生まれつき、膝の関節裏。膝の関節裏の皮膚にアトピーができていた。
痒くて痒くて掻きむしれば掻き毟るほど、瘡蓋が剥がれては、膿が出できていた。ネッチョリとしたなにか肌の細胞と血がいつもそこにあって。小島のようにまた、瘡蓋になっていた。
「痒いの?」
優しい声で聞いてくる。
「痒いよ」
「薬塗りなよ」
彼女の言葉に、うーんと曖昧な言葉で返す。肘や膝を曲げればネッチョリと関節の皺に逆らって縦にできているアトピーがくっついた。
「ほら、やめなってば」
そういうと、ぐいっと手を引かれた。
彼女を見れば、言葉とは裏腹に楽しそうな顔をしていた。
口は癖なのか、三日月にならず右側が少し上がっている。八重歯が光る。
八重歯と犬歯の違いは、なんだろうか。あまり詳しくない。だって、興味がないから。とんがってる歯は、なにかを食い殺さんとばかりに尖って見えた。
その顔を見るたんびに、私はゾクゾクとして彼女から逃げられないなと思う。どうして、こうなったんだろう。私は、彼女が憎くてしょうがないのに。
「香苗!」
そう呼んだのは私の友達。何事かと振り返ればただ挨拶しただけだったようで、手を振ってきたから手を振り返した。満足したのか彼女は移動教室らしくこちらに来ずに曲がってしまった。
その時、見たことない女の子がいた。綺麗な髪の毛だなと思った。ミディアムのくるりんと最近流行りのパーマをした毛先が揺れていた。
「私、好きな人ができたの」
暫くしてからのことだ。彼女からラインが飛んできた。内容は「電話していい?」と簡潔に描かれていた。私は承諾のラインを送れば、すぐに電話がかかってきた。
どうしたの?と言えばその言葉が返ってきた。そうか、好きな人ができたのか。良いことだ。相手は誰だろうと思い聞いてみたら去年同じクラスだったある男の子だった。ほう、彼か。悪くはない。べつに暗いわけではないしうるさいわけでもない。優しい子だ。
「叶うと良いね」
彼を好きになった理由。好きなところ。すべて話してくれた。気づけばもう電話が1時間を迎えようとしていた。
私がそう言えば彼女は嬉しそうに、返事をしてくれた。
「あ」
私の短い言葉がさしたのは、前に見た彼女の友人だ。私の声に反応してこちらを向いた。
蒸し蒸しとする通学路で緑のフェンスに緑の蔦が絡まってる壁をなんとなく眺めて前を向いたらそこ彼女がいた。たったそれだけだったが、彼女はああ。となにか納得した顔をした。覚えてくれてたのだろうか。
「おはよー」
「おはよー」
挨拶というのは、素晴らしいものだと思う。初めての相手に、はじめましてはかなり難易度が高い。その後に沈黙が響いてしまうから。
でも、おはよう。だとそうでもない。挨拶だから。沈黙ならずにすれ違うことができる。
割と活発な格好をしていると思う。暑いからか、前髪をあげてピンで留めていた。第2ボタンまで開けて指定のネクタイをしていた。水色の半袖のシャツは袖をクルクルとまくって肩のところでこちらもピンで留めていた。まるでノースリーブのようだった。
活発にしては白い肌で長い腕が印象だった。私の腕にはアトピーがあるから綺麗なのは羨ましい。
「覚えてたの?」
イヤホンを外してそう聞けば向こうもイヤホンを外して、
「まぁね。そっちこそ、見えなかったでしょ」
と返して来た。
「いや、一瞬だけ見えてたよ」
「一瞬で覚えたの?」
「いや、印象があって?」
「どんなだよ」
彼女は笑った。
ハッと短く鼻で笑うように笑った彼女。眉毛を少し眉間に寄せて歯を少し見せた。綺麗な歯並びだと思う。下の歯を全く見せずに笑う器用さがあった。
彼女は、友人と同じクラスに入っていった。なるほど、同じクラスなのか。去年は見たことない子だからきっと遠いクラスの子なんだな。
「憎んでる?」
右端をあげて笑う彼女は、不気味で嫌えなかった。
「無理だろうが。なぁ、茂木」
彼女は、私を苗字で呼ぶ。名前では呼ばない。
「なぁ。茂木ぃ」
めっとりと呼ぶその口調はもう、私の中で染み付いていて、即座に反応してしまう。
私は彼女のことを好きになれないのに彼女がいないと生きていけない。だからこそ、腹が立つ。
「なに?」
「茂木ぃ。お前、これ」
彼女が指差したのは私の体に新しくついてる瘡蓋の腕輪。
「なにこれ」
