581102


上層部に呼ばれたのは当然、なまえについてだ。悠仁との接触以降、彼女の取り扱いについてはより慎重を期するものになっている。彼女自身は何ら変わりなく過ごしていて、上の連中はそれすらも不気味に感じているようだった。わざわざ僕に聞かずとも学長や冥さんを通して情報はたんまりあるだろうに、僕から何を聞き出したいのか。行く前からあまり良い気分ではなかったが、向こうから飛んでくる野次のような言葉の数々に、より一層嫌悪が湧いた。

「下手な考えは起こさんことだな。あの娘はこちらとも契約を交わして既に受け入れているのだ。ゆめゆめ忘れるな」

言われなくても、分かっている

その言葉を黒く塗り潰して大人しく部屋を去ろうとしている背中に、腐った蜜柑を投げつけられているようだった。
それから家に帰るまでの記憶はあまりない。家に着いても習慣付いたただいまを吐き出して、リビングにいたなまえの小さな返答に顔も見ることなく風呂場へ向かった。冷水を頭から浴びながらも、彼らに言われた言葉が頭の中で渦を巻いていた。一人で生活していた時は家具に全てをぶつけることもあった。怒りの矛先を別の欲に変換することだってあった。やりたいように出来た。そんな姿を見せてもきっと彼女は受け入れるだろう。機嫌が悪い日もやりきれない日もあるよねと。それをしないのは、ただ彼女の前でそんな姿を見せたくないという単純なもの。仕事でも何でもない、俺自身のエゴだ。

「悟、生きてる?」

そんなことを考えている時に、彼女の声がした。言葉からして、結構な時間をここで過ごしていたのだと知る。彼女が俺の好きな歌が終わってしまったことを告げた時、お前が俺の何を知ってるのかと、棘だらけの言葉が喉元を引っ掻いた。飛び出した言葉は、好きな歌とは何かという言葉に変わっていた。その言葉に反響だらけのメロディーが降ってくる。聴きたいのはそういうことじゃない。彼女の名前にも棘を生やして吐き出すこちらの要望通り、彼女は曲を止めて自身の声でフレーズを歌った。自身の髪の先から垂れる水滴が、出会ったあの日を思い出させた。あの日彼女が僕に頭を下げた時、彼女の髪の先からもぽたぽたと絶えず滴が落ちていた。家に帰りたい理由ももう少しまともな理由はないのかと思ったが、ずぶ濡れの身体でカーペットを濡らしていても気にすることなくリモコンを両手で握りしめる姿を見れば、彼女にとっては最後の時間に相応しい過ごし方なのだろうと思った。家中の探索と冥さんとの交渉から戻った時、彼女は横になり蹲っていた。僕の手を貸すまでもなく、普通に最後を迎えたのだと思った。同時に、酷く不快に思えたのだ。彼女に最後を与えるのは僕だと、誰にも譲りたくなかった。

「温まってから出るんだよ」

一番だけを歌い終えたなまえは、足音もなくリビングへと戻っていく。彼女の言う通り、あれは僕の好きな歌らしい。苛立ちは引いていた。しばらくして風呂を出た僕の顔を見たなまえは、何も言わずにいつものように窓の外へと視線を移していく。

「ホットミルク、作ろうか」

言葉に反応してスッと立ち上がった彼女と一緒にキッチンへ向かい冷蔵庫を開けると、ほぼ空の冷蔵庫のど真ん中を、クッキーの入った器が陣取っていた。自分の心の中を映しているようだと感じた瞬間、嫌でも認識させられた自身の気持ちに溜息が出た。そんな僕を他所にクッキーを一枚口に近付けてくるなまえの、凭れるには低すぎるその肩に頭を乗せて彼女への想いを喉に通す。それらは全て彼女の名前となって空気に触れ、溶けていく。彼女はその音に小さく短い音を返すだけだ。今までもそうだった。これからもこれでいい。だから一つだけ言わせてくれないか。

「なまえ、」

生きていてくれて、

「ありがとう」

道端のオジギソウのように


PREV BACK NEXT