
けれど、こういう形であっけなく疎遠になってしまうことに恐ろしさを感じた。
全部、あたしが中心になって渦巻いているというのに、一向に自分の思うように物事は進まない。何もできない自分が悔しくて、悔しくて。

ぎり、と奥歯を噛んでやり過ごす。
せめてこうして話せる間は楽しい時間を過ごしたい、そう思い口を開く。


「そうそう今度ね、お父様に外出許可を増やしてもらおうと思ってるの」
「そうでございますか、お許しいただけるといいですね」
「うん、だから今度は炭治郎のとこにも遊びに行くから!」
「…お嬢様、」

炭治郎の笑顔が消えた。
少しためらった後、こちらを向いた彼の瞳は悲しそうに沈んだ色で。


「この街を、出て行くことに致しました」
「…え、」


どうして、と聞くのはあまりに無粋だった。
そんなのわかりきっている。食事から生活費に寝床まで、うちで賄えていたものが急になくなったのだ。
それに、遺言に背くという禁忌を犯すことでこの小さな街にその噂は少なからず広まっていたことだろう。そんな状態で平穏に暮らしていこうなんて、そもそも無謀な話だったんだ。


「炭治郎、」
「だから、お会いできるのもこれで最後になります」

悲しみに暮れた瞳を隠すように無理に笑ってみせる炭治郎に、驚きを通り越して腹が立つ。
何笑ってんのよ馬鹿じゃないの。


バタン、と大きな音を立てて、勢いよく部屋の扉が開いた。
そこにはあからさまに炭治郎に敵意の眼差しを向ける善逸が立っていた。
いつもはいちいちノックするくせに、こういう時に限っていきなり入ってくるなんて。


「名前お嬢様から離れろ」
「っちょっと、善逸!」
「離れなさい」
「…はい、」
「善逸!あたしが招き入れたの、炭治郎は悪くない!どう過ごしてるか気になって、それで、」
「お嬢様、」

どうにか穏便に済ませたくて炭治郎を庇おうとすれば、彼はそれを制してから、微笑みを携えたまま黙って首を横に振った。
全てを悟って諦めているような、そんな瞳で。


「本来なら不法侵入で現行犯だが…お嬢様に免じて今回は見逃してやる、その代わりもう二度と姿を見せるな」
「はい、元よりそのつもりでした」
「、炭治郎!」
「…名前お嬢様、どうか、いつまでもお元気で」


そう言い残し、くるりと背中を向けた炭治郎はゆっくりと、でも確実に距離が遠くなっていく。


「なによ、」


伸ばしかけた手が震えて脱力する。
こんな結末が、お祖父様の望んだあたしの幸せ?


「こんなの、おかしいでしょ、」


別に、なかなか街に降りられなくたっていい。学校に行けなくたっていい。この際、友達だってできなくていい。自分がつまらない思いをするくらいどうってことない、いくらでも我慢する。

でも、

あたしのせいで、誰かが何かを失うなんて、そんなの、


「っ、ふ、」


心臓がずきずき傷んで、ぼろぼろと涙が溢れた。
その雫は次々に足元へ落ちて、赤い絨毯にシミを作っていく。

傷一つつけるな、なんて。
どれだけ身体がきれいでも、心は傷だらけじゃない。


「っ!お、お嬢様っ、」

ひどく驚いた様子の善逸に構わず、泣きじゃくった。涙を流すのなんて、いつ以来かも思い出せないほど久しぶり。
そう考えると善逸の前で泣いたのはこれが初めてかもしれない。

しゃがみこんだあたしの肩を支える彼の手は暖かい。けれど、その暖かさがいまは逆に辛い。
静かにそっと、その手を払った。

「っ、ぜんいつ、出てって、」
「お嬢様…、」
「今日は、ひとりで寝るから、」
「…かしこまりました」


善逸が部屋を出て行った後もしばらく窓の外を眺めて立ち尽くしていたけど、遠ざかっていった背中はもう見えなくなってそれきりだった。
窓もカーテンも全部閉めて、ベッドに倒れ込んでまた泣いた。




ずきん、という軽い頭痛で目が覚めた。
泣き疲れいつの間にか眠ってしまっていたようで、身体が重くて起き上がれる気がしない。
久々に感じる目の周りの圧迫感からして相当酷い顔になっていることだろう、鏡を見るのが若干怖い。


コン、コン、コン、と扉を叩く音。

じっとその扉を見据えるが、返事をする気になれない。
ていうか何事もなかったかのようにまた普通にノックしてんじゃないわよ。
無視を決め込むことにして、再び毛布に潜り込んだ。


「名前お嬢様、お客様がお見えです」

こんな朝っぱらから、と文句を垂れる気まんまんで壁にかかった時計を見上げると、その針は2本とも上を向いていて、どうりでお腹が空いたわけだと納得する。
ガウンから適当なワンピースに即座に着替えて髪をとかし、軽く息を吐く。


「…お通しして」

「失礼、いたします」


ためらいがちに発したその声は、善逸のものではなかった。
あ、と思う前に扉が開いてその姿を視覚で捉える。


「たん、じろ、」


一気に目が覚める。
戸惑うあたしを他所に、彼は丁寧に扉を閉めた。

「ど、どうしたの、街を出て行くって昨日、」
「はい、そのつもりだったのですが、」
「もう二度とここには来ないって、」
「そう思っていたのですが、」
「なに、なんで、なにがどうなったの!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください」

状況が把握できず前のめりになるあたしを静止して、炭治郎はくすくすと楽しそうに笑った。
ますますよく分からなくて、ぽかんと口を開けたまま彼を見つめる。


「…善逸が、旦那様に頼み込んでくれたそうです」
「え、」
「俺が動いた事はお嬢様には言うな、と釘を刺されたのですが…、かなり混乱してらっしゃるようなので」

絶対怒られるので知らない体でお願いします、と懇願する彼を見て、なんだか急に肩の力が抜けてため息が出た。
そして、大事なことに気がついた。お父様に頼み込んだ、ということは。

「またうちで働ける、ってこと?」
「はい、またお世話になります、」

そう言って深々と頭を下げた彼が、向き直って口を開いた。


「…今日もお早いですね、お嬢様」


それは、かつて彼の口からよく聞いた言葉。
毎朝早くに目が覚めて、窓から庭を眺めるあたしにかけてくれる、朝日を受けた彼の穏やかな声。


「…あなたこそ、」

そう返したその言葉も、久々に口にしたご挨拶。
じんわりと、心にあたたかいものが広がるのがわかる。


「っていうかなによそれ嫌味?」
「はは、もうお昼でしたね」
「…昼食、一緒にどう?」
「え、よろしいのでしょうか、」
「もうひとり分の食事くらいどうってことないわよ、…ね、あたしの優秀な執事さん?」

扉の向こうで盗み聞きしているであろう善逸に会話を振れば、ばたばたと慌ただしく足音が遠ざかっていった。

「ほらね、これで大丈夫」
「あ、ありがとうございます」
「いいの、たださっきまでの会話全部筒抜けってことね」
「……覚悟しておきます…」

そう言って苦笑いを浮かべる炭治郎が可笑しくて思わず笑うと、つられて彼も笑う。
鼻をくすぐる薔薇の香りが笑い声に溶け込んだ。

(よし!早急に、薔薇を全部取り替えるわよ!)
(いえ、このまま私にお世話させてください)
(えー、炭治郎も棘のある方が好きなんでしょ)
(…あの薔薇の、花言葉をご存知ですか)
(いいえ、どんな言葉なの?)

木香薔薇/「幼いころの幸せな時間」