「え、いや」
私がなにか言い訳をしようとしていると、彼女はしゃがんでる私の顔の右横に細長い右足を思いっきり足の裏で壁を壊すかのように蹴ってきた。ガンッと大きな音を立てた。私は驚いて肩をびくっと動かした。
「なに、また、あいつら?」
違うよと言いたがったが、彼女の顔が怖くて言えなかった。
「おいおい。フザけんなよ」
彼女が怒っている。人は怒りを鎮めようとするものだ。ごめんなさいと謝る。
「あぁ?なんべんもいわすなよ。殺すぞ」
「ごめんなさい」
彼女が私を捨てそうで怖い。嫌いなのにそうやって捨てられないように嫌われないようにすがる自分に吐き気がする。
「同じめにあいたいの?」
ぶらりと体が震えた。
「いやでしょ?」
そう言った彼女に、首が取れそうなほど頷いた。
「もう、二度としないでね」
彼女が優しく笑う。
慶
男らしい短い爽やかな名前は、私を見つめて離さない。
「慶」
「ああ。茂木」
夏休みが終わったのにまだ暑いが、夕方はそんなに暑くなくなってきた。デコ出しとノースリーブ風のシャツの慶は居なくなって。普通の夏服を着た慶とは普通に話すようになっていた。
「そっか。じゃあ、今日は1人なの?」
友人は無事、想いの人と結ばれた。惚気のラインがちらほらとくる。
「そう。まぁ、いつも1人で登校だったからなんとも思わないけど」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ。途中まで一緒でしょ?」
軽く提案すれば、いいよ。と返ってきた。
「茂木は、好きな人できないの?」
ふいに聞かれた言葉に私は、喉を詰まらせた。
「人を、好きになれないの」
「難儀だな」
慶の言葉は軽かった。
「いいんだけどね」
そう言って話は終わった。途中まで一緒だと思っていたが、割と近くなのか慶はずっとついてくる。
「割と一緒の道?」
「いや、そういうわけじゃないけど。こっちからでも帰れるから。どうせならって」
「なるほどね」
そういうことなら仕方ない。私は、途中までならいいやと思っていたのに。家がすぐ近くまで見える。
「じゃあ、ここ家だから」
「ん」
結局家までついてきた慶。
家についてあまり知られたくなかった。
「顔色が悪いね」
慶はそう言った。
「そう?」
「はやく、帰ってほしいそうにずっとしてた」
ギクリとした。背中に冷や汗が流れて、今バレるような顔をしてなかったか不安になる。
「隠してるだろ」
慶は割と口が悪い。でも、楽しそうに言うからあまり感じない。
「その痣は、なに?」
「あ、アトピーだよ。私、生まれつきアトピー持ちだから」
言い訳だけど言い訳じゃない。曖昧な線を引いたのに
「そこじゃねぇよ。太もものやつ」
「ぶったの。机で」
冷や汗が止まらない。怖い。入ってこないで。
「うそだな」
確信を愉快に言った。
右側の口端をあげて笑う。その瞬間、泣きたくなった。怖い。慶は今、得体の知れないものになった。
「虐待っていうんだよ。それ」
楽しそうに事実を突き刺してくる。
「ちがうよ」
「違わないだろ」
彼女は荷物を持たない人だった。サコッシュに必要なものだけ入れていつも背中に斜めがけにかけて移動していた。身軽な彼女なら玄関前の門を開けたところで逃げきれないだろうなと思った。
「助けてあげるよ」
その言葉に私は、
「やめて!」
と大声で返した。慶は驚いていた。
私は一度、児童施設に送られたことがある。恐怖だった。親を悪いもの扱いされて。親から切り離されて。泣きそうだった。怖かった。だから、私はこの家に囚われてる。親を憎んでるかと聞かれれば、憎んでいる。痛いし辛いし、きっと私は普通の生活ができないんだろうなと思う。でも、親から離されるのは苦痛だった。
「いやだ」
短く簡単に言った言葉は、私の頭を真っ白にするにはちょうど良かった。
「いやだよ」
そういうと彼女は笑って
「助けるって、いい意味じゃないから」
とだけ言って帰って行った。
得体の知れない彼女を私は恐怖の枠に入れた。
急いで家に入る。鍵をかける。息が乱れる。怖い怖い怖い。なんだあいつ。
「なに、帰ってきてたの?」
びくっと体が揺れた。
「あ、た、ただいまお母さん」
家に入ればちがう恐怖で身体が小さくなった。
