誰、この子
煙草の煙のように吐き出した言葉を、五条の連れてきた少女は目を丸くして聞いていた。あれからこの家に来るのは三度目。あどけなさの抜け切らない彼女が、リビングの床に座り窓の外を眺めていた。私にゆるりと手を振り、体をこちらへ向き直す。彼女の時間の邪魔をしただろうか。この部屋に足を踏み入れるのは少し、躊躇いが生じる。
「変わらないものだな」
「硝子さんも」
相変わらず綺麗、と世辞のような言葉を吐いて笑いかけたなまえ。困ったことに、彼女は世辞を知らない。照れる程ではないものの、悪い気はしない。これが五条に、ねえ。
「硝子、処置してやって」
「そう急かすな」
昨日の昼間、食事の支度をしている最中に沸かし途中のお湯を溢して火傷をしたらしい。彼女自身が申告するはずもなく、かと言って隠すわけでもない。その、スカートの下から少しだけのぞいたガーゼの端を、五条の目が捉えた。この件に関して言えば、六眼は別段関与していない。あいつの興味の問題だ。
「見せて」
私の声に合わせ、足首の少し上にある赤い痕を遠慮がちに見せるなまえ。朝早くから五条自ら迎えに来るほどだからどれ程かと心配したが、思ったよりも小さくて、ほっと胸を撫で下ろす。
「大丈夫、すぐ良くなる」
このくらいの傷ならば、術式も僅かしか効かない彼女の体質でも効果が見える。ほとんど見えなくなった傷跡を撫でながら、彼女はありがとうと頭を下げた。最後の所は彼女自身の治癒力に任せるしかないのは、何だか悔しいが。
「いっぱい食べて、早く治しなさい。学長も心配していたから」
ぺらりとした腹部に手を当てると、なまえは分かったと頷いた。
「そうだ、手土産に下着買ってきた。つけてみて」
「今?」
「五条にも見せてやる?」
「硝子」
何だ、紳士ぶってるのか。いいから早く行けよと言わんばかりの表情で私の名を呼んだ五条が面白い。脱衣所行こっか、と背中を押して、扉を閉める。
「脇腹。見せて」
「全然平気だよ」
「医者じゃないでしょ。勝手に判断しない」
強めに言葉を放つと、それ以上は何も言わず服の裾をゆっくりと捲って、大きな絆創膏で隠されたそこを見せる。
「剥がすよ」
「うん」
深さはないが、足首よりも余程広範囲の赤い痕。先程上から触れた時のことを謝れば、いつものように平気だよと言葉を溢す。平気なはずないだろうに、自分の痛みに鈍感なわけでもないだろうに。そっと手を翳し、患部に意識を向ける。
「‥五条には?」
じわじわと小さくなっていく赤い痕を見つめながら首を横に振ったなまえは、五条には言うつもりもないと言った。
「足の火傷も、心配させたみたいで」
自分は他者への気遣いばかりしているくせに、他者からの感情に対してはまだまだ疎いらしいという、いつかの学長の言葉が頭を過ぎる。
そりゃあもう大騒ぎだったよと脳内では間髪入れずに突っ込んだけれど、口からはそうだったのかと紙切れのような言葉がぺらりと落ちた。
「ありがとう、硝子さん」
処置を施す私の手に触れたなまえ。拒絶するように、それ以上は小さくならないらしいその痕に視線を落としながら、もう平気だと彼女が私の手を自身の腹部からそっと降ろす。
「なまえ」
それ以上の言葉も不要だと言うように、ありがとう、ともう一度礼を言われた。嬉しさより悔しさの残る礼に、片手をひらりと振るしか返せない。
「服で隠れる場所で良かった」
五条の目につく場所じゃなくて良かったと、彼女は言う。
「‥無粋なことを聞くけど、キスもまだ?」
それをどう受け止めたのか、返答の代わりに彼女は少しおかしな頼み事を私に告げる。何か意味があるのだろうとその言葉の通りに手を伸ばして、彼女の頬をぐに、とつまめば、優しいなあとなまえが言う。五条はこういう時容赦ないのだと、無表情な割に思い出を大事に抱えているように話をする。
