卒業式をいよいよ明日に控えたこの日、保健委員の子が体調不良で欠席した。
卒業式当日じゃなくてよかったねぇ、なんて暢気なことを考えていたら、あろうことか担任の先生は隣の席のわたしを代理に指名したのだった。

こうしてわたしはまたしても健康観察のバインダーを手に保健室へ向かう事となり、いつかのデジャブのような状況に複雑な気分で足を運ぶ。
一階の渡り廊下で中庭を抜けた先の、一番奥。保健室と書かれたプレートを睨みつけて、ありし日に幾度となく出入りしたその引き戸を引いた。


「失礼します」
「はーい、どこか具合でも?」

くるりと椅子ごと振り向いたその人は、ふわりと上品に微笑む綺麗な女性だった。
部屋にはほんのりと花のような香りが漂っていて、棚には整然と並べられた本がきっちりと詰まっている。
我妻先生が居たのと同じ場所なのに、全く別の空間に感じられてしばし立ち尽くす。

「もしもーし?」
「あ、すみませんぼーっとしてて」
「大丈夫ですか?熱でもあるんでしょうか」

眉を下げて心配そうに椅子から腰を上げた先生は私よりも小柄で、白衣から覗く腕や脚はすらっと細くて雪のように白い。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
その言葉はこの先生のためにあるものではと思えてくる。

「いえ、あの、代理で来ました」
「まぁそうでしたか、わざわざご苦労様です」

バインダーを手渡すと先生の首から提げられた教員証が目に入り、美人は写真写りも良いんだなぁなんて思っていたら、ふと何か思い立った様子で先生が口を開いた。


「つかぬことを伺いますが…あなた部活は?」
「え、入ってません」
「犬より猫派ですか?」
「は、はい」
「好きな異性のタイプは引っ張ってくれるリーダー気質な人で眼鏡フェチ」
「な…!そう、ですけど」

突然謎の尋問が始まった。しかも全問正解。
何この先生、怖いんですけど…!第一印象の可憐な雰囲気はどこへやら、その整った顔に浮かべたままの微笑みが逆に恐ろしい。


「小学校からずっと皆勤賞が続いてたり」
「あー…それは、」
「あら、どうやら途絶えてしまったようですね」

少し後ろめたくなって言い淀むと、すかさず汲み取られてしまっていよいよ逃げられなくなった。
何も言えなくなったわたしを見つめながら、先生はさっきまでの貼り付けたような笑みを解いて、自然な柔らかい表情を見せた。


「苗字名前さん、あなた宛に伝言を預かっています」
「伝言…、」


誰からの、なんて尋ねるほどわたしも鈍くはない。
思えばさっき散々質問攻めにされた内容はどれも、我妻先生に話したわたしに関することで。
ちゃんとわたしの話も聞いてくれてたんだ、なんてちょっとだけ嬉しくなったのも束の間、とんでもない伝言を聞かされる。


「卒業式終わったらここに来い、すっぽかしたら身ぐるみ剥いで嫁に行けなくなるくらいぶち犯」
「っわぁああ!皆まで言わなくていいですって!!」

まったく、なんてことを他人に言伝るんだあの人は!背筋がヒヤっとなる久々の感覚に深くため息を吐いた。

「すみません、ご迷惑おかけして…ありがとうございました」
「いえいえ、生徒の精神衛生の管理も養護教諭のお仕事ですからね」

少し怖いと感じた先生の抑揚のない話し方にも慣れてきた。何気に仕事だからと言い切ってしまうあたりも、むしろさっぱりしてて好感が持てる。


「あ、誤解はしないでいただきたいんですけど、」
「はい、」
「前任の先生は、そういった義務的な理由であなたに接していたわけではないと思いますよ」
「え…?」
「離任式の日、あの方随分寂しそうでしたから」


寂しそう、だった?あの我妻先生が?
その言葉を何度反芻しても、記憶の中の先生との差異がありすぎて信じ切れなかった。
それに今更、どんな顔して、何を話したらいいんだろう。

「明日、ちゃんと顔を見せに来てあげてくださいね」
「約束はできませんけど…」
「あら?ぶち犯されてもいいんですか」
「…胡蝶先生、ちょっと楽しんでません?」
「バレてましたか」