ジュッと音がするのは、私の手の甲に黒い跡ができる。ファンデーションで隠さないと。怒涛の声は鳴り止まず、心静かに殺していくことだけが正義だった。
「で、茂木。どっちから受けてるの?」
それとも両方?と楽しそうに聞く彼女。慶は苦手になったから近寄りたくなかった。
蝉はまだ鳴いていて、うるさかった。
「で、どっち?」
言いたくなかったから、通り過ぎようとしたら
「おい、無視はよくないだろ」
と私の腕を掴んできた。痛くて顔を歪めた。そのまま慶は私の腕を引っ張ってどこかへ歩いていく。私は引き留めようとするが、無意味で踵のゴムがすり減ってる気がした。
「け、慶。離して」
そういえば素直に離した。それがまた、怖い。
「助けてあげるよ」
「余計なお世話だよ」
「うそつけ」
「うそじゃない」
「うそだよ」
「うそじゃない」
「うそだってば」
「うそじゃないってば!」
大声で言えば彼女は黙った。連れてこられたのが人がいないところでよかった。
「嘘だって言ってんじゃん」
懲りずに慶はいう。顔を上げて慶を見れば右端をあげて笑うあの笑みをしていた。
「うそだろ。だって、目が揺れている」
奥にいる私を見つめているかのような慶に怖かった。近寄ってくる慶はあの、斜めに上がった三日月型した笑みをしていて私は、慶が近寄るに連れて一歩、一歩と下がった。
わたしの腕も掴んだ。後ろにあった壁にぶつかった。部活棟の壁はサーモンピンクだった。部活に入ってない私はあまり知らないが新部活棟ができるらしく、こちらのは潰れるらしい。
壁に押しつぶされた私の目の前には水色のシャツに黒いネクタイが揺れている。ネクタイには銀色のネクタイピンが止められていた。相変わらず、第2ボタンまで開けてある彼女の首は細く、鎖骨がのぞいて首の真ん中にあるへこみがなんだかいやらしく見えた。右の鎖骨に小さなホクロを見つけた。細っこい首にはそれよりも大きな、でも、普通なホクロを見つけた。握られている腕に力を込められた。痛くて目を細めた。あの日みた、綺麗な黒髪が垂れる。薄桃色した形のいい唇が恐ろしく生々と動く。
「頼むのなんて、私しかいないだろ」
瞳が揺れたのを、自分で感じることができた。
「虐待なんて、誰にだってあるだろ。今のご時世。自分だけみたいな顔して、悲劇のヒロインか?なぁ、茂木」
あまりに楽しそうにいうから泣きたくなった。心を綺麗な棒で混ぜられている気がした。
「放任主義だって、今じゃ、ネグリフトだろ。なあ、茂木。もう一度聞く」
慶の瞳が赤茶色なのをこの近さで初めて知った。赤茶色なのに怖く見えた。
「どっちにやられてる?」
震えが止まらない。
私だって別に、殴られることを許してなんかいない。怖かったよ。そりゃ、怖いに決まってるじゃないか。でもさ、いやだったんだよ。親が、悪い者になるのが。でも、でも、
「助けてあげるって言ってるんだよ。友達だから」
斜めった三日月は、怖かった。八重歯は私の私を殺そうとばかりに光ってた。
気づいたらうなづいていた私に、慶は嬉しそうに笑った。なにを、なにをするんだ
「そう。じゃあ、助けてあげる」
なんて恩着せがましい言葉だ。
気持ち悪い。彼女にはその言葉がぴったりだった。
チャイムが鳴って、意識が戻った。
「サボるかな」
普通に言うから驚いた。
「慶、サボるの?」
「別に、悪いことじゃないでしょ」
真面目だなぁ。と笑う慶。そこで気づいた、私は慶を知らない。
私は授業に出るため、遅刻届を取りに職員室に向かった。慶は部活棟のコンクリートの段差に座ってスマホをいじっていたからそこで別れた。
友人に、慶について聞いてみた。
「慶?慶は、別に普通だよ?口は悪いけど悪い人じゃないし」
普通の返しに私は、私の感覚が間違えていたのだろうか。自分の錯覚に悩んでいると、友人はなにか思い出したように言った。
「あー、でも。たまに怖いなって思うよ。内緒ね、これ。別に慶のこと嫌いじゃなんだけどさ。たまーに、すごいこと言うって言うか。なんて言うかな。いて楽しいんだけど。うーん。呑み込まれそうだなって思うんだよね」
「どゆこと?」
