「なまえってお前?」
「‥喋るパンダ、初めて見た」

悠仁たちの一つ上の子たちがまだ一年生の頃の事。夜蛾さんと一緒に、パンダが家に来た。そして、自分のことをパンダだと紹介してくれた。名前を聞けばパンダだと言うし、スピーカーの近くで踊り出すし、変わったパンダだと思った。家の中を案内してくれと言われ唐突に始まったツアーにパンダはノリノリで、脱衣場の鏡で格好つけてみたり、悟の部屋の前でここも見たいとドアをノックしてみたり、私の部屋の殺風景さに声を漏らしたり。パンダの正体は呪骸というものらしいけれど、説明を聞いてもあまり理解は出来なかった。ただ、彼が今日一緒に家にいてくれる理由はよく理解できた。

「お前の護衛任務を、パンダのような呪骸で行う話が出てる」
「そっか」
「そうなれば、悟とは会えな」
「なまえ!この家トイレに鍵がないぞ!」

夜蛾さんの言葉を掻き消したその声の主が私の手を引いて、見慣れたトイレのドアをよく見ろと開け放つ。改めて説明すると確かに不思議だけど、玄関と窓以外に鍵がないことには理由があると悟は言っていた。生活の中で鍵がないことを不便に思った事は無いから大して気にも留めていなかったけれど、パンダは酷く驚いていた。私の部屋も悟の部屋も、脱衣場も。走り回って確認しては本当だと目を丸くして。

「‥トイレに行く時、鍵しないのか?」
「‥パンダ、トイレ行くの?」
「お前俺を何だと思ってんだ」
「パンダ」
「ああ、俺がそう言ったんだった」

その後トイレがもう一つあることに気付いたパンダは、二人暮らしでトイレが二個あるのは便利だなと胸を撫で下ろしていた。そんなところでホッとしている姿がなんとも面白い。部屋の案内を終え、夜蛾さんが作ってくれたご飯を食べ終えると、流れていた音楽を変えることを告げていつもの場所に腰を下ろして外を眺めていた。

「俺のことは気にせず、好きなことしろよ」
「してるよ」

外を眺める私を不思議そうに見つめた後、窓に張り付いて外を見下ろしているパンダは、何が見えるのかと私に聞いた。

「月」
「好きなのか?」
「うん」
「見ると良いことでもあるのか?」
「安心する」
「そうなのか。俺も見よう」

そう言って、パンダは私の隣に腰を下ろした。丸い尻尾がチョンと出ていて、思ったよりも硬い肌触りが手の甲に触れる。ただ見ているだけの時間が好きな私は良いけど、落ち着かない様子のパンダ。私の方を何度も見ては月に視線を戻して、初めて聞くであろう流れた音楽を追う様に鼻歌を歌っている。実に、暇そうだ。

「好きなことして良いんだよ」
「だからこうして隣に座ってる」
「変なの」
「お前も変だから気にするな」

こんなに面と向かって変だと言われたのは初めてで、私の顔を見て鳩が豆鉄砲を喰らった顔をしていると言った。パンダに鳩の様だと言われたことがおかしくて、ふと笑いが零れ落ちる。聞いていた夜蛾さんも、小さく笑みをこぼしているらしい。

「月って、美味そうだ」
「あ、お饅頭あるよ」
「最高だな!食べよう」

キッチンの戸棚、小腹が空いたら食べなと言って私でも届く場所にいつも閉まっておいてくれる。結局食べるのはいつも悟と一緒の時だから、一度も自分で取った事は無いけれど。

「丁度三つだ」

今日も自分ではなくてパンダが戸棚をあちこち開けて、お目当てを見つけてくれた。

「一個は悟の。二人で一個ずつ食べて」
「お前は?」
「昨日食べたから」
「俺も昨日饅頭を食べたが、今日も饅頭を食べるぞ」
「‥うん?」
「昨日食べたら、今日は譲るのか?」

そう言われて、思考が一瞬止まってしまう。そんなこと、聞き返されたことが無かったから。昨日食べたから、と言うのは理由にならないのか。そもそも、こんな風に誰かに何かを譲る状況がこれまでに何度あったんだろうか。

