「学長に呼ばれててさ。少しの間、此処にいて」
「ん」

学内とは言え、彼女の元を離れて良いはずは無い。そして、学長に呼ばれているわけでもない。唐突に訪れた状況でも、なまえはいつも通り小さく頷いた。毎度、呼び出しついでに実験めいたものが遂行されている。勿論、本人への告知は無い。隙あらば彼女の膨大な呪力を有効利用しようとする魂胆丸見えの事態にはほとほと呆れるが、当の本人が意味も把握しないままそれで良いと上に言葉を返している以上、こちらもやらないわけにもいかず、渋々重い腰を上げて現在に至る。一定の間隔を取りながら、気配を消して観察することになっていた。それっぽく双眼鏡を覗いて様子を窺えば、なまえの視線が客観的には不思議に映っているのだと、改めて感じることになる。まだ何も無い方をじっと見つめている姿が、誰かの気配を待っているなどと知らなかったとしたならば。

「真希」

細い声が届く距離になって漸く、待っていた気配の主の名を呼ぶ。緩やかに駆けていき、自分より背の高い女子生徒に抱き着いた。いつもより少し多い声量と、飛び跳ねた声。爪先で立ちながら彼女の首元に手を回して、嬉しそうに笑みを零している。名前を呼ばれた真希も、飛んできた軽い身体をひょいと持ち上げて目を細める。‥女同士って、良いよなあ。

「元気そうじゃん。久しぶりだな」
「真希も。会いたかった」

会いたかったなんて言わせることが出来るのは、おそらく真希くらいだろう。二人の出会いは、真希が高専生になった時に一度。それから少しして遣いに来た時に一度。ほんの少し会っただけの真希を随分と気に入っていて、彼女の話をよく聞きたがった。

「一人なんて珍しいな」
「悟も一緒だよ」
「その、サトルは?」
「夜蛾さんの所に行くって。でも、平気」
「お前の平気は信用出来ねえよ」

僕が戻るまで一緒にいてやると、そこらの男よりよっぽど頼りになる真希の言葉に、柔らかく笑みを浮かべるなまえ。嬉しそうだ。その場に腰を下ろす姿は、十歳近く年が離れているだけあってなまえの方がいくらか大人びて見える。ちゃんと歳を重ねているんだと、実感できた。

「もう少し早けりゃ、パンダにも会えたかもな」
「パンダ、元気?」
「あれが元気ない時あると思うか?」
「想像つかないな」
「奇遇だな、私もだ」

ゆっくりとした会話が彼女達の時計の針を進めて、真希の表情も幾らか柔らかい。会話は花弁が開くようにゆっくりと進んでいて、なまえはずっと嬉しそうに真希が隣にいる時間を楽しんでいた。

「そっちは変わったことないか?」

タイミングを見計らい投げかけられた真希からの質問に、少しの沈黙の後で首を横に振るなまえ。眼鏡を外してコリを解すように目頭を軽く押さえた真希は、なまえにゆっくりと視線を向けると、本当にさあ、と言葉を漏らした。

「悟、真希はどうだ」
「学長が心配しすぎなだけ‥って言えたらいいですけど」

なまえに時々会うだけの人にとっては、彼女があの頃から変わらず生への執着がないように見えるそうで、彼女の存在を確かめるように皆一様に手を伸ばす。まだ若い真希の眉間には、それと同時に何本かの皺が寄る。これ以上は、止めた方が良さそうだな。

「真希、つ」
「はーい、お待たせ」

なまえの言葉を遮ったからか、荷が重かったからなのか。

「悟。夜蛾さんも。」
「よく来たな、なまえ。呼び出しは疲れたろ」
「平気だよ」
「おい、ハゲ」

学長に頭を下げたついでに、学長と話すなまえの表情に安堵を見せた真希は、ツラ貸せよと僕の腕を引いてその場から距離を取った。

「ハゲてないけど、お疲れサマンサー。毎度すまないね」
「抑え込んでる反動か?短期間で増えすぎだろ」
「だよねえ」

天与呪縛によるものなのか、禪院の血か。いずれにしても、呪具の有無関係なしにあの子の呪力を視認できるのは、現状真希だけだ。

「指一本でどこまで保たせる気か知らねえけど、良くて数年だと思った方が良い」
「OK、分かった」
「‥本当に分かってんのかよ」
「最近じゃ睡眠時間が前より格段に増えてる。あのペンダントを外せば、その場で‥ってとこまで来てることくらいは、見えなくても見当はつくよ」

なまえが大事にしているあのペンダントが禪院家のものだと知ったのは、真希が見覚えのある呪具だと言ったからだった。禪院家の誰もがそれについて口を噤んだのは他でもない、術式を引き継いでいない者の証だからだそうだ。烙印のようなそれは、通常の術師には単なる飾りにしか見えないらしい。呪術師が見えるであろう物が見えない真希にとって、他の人が感じない違和感を覚えた記憶はあまりに衝撃で、断片的ではあるものの異様に鮮明にこびりついているらしい。それが禪院のあの男の持っていたものだと分かったのは、独自に調査を進めた割と最近のことだけれど。禪院はもとより、御三家の血を継ぐ者は、彼女の気配を確認させている。この七年、真希を除いて誰一人として気付いたものはいない。なまえに興味を持たない者は、彼女を何も持たない一般人くらいにしか思っていない。一番感知の可能性がある恵は、僕が引越しの手伝いをさせた時にペンダントを外した彼女の居た部屋の隣を通った時に検証済だ。壁一枚を挟んでいるとはいえ、あの膨大な量の呪力に恵は一切気付かなかった。成長した今でもそれに変化はない。それはそれで不思議な話だけれど。

