10. 六十夜
次の日、仕事に行き佐藤さんに妊娠を報告し、辞意を伝えた。彼は「こちらに来てから名字さんには色々とお世話になったね。お幸せに」と少し残念そうな顔を見せたが、私の体調を気遣ってか、手続きについて人事部に連絡してくれたり、自分の業務と別な作業にもかかわらず手を貸してくれた。


退職の日までスムーズに決まり、あとは今の家の退去の手続きを行う。大家さんには『自分の体調が悪いため、田舎へ戻ることにした』と伝えた。もしかしたら、住処を知っているアカギさんが大家さんに事情を聴くかもしれない、と。何となくそんな予感がしていた。



そして私が東京から去る日付が決まった。




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その日は久々にあのバーの前に来ていた。中には入らず、ただ彼が来るのを待つ。徐々に冷えていく身体。それでもお腹だけは温めようと身体を縮こめていた。



「……名前」

落ち着いた低い声が少しの驚きを含ませたまま、冷たい空気の中で響いて私の耳に届いた。

「……アカギさん」
「身体、冷えるよ……中で待っていればよかったのに」
「いいえ……ここでいいんです」

好きなのに離れなきゃいけない。
そう思うと次の言葉が中々口に出なかった。さようなら、を最初に口に出すには思いの外勇気がいる。

「……私、田舎に戻ることにしました」
「……そう」
「だから……もうアカギさんとは会えません」

最後の方は声が震えてしまった。
アカギさんの顔がぼんやりと見えていて、彼の表情はまるで分からない。溜まった涙で歪んだ視界はまるで出会った日のようだ、とふと思った。

揺らめく視界の中、身体が寄せられる。抱擁により冷えた身体が少し温かくなる。同時に目頭もさらに熱くなっていく。

「アカギさん……」
「……名前、今までありがとうな」

引き留められはしないだろうと分かっていた。だが、ほんの少し淡い期待もしている自分がいた。アカギさんの言葉を聞いて『そんなわけないのにね』と自嘲した私の頬を一筋の涙が伝う。

そんな私の気持ちは置き去りに、彼は抱擁したまま言葉を続けた。

「いい人でもできた……?」
「大切な人が……できたんです」
「……そう」

そういうとアカギさんは私の背中に回していた腕をゆっくりと離した。
改めて相対すると、アカギさんは心持ち名残惜しそうな目で私を見つめていた。その目を見て、欲がでてしまった私はアカギさんの手を握り、最後のお願いをする。

「アカギさん……最後にキス、したいです」
「アンタが我儘言うなんて珍しいね。……他の男とキスなんてしたら『大切な人』が悲しむんじゃない?」
「見てないから……大丈夫」
「クク……悪い女」
「アカギさんが私をそうしたんですよ」

私の軽口に彼は肩を揺らし笑うと、私の顎を持ち上げ軽く口付けた。出会ったときのような強引な、舌を絡ませるようなキスではなく、唇同士を合わせる初々しいようなキス。それはずっと私が求めていた感触だった。仄かな煙草の香りが私を魅了する。



ずいぶんと長く唇を合わせていたが、私の方からゆっくりと離れた。これ以上キスをしていたらきっと絆されてしまう。本当に離れられなくなる。

「……今まで、ありがとうございました」
「ああ」
「またいつか会えることを楽しみにしています。……生き急ぐようなこと、しないでくださいね」
「それはできない約束だな……まあ善処はするさ」

含み笑いをしながら、彼は私から手を離した。

私は踵を返し駅へと向かう。
彼の視線がずっと背中に刺さったまま。
振り返ることはしなかったけど、雑踏が私を隠すまできっとアカギさんは私を見つめていたように思う。



いつかまた、子供が無事に生まれて大きくなった時に……貴方に会えたらいいな。





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賭け麻雀の帰り、いつものようにあのバーに向かう。ここ一ヶ月ほど、名前がいることはない。が、一応店内を確認をするのが習慣になっていた。

冷えた空気の中歩いていると、バーの近くの交差点で名前の姿が見えた。息は白くならないものの、寒いのか身体を縮こませている。

「……名前」

俺が声をかけると、彼女は顔を上げこちらを見た。ずっと待っていたのか。相変わらず健気な女だ。

「……アカギさん」
「身体、冷えるよ……中で待っていればよかったのに」
「いいえ……ここでいいんです」

そう言うと彼女は少しの間口を噤んだ。何となく彼女の次の言葉を察する。

「……私、田舎に戻ることにしました」
「……そう」
「だから……もうアカギさんとは会えません」

震える声で別れを告げる彼女。涙の溜まった双眸で俺を見つめる彼女がいじらしくなり、思わず抱き締めた。だが、引き留めるという選択肢はない。俺には名前を縛り付ける資格もないし、彼女を背負ったまま博徒を続けることはできない。それは俺の生き方に反する。

彼女との駆け引きは、俺の負けだ。



「アカギさん……」
「……名前、今までありがとうな」

今まで色々なことに付き合ってくれた彼女に対して礼を言った。それだけで腕を解くつもりだったが、中々離せなかった。ふと、彼女に問いかける。

「いい人でもできた……?」
「大切な人が……できたんです」
「……そう」

だからバーの中では会えないと、外で待っていたというわけか。他の男に彼女が奪われてしまったことにやりきれない気持ちを抱きつつも、そいつの方が俺よりも名前を幸せにできるだろう、と自分を納得させた。


暫くの後、名前からようやく腕を離すと、彼女は俺の手を取り、最後のお願いをしてきた。

「アカギさん……最後にキス、したいです」

俺は驚いて軽口を叩く。

「アンタが我儘言うなんて珍しいね。……他の男とキスなんてしたら『大切な人』が悲しむんじゃない?」
「見てないから……大丈夫」
「クク……悪い女」
「アカギさんが私をそうしたんですよ」

軽口で返される。狡い女だ、と思いながら笑い、彼女の顎を持ち上げ軽く口付けた。そういえば最初の日以来キスはしていなかったな、とふと思い出す。性的な意味を含んだ口吻ではなく、ただ触れるだけのキスが俺にもたらした気持ちは、今までにないものだった。

その気持ちが何なのか知りたくて長い間彼女の唇と触れ合っていた。が、彼女の方からゆっくりと離れていく。

「……今まで、ありがとうございました」
「ああ」
「またいつか会えることを楽しみにしています。……生き急ぐようなこと、しないでくださいね」
「それはできない約束だな……まあ善処はするさ」


含み笑いをしながら、俺は名前から手を離した。

彼女はそのまま踵を返し駅へと向かった。
雑踏に紛れていくまで、『心の底から惚れていた女』の背中をただ見守ることしかできなかった。


幸せになってくれ、と願いながら。



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