朝ごはんもそこそこに、家を飛び出した。
帰宅部であるわたしに朝練なんてものは縁のない生活だったし、いつもは登校時間ギリギリまで家の猫と戯れているというのに、今日ばかりはそんな事してる場合じゃない。

それというのも、起き抜けにお母さんと交わした会話に尽きる。


『あんたの学校、先生の異動があるみたいよ』
『へえ、誰?』
『ええと…養護教諭の我妻先生、ですって』
『……は?』
『産屋敷高校って県外の高校ね、たしか女子校じゃなかったかしら』
『ちょ、ちょっと見せて!』

お母さんから引ったくるようにして新聞を開くと、そこには確かに我妻善逸と記載があって、まだ半分寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。

『我妻先生って、前にあんたが熱出した時に病院まで付き添ってくださった先生よね』
『…うん、』
『一言ご挨拶でもしておきなさいね、明日が離任式なんでしょう?』
『…っ、ごめん朝ごはんいらない!いってきます!』


なんで、どうして、我妻先生が。
何か事情があるのかもしれないし、教員の仕事ってそういうものなのかもしれないけど、せめて一言くらい言ってくれたっていいじゃないか。
こないだの金曜に話した時は全然そんな会話も素振りもなかったのに。ともかく先生の口から直接聞かないと、納得できないし信じられない。信じたく、ない。
先生がいなくなるなんてそんなの、嫌だ。

まだ人もまばらの校門を抜けて、渡り廊下を一番奥まで息を切らしながら走り抜ける。
そのまま勢いよく引き戸を引くと、ばん、と大きな音が廊下に響いた。


「っ先生!!」
「朝っぱらからうるせぇな、しかも今日金曜じゃないんだけど」

白衣を身に纏った先生はいつも通り椅子に腰かけて、何か書き物をしている様子だった。
佇まいはいつもと何ら変わりないのに、書物が並んでいたはずの棚や机の上はきれいさっぱり物がなくなっていて、本当にここを離れてしまうのだと悟る。


「別の学校へ行くって、本当ですか、」
「新聞見たろ、載ってる通りだよ」
「なんで言ってくれなかったんですか!」
「お前な、守秘義務って知ってるか?」

色々と面倒なんだよ、と眉間に皺を寄せながらぼやく先生もこれまたいつも通りで。
先週だって、いつもと変わらない時間をここで過ごして、何でもない話ばっかりして。
そりゃ生徒に校則があるように、先生にだって規則みたいなものがあるのだとは思うけど、それにしたって突然すぎて頭も心も追いつかない。

「…いつから、決まってたんですか」
「3ヶ月くらい前かな」

3ヶ月前。というと、わたしが保健室に通い始めたあの頃とちょうど重なる。
出会った時にはもうお別れが決まっていたなんて、こんな切ない話があってたまるか。

どうして、先生はわたしなんかを飽きもせずに毎週呼びつけてたの。何のために。
ストレス発散、暇つぶし、喋り相手。
3ヶ月前からずっとその理由を探してその度に無理矢理納得していたけど、こうなるともういよいよ分からなくなった。
だって、結局離れてしまうと知っていて交流を深めたって、寂しくなるだけなのに。


「次に来るのは女の先生だから、しかもめちゃくちゃ美人で品もある」


先生が何気無く放ったその言葉に、一瞬心臓が嫌な音を立てた。
恋愛なんて面倒なだけだ、そんな事を言っていた先生が、ひとりの女性を褒めそやすなんて。
ずっと理解できなかった。自分の気持ちも、先生の言動の意味も。
だけど、これで明確に分かった事がひとつある。

先生にとってわたしは、ただの一生徒に他ならない。


理解できなかったんじゃなくて、理解しようとしてなかったんだ。
たくさんの生徒の中のちょっとしたお気に入り、それでよかった。
よかったはずなのに、いつしか対等な関係になれると錯覚してしまっていた。
我妻先生は教員で、わたしは生徒。それは天と地がひっくり返ったって変わらない事実だっていうのに。
寂しいと思っているのは、わたしだけなんだ。

そう自覚した瞬間、ずん、と胸の奥で何かが沈んだかのように重たくなって、体の底から頭の先まで冷えていくような感覚がした。
気付けば勝手に口角が上がって、朗らかな口調で言葉を発していた。


「そうですか、先生って色々大変なんですねぇ」
「…苗字」
「今度は女子校らしいじゃないですか、女子たちの前でボロが出ないように気をつけてくださいよ」
「おい苗字、」
「それじゃ先生、あっちの学校へ行ってもお元気で」


失礼しました、と一礼してからそのまま逃げるように踵を返して廊下へ駆け出した。
ぱたぱたと足音を響かせながら床のタイルを踏むたびに足の裏がじんと痺れて、その感覚すらもいちいち心臓を突き刺してくる。

きっとあれは、防衛本能みたいなものだった。

決して辿り着いてはいけない結論に足を踏み入れようとしていたこと、
踏み止まったことと引き換えに大切な気持ちをその足で踏みにじったこと、
自ら踏みつけにしたくせに心が痛くて泣きそうになったこと、

そんなのを丸ごとしまい込んで隠したら余計に目立ってしまった。
今さら受け入れたって、遅い。全部全部、もう遅いのに。


わたし、先生のこと好きだったんだなぁ。


翌日の離任式はどうしても出る気になれなくて、人生初の仮病を使って学校を休んだ。
小学校から続いたわたしの皆勤賞記録は、高二の冬で途切れたのだった。



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我妻先生がこの学校を去ってから、3ヶ月が経とうとしていた。