そう言って、先生は少し茶目っ気のある笑い方をして見せた。間違いない、この先生絶対ハンパないモテ方する人だ。

「健闘を祈ってますよ、苗字さん」
「…失礼しました、」

どこぞの貴族ですかと言うほどのお上品なお手振りで見送られながら、わたしは保健室を後にした。



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そして、卒業式当日。

卒業証書を手に、わたしは保健室の引き戸の前で二の足を踏んでいた。
さっきまで卒アルに寄せ書きを書き合ったり、写真を撮りまくったり、このままカラオケで打ち上げだーなんて、お祭りのような輪の中で笑っていたのに。
意識するまいと思えば思うほど緊張で手が震えてきて、深呼吸でやり過ごす。
意を決して手に力を込めれば、少し立て付けの悪い引き戸がガラリと音を立てて開く。

探す間もなく、眼鏡を掛けたスーツ姿の男性が視界に入る。
腰掛けた椅子の背もたれに明るい色の髪がさらりと揺れて、いつかも見た光景にきゅっと胸が苦しくなった。


「遅くない?」
「…我妻先生、」


開口一番にケチつけてくるとは、月日が経とうがやっぱり先生は先生のままだ。
あれだけ躊躇していたくせに、いざ顔を合わせればスーツと眼鏡に少しときめいてしまっているわたしもまた、わたしのままなんだけど。


「ちゃんと来てんじゃん、賢明な判断だな」
「そりゃあんな伝言残されたら来たくなくても来ますよ!」
「ふーん…来たくなくても、か」

先生はそう言うと、すっと立ち上がって窓際まで歩を進める。
その背中は緩く弧を描いていて、どことなく影のある雰囲気を漂わせていた。
寂しそうにしていた、という胡蝶先生の言葉をふいに思い出して、それはこういうことを言っていたのかも、と少しだけ納得した。


「っていうかなんなんですか、こんなとこに呼び出して」
「わざわざ教え子の卒業を祝いに来てやったんだろ」
「わたし先生に何かを教わった記憶ないんですけど」
「相変わらず可愛げないのな」
「どうせ可愛くないですよ、…胡蝶先生みたいに美人でもないし」
「胡蝶?あぁ、後任のか」
「わたしなんて、どうやったって先生とは対等にはなれないんですから」

自分で言っておいて、本当に可愛くないやつだと思う。
別に胡蝶先生みたいな美人になりたいわけじゃないし、ぶっちゃけ教員にだって最悪なれなくたっていい。
ただ、なんの引け目もなく我妻先生と関わり合える立場になりたかった。
先生と生徒、なんてどこまで行っても交わらない関係性じゃなくて。


「対等、ね…そんな事だろうと思ったよ」
「え?」
「お前、養護教諭の免許取るつもりらしいな」
「へ、なんで知って、」
「ん?裏ルートで仕入れた情報だけど」
「なっなにそれ…!」

何やら怪しげな言葉を聞かされたわたしの不穏な気持ちをよそに、先生は追い討ちを掛けてきた。


「もし俺と対等になりたいとかいうのが理由なら、意味ないからやめとけ」
「え、」
「俺、もう教員辞めたから」


一瞬頭が真っ白になって、その言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。
意味もなにも、言葉通りに受け取る意外に方法はないのに、脳がそれを拒んでいた。あまりのショックに声も出ない。

「っはは、そんな絶望しなくても」
「な、なんで、」
「…実家が病院やってるって前に話したろ」
「はい、」

先生は窓から中庭を眺めながら、少し声を落としてぽつりぽつりと話し出す。
保健室にいた頃の先生は、わたしの事なんてお構いなしにもっと吐き捨てるようにして喋っていた。
でも今わたしの前にいる先生は、一言一言、わたしの反応を見ながら言い聞かせるように言葉を落としていく。

「ただでさえ人員不足って時に、師長やってるお袋がぶっ倒れてさ」
「え…、」
「あぁ元気だよ、だけど持病が悪化して当分復帰できそうになくて」
「それで、代わりに先生が?」
「そ、師長代理って事で急遽白羽の矢が立ったってこと」
「…そうだったんですか」
「まぁ元々戻るつもりだったし、それは大した理由じゃなくて、」

先生はそう言っておもむろに眼鏡を外し、スーツの左胸に差し込んだ。
そんな仕草にわたしの左胸はバクバクと音を立てていて、先生の耳にまで届いてしまわないかと変に焦る。
騒がしい胸を必死で鎮めていると、先生はこちらへ真っ直ぐ向き直った。


