「悟、携帯鳴ってる」
「あーはいはい、ありがと」
脱衣場に忘れていた携帯を、風呂から上がりたてであろうなまえが走って持ってきた。床に水滴の目印をつけて来た自分の跡をどうしたもんかとしゃがみ込んだ彼女を見ながら、電話口の相手のつまらない話に耳を傾ける。拭き掃除用の道具を持って何度かそこを往復した彼女は、ついでにと他の掃除も始まった。電話口の声よりも流れている曲を口遊む彼女の声の方が耳馴染みが良くて、つい優先してしまう。明日のことについて念を押すように向こう側から聞こえてくる声にはいはいと返事を返して、電話を切った。
「なまえ、ちょっと来て」
ごく稀に言葉を返す事もあるけれど、相変わらず彼女の返事は短いままだ。それが以前と同じ理由なのかは、さっぱりわからないけれど。返事のままに、僕の後をついて洗面所までやってきた。
「髪、乾かさせて」
「悟、髪乾かすの好きだね」
「僕に乾かしてもらえるなんて、相当貴重だよ?」
承諾の代わりにドライヤーを手渡して、椅子に腰を下ろした彼女と鏡越しに視線が合う。
「うん、嬉しい」
心臓の音を掻き消すように、ドライヤーのスイッチを入れて細く柔らかい髪に熱を当てると、風に吹かれては指をすり抜けあるべき位置に綺麗に並んでいく。天然の色素の薄さは彼女によく似合っていて、揺れるたびに香るシャンプーの匂いが鼻を掠めては理性を揺らがせた。
「そう言えば、髪切るの止めたの?」
「ん?」
ドライヤーで声があまり聞こえないらしく、こちらも声を張り上げて聞くほどでもなくて、鏡越しに首を振る。するとなまえは、ドライヤーの風も気にせず後ろを振り向いた。
「あぶな、」
こちらが肝を冷やしながら、ドライヤーを一度止める。熱風が顔に当たったらどうするつもりだと声を荒げそうになるのをぐっと堪えて、彼女の頭に拳をこつんと落とす。
「急に振り向いたら危ない」
「悟の声が、聞こえなかったから」
「大したことじゃないよ。首も振ったでしょ」
言葉を聞いたなまえは静かに前に向き直って、再び鏡越しに視線を飛ばしてくる。
「声、ちゃんと聞きたかったの。ごめんね」
‥その言い方はずるいでしょ。
そう告げる前に、僕の手はそのまま彼女のこめかみ辺りを包んで上に顔を向けさせる。それから、彼女の鼻先に唇を落としていた。彼女の薄紅色の唇が僕の名をなぞりながら形作って、不思議そうに僕を見上げている。
「もう少しするけど、嫌なら首振って」
素直に小さく首を横に振ったなまえ。なんで振っちゃうかなあ。希望には沿わないことを軽く謝って、その薄紅色の唇に自身の冷えた唇を重ね合わせる。相変わらず彼女は瞳を閉じることなく、こちらの視線を捕らえるように真っ直ぐ見つめていた。
「終わり?」
「なに、続けたいの?」
「首、痛くなってきた」
「はは、ごめんごめん」
こんな風に、結局いつも彼女のペースだ。首を起こして少しだけ乱れた髪を櫛で梳かしてやれば、彼女はリビングに戻ろうと言って僕の手首を掴む。
「髪、乾かしてくれてありがとう」
そして離れる間際、掴まれていた腕を返して今度は僕が、細くて簡単に一周してしまう彼女の腕を掴む。勢いに任せて掴めば折れてしまいそうなその腕を、そっと、柔らかく。
「ご褒美は?」
はい、と腕を差し出せば、恥じらいもなく駄賃を払うように慣れた様子で手首に口付けを落とす。優しく添えられた両手指は冷たくて、伏した長い睫毛は色素が少し薄い。その一つ一つに、謂れのない独占欲が湧き上がる。
「悟は、手首にされるのが好きなの?」
「届くなら顔の方が嬉しいけど」
「届かないから手首だね」
「残念ながらね」
そんな、僕の独占欲を知らないなまえ。手首へのキスの意味もきっと知らない彼女は、残念だねと嬉しそうに言葉を紡ぎながら今度は僕の髪を乾かしてくれると言う。遠慮のないドライヤーは結構な仕上がりになるからと笑って遠慮してみたけれど、先ほどの笑みを継いだままの彼女には通じるはずもない。楽しみにしてると冗談めいた本心を溢して、ふわりと離れる彼女を引き寄せた。
濡れた髪とご褒美