「なんだったか忘れたけどさ。喧嘩てほどじゃないけど。クラスの派手な子達がさ女の子ことをからかってたんだよねら、その子。わりと男好きっていうか。そういう子だからさ。わからなくもないんだけどさ。次の日、その子。慶にべったりだったんだよ。まあ、スネ夫タイプでもあるからさ、その子。私のこと邪険にしてて。すごくいやだったんだよね。そしたら、その派手な子達が私にその子の悪口言ってきて。まあ、盛り上がるよね。そしたらさ。その子。自分の悪口言われてるの知ったみたいで慶に何か言ったんだよ。悲劇のヒロインぶるのうまいからさ。悪口言われたー。みたいな。そしたら次の日。慶がさ派手な子達と仲良くなってて、その子が1人だったの。別に、派手な子達と慶は仲悪いわけじゃなかったんだけど。慶って、そんなに居場所変わるっけ?って思ったらさ。その子が私のところきてさ、怒ったんだよ」
「怒った?」
「そう。お前さえいなければ慶が私を離すことなかったのにって」
「どゆこと?」
「いや、私にもわからないんだよ。でもさ、男についてならわかるんだけど。慶って女でしょ?だから、え?って思ったんだよね」
「なるほどね」
「結局。よくわからなくてさ。怒ってるのをみて慶がこっちにきたとき、その子ひどく怯えた顔をしてて。なのに、楽しそうに慶は笑ったんだよね。そのまま、慶さ、その子にさ、ネットリしながら言ったんだよ」
まぁた、1人になりたいの?
友人が言った言葉は、なんだか体に身に覚えがあった。
「まあ、悪い子じゃないとは思うけど。たまに怖いなって思うよ」
友人は最初に言った言葉を最後にもう一度使った。
「なに、茂木。怒ってんの?」
「なんで?」
あれから数日。慶が紙パックのカフェオレを飲んでいた。小さな牛乳パック型のカフェオレは、わりと有名なやつだった。
「だって。私のこと探ってるって」
誰に聞いたんだよ。それ。そう思ったけど口に出さなかった。
「なに、なにを知りたいの?」
そう言われるとなにも言えない。
「別に」
「うそだな」
慶の嘘だなという言葉は。なにか自分を拘束するようだった。
「言えないことなの?」
ゾクゾクした。怖かった。
「い、言えるよ」
「じゃあ、なに?」
「け、慶は。慶は」
口が固まった。なにを言おうとしたのか忘れてしまった。
一瞬で忘れてしまったことに恐怖を覚えた。言わないと慶が怒る。言わないと思い出さないと言わないと思い出さないと言わないと思い出さないと
「茂木」
ハッとした。慶の手からカフェオレが消えていた。代わりに慶は私の頬を撫でていた。
「忘れたんならいいよ」
なぜか罪悪感を覚えた。
「人間だからね、あるでしょ。そんなの」
なぜか許された気がした。別に怒ってもなかった慶。怒ってないし怒らないって今なら冷静にわかるのに、あの時は一瞬でわからなかった。
「け、けい」
なに?と斜めってない綺麗な三日月を見た。
ただ、呼びたくなった。慶。五月を思い出させる名前は、冬生まれだ。草木が死んだ冬に茂る五月を連想するのはわりとおかしな話だ思う。
生まれつき、アトピーを持っていた。
瘡蓋の小島を剥がせば、ネッチョリとした膿が出てくる。水に当たると少し染みる。
アトピーっていうのは、わりと存在を忘れる。でも、必ずそこにはあって。痒くなって存在を思い出す。一生付き合っていかないといけないそれは、まるで彼女のようだと思った。
「けい?」
事が一変したのか、あるいは元々変わってもなかったのか。慶はわりと私の身近にいた。
蝉は夏より少なくなって、夜には鈴虫が鳴いていた。リーンと綺麗な音が出る夜は涼しくなってきた。アンニュイな雰囲気がある夕焼けは黄昏にもならずまぶしかった。
夕陽を背に浴びた慶は少し怖かった。
「なにそれ」
クエッションマークもつけずに言った慶の声は低く。ぞくりとした。
慶の目線を辿れば、手首につく火傷。昨日お母さんに押し付けられた火傷。
「お、お母さんに」
言わないのが怖かった。
「ふーん」
随分とつまらなそうに言った慶に私は、警戒した。
「なんでもいいけど。なんで冷やさなかったの?」
慶の質問に私は、手首を反対の手でクルクルと抑えるように回した。無意識に目を晒そうと下を向いた私は、親に怒られる子供のようだった。
「そ、それどころじゃなくて」
「いつから、受けてんの?」
「た、たぶん。中学」
「小学生は?」
「お、お父さんがいたから」
「なに、片親なの?」
