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「なまえ」
「ん?」

彼女は僕が名前を呼ぶと、途端に言葉が消えてしまう。これからもそれで良いと思っていたけれど、ずっと不思議には思っていた。その理由を知ったのは、彼女の涙が止まった後だった。表情一つ変えず、淡々と説明する彼女の心臓は、今はどんな音を鳴らしているのだろうか。

「じゃあ、僕の名前を呼ぶ時は緊張する?」
「悟の?別に何も」
「ちゃんと、呼んでみて」
「悟」
「もう一回」
「‥これ、何?」
「良いから、呼んで」

呼び慣れているはずの名前が急に恥ずかしくなったのか、拒否するように口を噤むなまえ。細くなった唇を開かせようと、自分の唇をそこに寄せてみる。

「‥なに、」
「したことない?キス」

何度か瞬きをした後、首をゆっくりと横に振る。初めてしたよ、と状況を飲み込めていないような彼女の言葉に、自分でも呆れるくらい気分が良くなっていく。普段の厚さを取り戻した柔らかい唇にもう一度触れると、動くこともなく重なる部分を見つめるようにその長く伸びた睫毛を伏せていった。

「夜蛾さんに言う」

小学生かよ。そう言いながらもう一度。

「ご自由に」

知られたくはないけど。きっと、彼女は話したりしない。だから、

「‥これ、もうやだ」

そんなことを言われたら、

「そんなこと言われても」

逃げる細腕を掴んで、転がり込んだソファの上で彼女を抱き寄せる。上に乗るなまえの重さが、体温が、鼓動が。彼女がちゃんと生きていることを伝えるように、それぞれがはっきりと訴えてくる。

「離してほしい?」
「ううん」

離すつもりもなかったけれど、諦めたように身軽な体重を預けて胸元に頬を寄せるなまえ。

「悟の心臓、ちょっと早いね」

キスしたことに驚きはすれど、彼女の鼓動が高鳴る事は無い。僕のと同じ速さになれば良いのに。そう願いながら彼女の名を呼べば、彼女が言った通り跳ね上がったような心臓の動きが感じ取れた。はは、本当だったんだ。

「心臓は飛び出たりしないから、返事してよ」
「‥」
「なまえ、声聞かせて」
「‥悟、」

だって・何・声、発する言葉なんて何でも良いのに、こんな時でも彼女の口から飛び出るのは僕の名で。堪らずキスをしたら、何でと少し険しい顔をする。心臓が出そうになってたよと返すと、彼女は僕の右頬を思い切り抓った。冗談抜きで、容赦なく。

「‥痛いんだけど?」
「嘘ついたらこうなるって、悟が言った」
「はは、嘘じゃないって」

僕の心臓が飛び出しそうだったから。

彼女がその言葉を受け取ることはない。代わりに一息で飛ばされそうな僕のごめんねを受け取って、ゆるりと手を離す。

「悟、おかえり」

彼女は、ずっと言えなかったからと言った。ずっと言いたかったからと言って、優しく笑みを溢す。

「ただいま、なまえ」

この先、あと何度ただいまと言えるだろう。あと何度彼女の名を呼べるだろう。あと何度、愛おしいと伝えられるだろう。彼女の命の灯火を吹き消すその日まで、溢れる想いを言葉では伝えきれそうにないからさ。

「なまえ、」

額に、瞼に、頬に、鼻先に。

「さと、」

そして唇に。
口付けを落とした分だけ、伝わって欲しい。僕がどれだけ君を想っているかと言うことを。受け止めてねと彼女に言葉を贈れば、彼女はまたしても首を横に振る。やっぱり気に入らないのと聞けば、それにも首を振る。

「全部あげるのは、私だよ」

僕の首に腕を回す彼女の言葉は、いつだって本心で。僕の首筋に軽く唇を落とす彼女を最期まで愛し続けようと、その口付けに静かに誓った。

fin.

鼓動が鳴り止むその日まで


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