「俺は今、この学校に勤めてもいないし、教員ですらない」
「…はい」
「そんでお前は今日この学校を卒業して、学生じゃなくなった」
「はい、」
「これがどういう事か、わかるか」
「え…?」
「…質問変えるわ、」


言葉の意図が読み取れなくて戸惑っていると、先生は少し目を伏せてからまた視線を上げる。
蜂蜜色の瞳がしっかりとわたしの目を捉えていて、その眼差しは瞳の色の通りとろとろに甘くて。


「お前が俺と対等でありたいのは、なんでなの?」
「そ、れは、」
「教えて」


恥ずかしさに目を逸らしたいのに、見つめ合ったまま離せない。
懇願するような、縋るような、切ない瞳。
初めて見る先生の表情に、鼓動がどんどん早まっていく。


「苗字、」
「っ、先生が、我妻先生が、」
「うん」

今まで聞いたどの先生の声よりも、一番優しくて穏やかで。
その声に蕩かされて、素直な気持ちが紡がれていく。


「好きだからです、大好きだからです、っ」


苦しかった気持ちが楽になるのと同時に、切なさと寂しさとがいっぺんに押し寄せて、涙がぼろぼろ零れ落ちた。
言ってしまった、とうとう言ってしまった。
これで教員と生徒という最後の繋がりすら、自分で断ち切ってしまった。
涙を拭う気力も起きなくて、ただただ床にぽたぽたと跳ねる水滴を見ながら俯く。


「…もう一回言うけど、」


そんな言葉とともに、しゃ、と乾いた音が聞こえて顔を上げる。
先生が自分の後ろの窓にカーテンを引いていて、わたしと先生の立つ場所だけ外からの光が遮られた。


「俺は教員じゃないしお前も生徒じゃない、…だから、」


先生は一歩こちらへ歩み寄って、すっとわたしの顔に手を伸ばす。
反射的に目を瞑ると、その手が優しく頬の水滴を掬い上げていく。


「こんな事しても問題ないってこと」


その言葉の意味を考える前に、考えるのをやめた。
なぜなら、唇に押し付けられた温度と感触が、わたしの感覚のすべてを攫っていってしまったから。
そのまま数秒塞がれて、一度離れたと思ったら、息継ぎの合間にまた角度を変えて塞がれる。
いつかのあの日みたいに、また熱出しちゃいそう。
そんな事が頭に浮かんでくるほど体が火照ってきた頃に、ゆっくりと先生の唇が吐息交じりに離れていった。


「ただの生徒に、ここまでするかよ」


そう言った先生は珍しく余裕のなさそうな顔をしていて、惚けた頭にもその意図は伝わった。
信じられない気持ちとどうしようもない嬉しさとで胸がはち切れそうになりながらも、勇気を出して今日ここへ足を運んで良かったと心の底から安堵した。
するとようやく色々考える余裕が出てきて、ふと気になっていたことを口にしていた。


「そういえば、なんで眼鏡…?」
「ん?ああ、確実に落とせるように念には念をと思って」
「なっ、なんてずるい大人!」
「うるせえ、こっちは今日までずっとお預けくらってたんだからな」
「…わたしが伝言のこと知らなかったら、どうするつもりだったんですか」
「まぁ最悪伝わらなかったとしても、今日は絶対来るって分かってたし」
「なんですかその根拠のない自信…」
「だってお前、俺のこと大好きじゃん」


勝ち誇ったように口角を上げ目を細めた我妻先生は、悔しいけどかっこよくて。
口ごたえする気になんてなれない。だって、ほんとのことだから。


「大好きです、我妻先生」


たくさん悩んで悩まされて過ごしたあの金曜の放課後が、大切な思い出に変わった瞬間だった。
一瞬面食らったような顔をした先生に少し強引に抱き寄せられて、大好きなその声で耳元に囁かれる。


「卒業おめでとう、苗字」


祝福ついでにまた唇を奪われて、ほんとにどこまでもずるい人だなんて思いつつも、甘く痺れるような口づけに溺れていったのだった。



終業チャイムが告げた恋

(裏ルートってなんなんですか!)
(あのまつ毛野郎とっ捕まえて聞いただけ)
(まつ毛…っ伊之助のこと!?脅したの!?)
(新作ゲームのソフト渡したらすぐ吐いたけど)
(なに買収されてんのよ…)
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