「なまえ、俺にくれた分を半分返そう」
「‥夜蛾さん、足りないでしょ?」
「腹を満たすための間食じゃない。共有するための間食だ」

お前も食うだろ、と優しく笑う夜蛾さんが私の顔の前に半分に割ったお饅頭を差し出してくれる。

「いいなあなまえ。今日の月と同じ半月だ。新鮮な月を食べられる」

俺も割ろうかなと、月にお饅頭を重ねたパンダが一思いに半分に割る。

「俺は今日の半月と、隠れてる半分も食べる」
「隠れてるとこもって、すごい」
「そんなことが凄いのか?喋る方が凄くね?」
「そうだね」

パンダはまた、私のことを変な奴だなと言って笑った。夜蛾さんの様子を伺うように何度か視線を移しては、お饅頭を口に運んで頬を緩ませている。食べ方も言葉遣いもどことなく夜蛾さんに似てる。パンダは、夜蛾さんが大好きなんだなと思った。

「そういや、悟と任務を変わるのは俺かもしれないんだと」

唐突に、話が最初まで戻った気分だ。そっかと答えた私に、あっさりしてるんだなと淹れたお茶の香りを楽しむパンダが言う。

「そうなったらお前、悟とは会えないらしいぞ」
「パンダこそ、色んな制限がついちゃうよ?」
「だから悟に意地でも変わるなって言ってきた」
「そっか」
「言われなくてもそのつもりだって、突っ撥ねられた」

湯飲みから口を離して渋い声を出したパンダが、一呼吸置いた後私の方をじっと見つめてくる。それから、黒目がなくなるくらいにっこり笑って、良かったなと言った。悟は仕事だからとか回りくどいことは頭の中に無くて、ただその言葉に素直に首を縦に振れた。不思議だった。

「残った一つは、悟が帰ってきたらハンブンコしろよ」
「いつも、絶対一口くれるんだよ」
「はは。悟も、お前と共有したいもんがあるんだな」
「そうかな?」
「さあな、人間のことはパンダには分からん」
「何それ」

私よりずっと人間らしいことを言うのに、人間のことは分からないと言う。パンダだからと言う言葉のインパクトに押されて、私も何故か納得してしまっている。パンダは、やっぱり不思議なパンダだ。マイペースに、風呂でも行くかと立ち上がり、フローリングを滑るように進んでいく。いつもはお風呂に入らないらしいけれど、今日はオーバーヘッドシャワーを使いたいと言うから、お風呂の様子を見ていてもいいか聞いてみた。破廉恥だなと断られた。

「‥もしかして、悟の風呂も見てんの?」
「ううん」
「どうだかなー」
「しないよ」
「明日悟に聞いてみよ」

逃げるようにお風呂場に向かって行くパンダの足取りは軽やかで、その真っ白な背中を見送りながら、夜蛾さんが困ったように眉を下げて私に声をかけてくれた。

「あれでいて、周りの人間をよく見てる」
「うん」
「上がってきたら、乾かすのを手伝ってやってくれ」
「エアコンの風、使う?」
「すまないな、世話をかける」

私はドライヤーが下手だからと言えば、夜蛾さんは自覚があったのかと言う。夜蛾さんもそう思っていたんだな。前に悟に言われたことがあると言えば、下がりかけのサングラスを指で押し上げて、失言だった、許せよと笑っていた。

「お前が自分から望むなら、その時は呪骸を作ってやろう。お前の呪力を使った呪骸を作れるかもしれないしな」
「悟が息苦しくなった時も、作ってあげて」
「‥ああ、約束しよう」
「ありが」
「なまえ、ここのタオルふっかふかだな!」

烏の行水というか、パンダの行水とでもいうべきか。自分の尻尾よりもずっと柔らかいぞと尻尾を振りながら戻ってきたパンダの大きな声に、会話は終わりを告げる。尻尾を拭かせてやろうとエアコンの風を直に浴びているパンダのお言葉に甘えて尻尾を拭けば、パンダはまた流れている曲の鼻歌を歌い始めた。あのシャワーは良いなとご機嫌そうだ。それからお休みを告げ、翌朝ここから去るその時まで。そして帰ってきた悟が、パンダと風呂に入ったんだって?と飛んだ解釈違いの質問を飛ばしてきた時も。パンダがいた空間は、ずっと賑やかだった。そして、やっぱり悟はお饅頭を一口くれた。いつかパンダに会ったら、ちゃんと共有したよと教えてあげようと密かに思っている。

半月とパンダ


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