「‥もう、思い残すことないんじゃねえの」

そんなことを生徒に言わせる僕は、教師として失格だろうか。

「何とかしろよ、最強なんだろ」

こういう時、学長なら上手い言葉をかけてやれるんだろう。あの時みたいに。そして、なまえの様子がおかしくなった時みたいに。

「そうだね。それは僕の仕事だ。真希は、ずっと笑っててやって」

こういう時こそもっと飄々としていなくてはいけないんだろうと思うのに、出てくる言葉はまるで本心みたいな重苦しいものばかりで。真希の頭に手を置けば、それはすぐに振り払われた。

「子ども扱いすんじゃねえよ、ハゲ」
「真希の身長で僕の頭のてっぺん見えないでしょ」
「うるっせえな」

大きくなった声を辿り、学長の横でこちらに視線を移したなまえが真希に手招きをした。

「真希も十分、背が高いよ」

それからするりと手を伸ばし、その頬を撫でる。姉のように優しく微笑むなまえの横顔は、真希の先程の言葉を釘打ちするように頭の中に響いていて。

もう、思い残す事ないんじゃねえの

数メートルの距離が無駄に遠く感じて、身体が重く感じて、見えなくなってしまいそうで。だけど彼女は、この長い脚でも届かないその溝に、手招き一つで橋をかけてくる。あちらとこちらを繋いで、あちらとこちらの境を無くして。歩みを進めてその距離があと数十センチになれば、学長の隣を離れ、僕の名を呼びながらこちらに寄ってくる。

「悟、」

それから、リビングで月を見上げるのと同じように顔を持ち上げて、帰ろう、と僕の服の裾を握った。細く長く吐かれた息は、彼女の疲労を示しているようだ。学長はともかく、真希には見せたくないのだろう。最後まで優しく笑ったなまえは、手配された車に手を伸ばして、乗り込むとすぐに大きく息を吐いて、その疲労を吐き出した。

「長居して、無理させすぎたね」
「ううん」

力なく笑って、目を閉じる。窓に頭をもたげて肩で息をする姿は明らかに不調の現れで、彼女の頭を自身の膝元へ移動させれば、横になったなまえはありがとうと息を吐いた。

「真希に会えて、嬉しかった」

彼女は、真希が眼鏡を外す理由を知らない。今日の接触が計画的なものだと言うことも、真希があの男の親戚だということも、あの男と似た力を持っていることも、裸眼でなくては彼女の呪力が見えない事も、手を伸ばしたその理由も。

「悟も、見ててくれたから」
「僕?」

眠ればいいのに、律儀に僕の声に言葉を返す。思いもしない言葉にこちらの声が短く飛び出したことに、なまえは知ってるよと口元に緩やかに三日月を浮かべた。

「夜蛾さんと、森の奥の上の方」
「気づいてたの」
「やっぱり、外は賑やかだね」

それから校内の気配が以前よりも格段に増えたと、なまえは言った。校舎が大きくなったのかと、それともたくさん学生が増えたのかと。そのどちらでもない。むしろ今は出払っている奴も多く、人員は減っている。それに僕らは、気配を消していた。消した気配をどう察知したのか聞いてみても、気配としか説明出来ないと言われて話はそこで終わる。
なまえの空間把握能力は、甘く見積もっても平均以下。彼女の言う校内がどの範囲を指すのか、もしそれが想像を遥かに超えているのだとしたら、朝から今までどれだけの情報がどれだけの速さで流れ込んでいたのか。想像するだけでも息が詰まりそうになるのに、それを拒絶しない彼女の心身。

「部屋まで運んでやるから、ゆっくり休みな」
「でも、悟も疲れて‥」
「最強だから、大丈夫」
「‥ん、ありがとう」

その呼吸を徐々に規則的なものに変えた彼女は、そのまま翌日まで眠り続けた。代わりにと言うわけではないが、彼女が目を覚ますまで、睡眠という行為自体の存在さえ忘れたようにただ思考が忙しなく動いていた。彼女の身体をベッドに沈め、そっと髪を撫でた昨夜。呪いのように彼女の首元を捕えるペンダント型の呪具は、彼女の肌を滑り落ちてだらしなく揺れていて。

最悪の場合、半年しないうちに終わると思った方が良い

半年とは何日だ。半年とは何時間だ。
‥いつになったらこの生活から解放してやれるだろうか。索敵要員として、今からでも育てられるだろうか。

‥‥これじゃあ上の連中と一緒だ。

「いつまでここに居たい?」

どんな返事を期待したのか、或いは返事が返ってこないこと自体を期待したのか。喪失感や空虚感は簡単に拭えるものではないと痛いほど知っているのに、またそう言うものに手を伸ばそうとしているなんて、本当に呆れて言葉も出ない。

「ん、‥」

まだ開ききらない瞳で何度かゆっくりと瞬きをしたあと、掠れた声でおはようと共に僕の名を紡ぐ。

「おはよ。腹減ったでしょ。もうすぐ昼食だ」
「‥仕事は?」
「今日は家にいるから、安心して」

そっと開いた目を細めて、なまえは僕の頬に手を伸ばす。昨日の真希に触れた時のように、そっと。

「何かついてる?」
「休みの日くらい、好きなことしてね」

頬に触れた手が滑り落ちないよう、自然と彼女の掌を覆うように伸びた自身の掌。

「今もしてるよ、好きなこと」

楽にしてやろうと思うなら、消してやればいい。きっと彼女は抗いもしないし、一番シンプルで、一番簡単なこと。

「そっか、」

それをしないのは、僕のエゴだ。
傲慢かもしれないけど、もう少し。

「最後までいるって言ったでしょ?忘れた?」

もう少しだけ、生きててよ。

その先の終着点


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