あれからやっぱり、しばらくは気持ちを整理できなかった。
授業を受けていてもいまいち頭に入ってこなかったり、時にはどうしようもない虚しさに襲われて、夜ベッドの中でこっそり泣いたりもした。
もしもあの日休んだ保健委員の子と出席番号が離れていたら、先生と一切関わりを持たなかったら、わたしは今頃どうしていたんだろうなんて意味のない空想未来に思いを馳せてみたり。

わたしの体の丈夫さは相変わらずのもので、またすっかり保健室とは関わりのない学校生活を送っている。
金曜の放課後を待ち遠しく感じることも、女子力高めの子たちを羨むことも、渡り廊下で中庭を抜けることもない。
全てが元通りになった、ただそれだけ。
何より好都合なことにわたしは受験生だ。受験勉強に集中することで、多少は余計なことを考えずに済んでいる。


「名前、お前進路どうすんだ?」
「大学行くつもりだよ」
「へえ、なんかやりたいことあんのか?」
「…うん、」

放課後、帰り支度をしていると伊之助に話しかけられた。その何気ない問い掛けに少し言い淀む。
将来何になりたいか、どんな職に就きたいか、何となくしかイメージしていなかった自分の未来。
だけど考えれば考えるほど、結局浮かんでくるのは先生と過ごした保健室の事ばかりだった。
どんだけわたしの割合占めてんの、なんて自嘲していると、気がつけば模試の志望校欄に教育学部と書いて提出していた。

看護系には進まないと決めていた。
目指す場所が同じとはいえ先生とは違う道のりを選んだのは、なけなしの自立心を無下にしたくなかったから。
こんな決め方で自分の将来を選ぶなんて、動機が不純だって自覚しているけど、これがわたしなりに折り合いをつけて出した結論だった。


「先生になりたいの、保健室の」

気心知れた伊之助にだったら、最悪からかわれたって否定されたっていいや。
そんな気持ちで思い切って言葉にすれば、伊之助の反応は存外あっさりとしたものだった。


「へえ、いいんじゃねーの」
「…え、それだけ?」
「それだけってなんだよ」
「あ、いや、もっとびっくりするかと」
「しねーよ、お前分かりやすいからな」
「え?」

その言葉に聞き返すと、伊之助は呆れたような顔をして隣の机に腰掛けた。


「あいつ、あのおっかねえ金髪」
「あー…うん、」
「好きだったんだろ」
「…そうだね、」

不思議と意地を張る気になれなくて素直に認めた。
はじめて自分以外の誰かにこの気持ちを知られたというのに、そこまで動揺しないのは相手が伊之助だからなのか、それとも恋だと自覚した後だからなのか。

「あいつのこと話してる時、お前すげー顔してたぞ」
「えっ何わたしそんな変だった…!?」
「おう、まんま恋する乙女の顔だったな」
「マジか…」
「そんであいつが居なくなった途端ずーっと楽しくなさそうにしててよ、正直こっちまでテンション下がるっつーの」
「ご、ごめん」

そこまで分かりやすく顔に出ていたとは思わなかった。同時に、伊之助に気を遣わせてしまっていた事を知って申し訳なく思う。
一言謝ると、伊之助はその端正な顔をこちらへ向けてビシッとわたしを指差す。

「俺はお前が楽しけりゃそれでいいし、ウジウジ悩んでるよりズバッと突き進むのがお前らしくていいと思うぜ」
「…伊之助、」

伊之助はいつもの淀みない口調でそう言い切ってから、ふん、と一つ鼻を鳴らした。
なんだか肩の力がすっと抜けた気がした。理由が理由だけに誰にも相談できていなかったことが、自分でも知らない間に重荷になってたんだ。


「伊之助ってさ、ほんといい奴だね」
「は?当然だろ!俺様をなめんなよ」
「…そういう事言わなきゃ超モテると思うんだけどな」
「うっせ!俺はあの金髪みたいに本性隠したりすんのはごめんだぜ」
「あっはは!確かにね」

それからひとしきり二人で笑いながら話した。
思えば声を出して笑ったのが随分久しぶりだったことに気がついて、そう考えると伊之助だけでなく周りの色んな人に迷惑を掛けていたのかもしれない。

「今日、ちゃんと進路のことお父さんとお母さんに話してみるよ」
「おー、がんばれ」
「…ありがとね、伊之助」
「卒業までにあと3回、昼飯奢りな」
「はいはい、じゃまた明日!」
「じゃーな」

こういう時だけはちゃっかりしている伊之助に苦笑しながら、教室を後にした。


その夜、勇気を出して両親に自分の進路希望を打ち明けた。
さすがに恋心があった事までは言えなかったけど、以前熱を出した時先生に助けてもらった事、その出来事が今でも強く印象に残っている事、それがきっかけで養護教諭の仕事に興味を持った事を順を追って話した。
結果、我妻先生と面識のあるお母さんは二つ返事で了承してくれたし、お父さんも自分のやりたい事をやりなさい、と快く背中を押してくれた。


それからというもの、わたしはこれまで以上に必死で勉強に打ち込んだ。
一番はもちろん自分の未来のためだけど、応援してくれた両親に応えたい気持ちでひたすら机に向かった。
そして年が明け桜の蕾が綻ぶ頃、わたしは晴れて第一志望の大学に合格したのだった。



ヴィーナスのご加護を

(伊之助、何そのボタン)
(あ?なんか昼休みに1年の女子どもが来て貼ってった)
(これシール…?どゆこと?)
(知らねーけど、予約がどうとか言ってたぞ)
(うわ、第二ボタン争奪戦か…!!)
(おい、今日スペシャルジャンボカツ丼奢れよな!)
(…あんたほんと黙ってればイケメンなのにね)
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