30318


言われるがまま、広くて大きいその背中を追う様についていく。長い脚の一歩が私にとっては一歩半あって、次第に開いていく間隔に時々足を止めてくれた。車に乗せられてからの記憶はない。気付いたら綺麗な高層マンションの前で、エントランスを通り幾つもあるエレベーターの一つに乗る。何階、という表示を背中で隠すようにボタンの前に立った男は、不思議な鼻歌を歌っていた。聞いたことのない曲だった。

「その曲‥」
「これ?適当に音符並べてるだけ」

それ以降、この箱の中にはエレベーターの起動音だけが流れていた。私が声をかけなければ、続きを歌ってくれていただろうか。数秒後、扉が開いて再びついてくるように言われ、こっち、と時々私の様子を窺いながら優しい声色で一室に案内してくれた。入口こそホテルとそう変わらないものの、玄関の奥に広がる室内は我が家のリビングよりもずっと広くて洗練されたデザインで綺麗だった。開放的な大きな窓は周りの景色がよく見えた。こんな景色が見える部屋もあるんだなあ。私の家からは銀杏と金木犀の木が見えていた。通学する小学生も見えた。お向かいさんの犬小屋も、三毛猫の散歩の様子も見えた。ここではそんな景色は見えそうもない。車はミニカーみたいだし並木道がブロックでできているように見えた。空もぐっと近くなった。見たことのない景色で、楽しかった。

「気に入った?」

私の表情を覗いたその男が、私に聞いた。最後の場所にはもったいないくらいだ。小さく頷くと、それは良かったと笑った。

「それじゃあ、今日からここが君の家だ」

言葉を理解するのに、数十秒程を要した。私は消されるんじゃなかったか。彼の発した言葉の意味を知りたくて近くに寄り顔を見上げれば、鼻歌を歌うように軽く言葉を紡いでいく。

「君に興味が沸いた。今日からここで住むか、約束通りこのまま消されるか。どっちが良い?」

ここへ来て、終わると思っていた自分の人生に枝分かれした道が現れた。綺麗に舗装された先程までの一本道とは違い、他人様の気紛れによって作られた砂利道は、山道かというくらいに歩きづらそうだ。不鮮明な未来だけど、今ならどちらでも素直に受け入れられる確信があった。決して投げやりになっているわけではない。彼が面倒でない方、或いは好きな方を選んでくれたらそれに従うことを伝えれば、間を空けずにようこそ新しいお家へ、と景色を背負って両手を広げた彼が再び笑った。

「今後、生活圏はこの部屋が全てだ。仕事の都合上、僕もここに住む。勿論寝室は別だから安心して」

ここに住むと決まってからは、早送りしているように物事が進んでいった。生かしてくれることに無条件な筈もなく、後付けされた条件は至極シンプルだった。思うように外には出られない事。他人との接触を極端に制限されること。それだけだ。

「どうしても外に出たい時は僕に言って。一緒に行くから」

二ヶ月に一度くらいならば外に出ても良いと彼は言うけれど、本当なら駄目なんだろうと言うことは何となく察した。それでも私は彼の言葉に頷いて、次の話に耳を傾ける。家族に起きたことと自分の今の状況をざっくりと教えてもらった。ざっくりと言っても知らない言葉ばかりだし、他の人とは違うらしいけれど誰でもそうなんじゃないかと思えることも沢山出てきて、私の理解もざっくりとしたもので着地した。

「また何か出てきたら都度伝えるよ。ここまでで質問は?」
「特に‥あ、一つだけ」
「どうぞ」
「名前、教えてください」

一緒に住むのに呼び名が無いのは不便だ。あのでもねえでも良いんだろうけれど、そう呼ばれるのが苦手な人もいると聞く。相変わらず目元は隠されているけれど、その目が一瞬点になったのは分かった。まだ名前も言ってなかったっけとけらけら笑いながら、彼の名前が五条悟であることを教えてくれた。

「名字でも名前でも、好きに呼んで」

これにも一つ頷いて返せば、今度は彼に質問の順番が回ったらしい。生活に必要な最低限のもの以外で欲しいものはあるかと聞かれて、音質の良いスピーカーとスケッチブックと色鉛筆が欲しいと頼めば、それだけかと言葉を返された。

「お金の心配はしなくて良いよ」

そうか。そこは考えに入っていなかったな。家の家具も、値段なんて気にしたことなかった。家にあったスピーカーは一体いくらしたんだろう。素直にそこを気にしていなかったことを告げると、先生みたいな口調で今後もそのスタンスを保つようにと彼は言った。天に向かっていた髪の毛を下ろしてサングラスに変えた彼は、早速買い物に行ってくると軽い足取りで玄関に向かっていった。何平米のフローリングかもわからないただただ広い床の真ん中でその背中を見つめていると、くるりと彼が振り返る。

「なまえ、」

一度は握ったドアノブを離したその手でひらりと手を振りながら、行ってくるねと声を飛ばした。つられるように左手をひらりと振れば、満足そうに扉を閉めて外の世界へと出て行った。

心だけが重い


PREV BACK NEXT