「してないよ」
淡く呟いたその姿にそっと手を離せば、名残惜しさも見せず適当な理由としただけの言葉を信じて下着をつけて見せてくれる。‥五条の奴、不憫。
「うん、よく似合う」
正直、買ってきた白地に金色の刺繍が入った下着よりも、朱く染まった腹部が気になって仕方ない。もう何度か見に来てやりたいけど、学長と違って私が彼女に接触出来る条件は限られている。上は彼女の傷一つ、微塵も気に留めていない。五条が大騒ぎをして、あれこれそれらしい言葉や条件を並べて、今回ばかりはと学長も口添えしたと聞く。そう言ったいくつもの扉を開けて漸く私がこの家に来ることが許された。
「それじゃ」
またねの代わりにお大事にと言葉を置き換えて、早々に部屋を後にする。下まで送ってくると彼女に告げて私の隣を歩く五条。それは単なる名目で、あの子の様子を聞くためだけのものだ。
「ありがとう、硝子」
それを知らない彼女は、きっと今頃コイツを優しい男だと思っているに違いない。
「五条の言う通り、腹側部に一つ。範囲は広いけど、酷くはない。三日もあれば良くなる」
彼女が服の下に隠していたそれを、下着の試着と称して診るよう仕組んだのは他でもない、この男だ。彼女に足以外に怪我はないかと聞いてみても、頑なに平気と言葉を告げるだけだったそうだ。きっと、彼女にとってはこのくらい、と呼べる事象でしかないのだろう。だから、このくらい「平気」なのだ。彼女がどうして五条に言わないのかも奴は気付いていて、だからこそ慌ただしく私をここまで連れてきた。
「五条にも言うつもりはないってさ」
「僕が心配しないと思われるよりよっぽど良い」
絶対に気付くしと言葉をこぼす五条の横顔は、少し拗ねているようにも見える。
「猫被ってんなあ」
久しく見ていなかった五条の焦りが面白くてもう少し揶揄ってやると、心配なんだよと項垂れる。珍しいもんを見た。割と本気のトーンに、私も真面目に、心配いらないと返す。
「キスもしない関係で、よくあんなところ気付いたな」
「そんな事まで話したの?」
「頬抓る時は容赦ないって、いつも何してる」
私の言葉に五条は笑う。突然何だと聞いてみるけれど、答えはない。
「おかしな奴」
「今なら何言われても許す」
いつものふざけた笑みの中に温もりのある笑顔が混ざっていることを、本人は気付いているんだろうか。そんなんで最期の時は大丈夫かと喉元まで出かかった余計な世話を飲み込んで、彼の言葉に応えるようにあれこれ適当に言葉を吐いてみる。
「いや、言い過ぎ」
「許すと言われたからな」
迎えの車のドアを開けた五条は、乗り込む私にもう一度ありがとうと礼を告げた。一つのことに何度も礼を言うような男ではなかったのにな。
親友のアイツの最期も、愛しいと言うあの子の最期も、己が執行する。誰かにやられるくらいなら、自身でやった方がマシなんだろうか。
「エゴは身体に毒だぞ」
「喫煙者に言われても」
笑いながら、窓一枚を隔てた五条が手を振った。今の幸福を良しとするか、今の幸せが後の不幸になることを悪しとするか。他人が悩むことではないと分かってはいるが、前歴がある分多少なりとも心は痛む。煙草よりも咽せ返りそうな煙たい溜息が、乗り込んだ車の中に充満する。緩やかに降りる境界線は、少しの隙間から外気を送り込む。
「暑いですか?空調を入れましょうか」
「いや、外の空気を吸いたいだけだ」
清流のような透明さはきっとないだろう。それでもいくらか、息がしやすいような気がした。
煙草と溜息