「夜蛾さん」
任務に出た悟の代わりになまえの家に行くことになったこの日。悠仁を連れてきて以来の俺に、彼女は相変わらずトタトタとマイペースに駆け寄りひらりと手を振った。先週、バカな教え子が勝手に外に連れ出した後から夕飯を断っていると報告は聞いてたが、それにしても随分痩せた。医者を寄越した方が良いか?そんな俺を余所に、靴を脱ぐより先に横をみろと言われ素直に横に視線をやれば、目線を下げろと次の注文が入る。
「へえ、買ったのか」
「悠仁がくれたの。見て」
そんな風に嬉々として話す姿を見るのは初めてで、こんな表情で笑うのかと少し驚いた。その妙な形をした傘を開いて、今度雨が降ったら差すんだと重ねて笑みを零す。
「家の中でか?」
「変かな?」
変だろ、とは言えなかった。彼女は虎杖との接触以降、外出の一切を許されていない。そのことを彼女自身が知っていたら、きっと傘を貰いに外には出ていなかっただろう。良いんじゃないかと言えば、そのまま傘を差していつもの場所に腰掛ける。悟がこの子を連れてきた時も感じたが、年齢よりもずっと幼く思える。とっくに成人しているというのに、虎杖たちよりも幼いんじゃないかと思うことさえある。
丸めた背中に服が張り付き、彼女の細くなった身体が強調されて思わず痩せたなと声が出た。
「夕飯、何が食いたい」
「あ、キッチン」
キッチンには、大きすぎる皿に調理されたであろう野菜が無造作に盛られていた。
「自分で作ったのか」
「うん、お昼ご飯」
「食べきれなかったか?」
これから食べるのだと、なまえが言う。切るのに時間がかかり、作り終えてから洗い物と片づけをしていたら俺が来たと説明された。水切りかごには、この家にこんなにあったのかと思えるほどの器が積み重なっていて、皿の野菜たちは既に温度を無くして力なく皿の上に在る。どれ、と味を見ようと手を伸ばせば、慌てた様子でその手を掴まれた。
「美味しくない」
「食べられない程じゃないんだろ」
美味しくないと言葉を重ねるなまえの手を出来るだけ優しく解き、手を伸ばす。‥確かに、世辞にも美味いとは言えない。けれど、言葉の通り食べられない程ではなかった。
「悟が出かけてすぐ作り始めたんだよ。だけど、食べるのはいつも夕方」
「‥夕食を食わないのは、それが原因か?」
小さく頷いて、こんな時間に食べると腹も空かないと彼女は言った。丁度いい分量のレシピは見当たらないし、切るだけでも相当の時間がかかると眉を下げる。
「だけど、私の分を作らなくて良くなった分だけ悟もちょっと楽になると思う」
「‥本気か?」
冥も言っていたが、なまえの口癖は悟の名だ。全てが彼奴中心に動いていて、最優先事項も悟。狭い囲いの中で生きているのだから仕方ない部分もあるとは思うが、彼女の中に彼女自身と言う存在が存在していないことが度々あるように見える。
「夕飯を食わない事、相当心配してるぞ」
「気にすることないのにね」
「お前だって、悟が食事しなくなったら心配するだろ。それと同じだ」
「‥そっか」
どうせ何日かは此処に来ることになっている。数日で料理を教えてやると言えば、なまえは相変わらず鍋焼きうどんが良いと言った。
「お前そればっかだな」
「夜蛾さんの鍋焼き、好き」
エプロンを渡され、隣で包丁の使い方から教えてやる。葱を切るのに七分。これは根気が要りそうだ。煮立てる間の手すき時間も彼女にとっては火の加減を見張る時間で、洗い物が遅くなるのはこういうわけかとパズルのピースがはまっていく。
そして、最後の卵を落とす。これはいつも彼女の役で、中心に綺麗に落ちると必ずこちらを見上げてくる。少し失敗しても見上げてくる。
「今日はどっちだ」
「一つ成功した」
「‥右」
既に蓋をされた土鍋を皿に乗せ、一つをなまえに持たせてテーブルまで持っていく。俺が蓋を開けるのを待って綺麗に落とされた卵を確認すると、当たりだねと柔らかく表情を崩す。それから自分の鍋に入る端の方に寄った卵を見せてくる。
「そっちの方が美味そうだな」
「夜蛾さんの方が当たりだよ」
「隣の芝生は青く見えるもんだ」
「やっぱり夜蛾さんは優しいね」
そう言ったなまえは交換した器からゆっくり一本を啜ると、その後黙々と食べ進めた。悟に聞いていたものとは随分違う姿に、これが無理しているのかどうかは俺に判断はつかない。
「いつも来てくれて、ありがと」
「好きで来てる、気にするな」
「仕事だから、でしょ?」
「まあ、それもある。が、好きな仕事だ」
「私も、夜蛾さん来てくれるの嬉しい」
「そうか」
ここ数年で漸く自分の言葉で感情を伝えるようになった彼女は、怖いくらいに素直で、純粋で。悟たちの成長を近くで見守ったように、彼女の姿もこうして見守っているからなのかそれともそれだけ自分が年を取った証拠なのか。自然と彼女の頭に伸びる手は、抵抗もなく彼女の頭に降り立った。
「うどん、伸びちゃうよ」
「もう食べ終わってる」
「‥ちゃんと噛んだ?」
「お前、悟に似てきたな」
「ええ、全然違うよ」
その後彼女の目に映る普段の悟の話を少しだけ聞いた。彼女に見せている悟の姿を聞いて、あいつにも心の休まる時間があるのだと少し安心もした。仕事と言いながら、悟はこの生活を気に入っているように思う。
「洗い物は俺がしよう」
「大丈夫、料理より得意」
「分担だ」
「そう言うとこ、夜蛾さんの方が悟に似てる」
「あいつが俺に似たんだな」
「うん、そっくり」
この純粋な笑顔を外の空気に触れさせたくないと考えた時点で、俺も悟のことをどうこう言える立場ではない。命が尽きるその日までその笑顔を守ってやりたいと思うこの気持ちは、仕事ではなく親心だと、いつか伝えてやりたいと思う。
親心