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家に戻り、悟の傘立てに傘を置く。二本入った傘立てが嬉しくて、玄関に水溜りができるまでのしばらくの間、傘立てを眺めていた。その間にシャワーを浴びた悟は相変わらず玄関に腰を下ろしている私を見て、まだそこにいたのと呆れたように柔らかく笑っている。

「お湯張ったから、ゆっくり入っておいで」
「ん」
「音楽つけとくけど、どれが良い?」
「今日はいい」
「何、体調でも悪い?」

確かに音楽を欠かしたことはないけど、心配されることでもないのになと思いながら首を横に振る。何でもないなら良いけどと見送られ、そのままお風呂へと向かう。湯船に浸かり、ぴちゃぴちゃと鳴る水の音を楽しんだ。今日の出来事を振り返る分だけ、頭の中に音符が跳ねる。楽しかった。嬉しかった。だけど、そういう気持ちの三オクターブ低いところで、鍵盤を乱暴に叩きつけるような不協和音も鳴っている。

明日ベランダで傘を乾かそう。
だけど私は明日を待っても良いんだろうか。

浴槽の栓を抜き、次第に空気に触れていく身体と、頬の緩み切った自身の顔を鏡に映してみては、その熱を取り除くように水を浴びてみる。雨は平気なのに、どうしてシャワーで水を浴びるのはこんなにも怖いのだろうか。
分からない事ばかりだ。お風呂から上がっても、髪を拭いていても、湧き出る疑問が頭の中で交錯していた。‥試しに髪でも切ってみようか。部屋にあった鋏を持って洗面所へ戻ると、何するつもり?と入口の壁に寄りかかり腕を組んだ悟が聞いてきた。

「髪、切ろうかと」
「何で?」

何かあったのかと聞かれても、首を横に振るだけ。それなら明日にすればと言う言葉を受け入れたけど、今日がダメな理由こそ、どうして、だ。ただ、今でなくちゃいけないこともない。鋏は悟に渡して、いつもの場所で腰を下ろし、雨の上がった外を眺めていた。まだ雲が夜の空を覆っていて、細い糸で吊られただけのコンクリートのように固い雲が、不安定に頭上にあるようだ。切ったらどうなるだろうかと届きもしないその糸に手を伸ばしてみる。空どころか、外界を遮る窓にすら手が届かない距離じゃ、触れないのは当然か。
はらりと脱力したその腕で鞄にしまっていた御守りを持って、ソファで本を読む彼の前に立つ。どうぞと座る位置を譲ってくれるから、お言葉に甘えて空いた左側に座って御守りを渡した。

「最強の僕に?」
「この人が悟だってわかるように、目印」
「時々意味わかんないこと言うよね」

どれどれと袋から御守りを取り出すと、自身の顔の前にぶら下げて白地に水色の文字を穴が開くように見つめている。

「縁結びかあ。僕がモテないと思ってるなら、見る目ないね」
「白地に水色。悟に似てると思って」
「はは、それだけ?」

悟は、私のせいでこの家に居なくちゃいけない。お金も使わなくちゃいけない。たまに時間が空いても、遊びにも行けない。いずれ訪れる未来になって漸く、此処から解放される。その時は心を許せる誰かに出逢って、もっと自由に暮らしてほしいと思ったのだ。神様がどの人のお願いか分かるように、印のために持っていてほしかった。

「うん、それだけ」
「嘘つくの、下手だねえ」

そう言った悟は、私の頬をグイっと抓って指に力を入れていく。

「痛い」
「嘘ついたらこうなる」
「痛い。もうしない」

何かあったら、いつでも言っておいで。

それも仕事だから遠慮せずにねと、優しい言葉と一緒に解放された頬はまだじんじんと痛くて、それを見た悟はすげえ腫れてると赤くなった頬を写真を収めていた。

「ごめんね」
「ん?ああ、次嘘ついたら両頬行くからな」
「もうしない」

ガード緩すぎ、と警戒して頬を隠す私の手を簡単に剥がした悟は、まだ痛みの残るその場所に触れて、指の背で優しく撫でた。私はいつも、この優しさに甘えてばかりだ。迷惑かけてごめんね。此処に縛り付けてごめんね。それなのに手を離そうとしなくて、ごめんね。
そんな言葉を告げる勇気もない私は、おやすみの四文字をソファに置いて、自室へ戻った。
悠仁がくれた優しい一日と悟がくれた温かい一日を膝に抱えて、その日は一睡もすることなく空を流れていく雲を眺めて過ごした。翌朝空がいつもの青に戻る頃になって身体が休息を求めるように瞼を重くする。目が覚めた時、空はまた夜色をしていた。

涙のアトが残る朝


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