「いや、離婚はしてないよ。ただ、いま別居してて」
「ふーん」
わりとどうでも良さそうに言った慶に私はなんとも言えない雰囲気に飲まれた。
「お父さんはこのこと知らないの?」
「え、いや。どうだろう」
「知らないのなら、不責任な親だな」
「そ、うだね」
「ああ、そっか。親のこと悪く言われるの、嫌いなんだっけ?」
イラッとした。でも、掛けた三日月型の口をみて私は黙ってしまった。
親のことを悪く言われるのを嫌っているのを知ってて、わざと事後確認してきたように見えた。本当は一瞬、忘れてたかもしれないが悪気もないように聞いてきて私が怒らないのを知っているかのように言ってきたことに私は、胃がぐちょぐちょになった気分だった。
「お父さんは、1人で住んでるの?それとも、愛人でもいるの?」
さらりと言う慶に私は脱力した。
「違うよ。お兄ちゃんがいる」
「なに、お兄ちゃんも知らないの?虐待のこと」
バカにしたような口調で言った慶に、今度こそ、怒りを覚えた。鼻で笑うような彼女に、一言言ってやろうと思ったがやめた。言っては行けない気がしたから。
「どーせ、知ってんだろ。されてること。家族だもんなぁ」
相変わらず楽しそうに言う慶に、私は腹からなにか熱いものが出そうになった。拳を握る。下を向いてじっと耐える。
「知ってて、別居してんのに。お前、お母さんのこと嫌えないから一緒にすんでんだろ?」
図星を突かれると人っていうのは、怒れてしまう。でも、慶はそのことを知ってるかのようにわざと言ってるように思えた。
あのネットリとした口調で、楽しそうに掛けた三日月型の笑みをしながら。
私が下を向いて黙っているのをみて、慶はため息をついた。
「あのさ」
慶がつぶやくように言った。
「私、別に可哀想な人が好きってわけじゃないから」
別にそう思ってなかったが。ギクリとした。心の奥底では思っていたのかもしれない。でも、その言葉はなんだか気味が悪かった。
「そ、そう」
「だからって、別に茂木のこと。可哀想なんて思ってないってわけじゃないから」
「へ?」
「虐待受けてるの。可哀想だと思うけど。普通に助けたいと思うけど」
慶はたまに曖昧なことを言う。
前に言っていたことと、矛盾したことを言う時もある。だから、慶は読めない。わからない。
「でもさ、なんかムカつくんだよね。茂木に傷がついてるの」
それは、虐待されてるから傷つけた親がムカつくのか。あるいは、
「それは、」
そこまで言って、やめた。なんだか、怖かったから。
慶は途中でやめた私の言葉の続きをどうでも良さそうにしていた。
「まあ、いいけどさ。ムカつくことって。よくないよね」
そう言った慶は無表情で、私は気味が悪くなった。
「なに考えてるの?」
ブレザーが登場しだした冬。慶の生まれた季節。私は、あの蝉がうるさく鳴る季節を思い出していた。
「別に。ふと、思い出して」
「痛かった?」
慶が短く言う。私は、横腹を抑えた。
「うん。痛かった。でも、今でもずっと痛い」
私は右手で傷をさすって左手で心臓を皮膚の上から握った。
「恨んでる?」
慶は意地悪だと思う。恨めないことを知っててそう言うんだから。
「恨んでるよ。でも、恨めないんだよ」
強気でそう返せば、ハッと鼻で笑って
「だろうな」
と言った。
「家族の絆。取り戻そうとしたのに、あれは良くないよな」
蝉は早く死ぬものだと思っていたが、案外長く生きるようで。九月に入り残暑が残る季節。慶が家に来るのは初めてだった。
「大丈夫?」
私は、惨めに涙をポロポロ流しながら慶にしがみついた。流しすぎて頭が酸欠になっていたのに、冷静だった脳は、もう、後戻りできないなと考えていた。
「なに、あんた」
わりと顔を焦らせた母が慶に言った。
慶は恐れることなく母を見た。抱きついた私の肩を優しくあやすように、ぽんぽんと叩いた。まるで、大丈夫だと言うように。
慶は私から少し離れた。母をみて慶はあの掛けた三日月型の笑みをした。なんだか、慶の不気味さがそのまま現れているかのようだった。
「はじめまして、お母さん」
「茂木の、友人です」
茂木って、お母さんも茂木だけどなぁ。とまた、いらないことを考える脳。
「茂木は、お母さんのこと好きなんですよ。虐待を受けても、自分が悪いと思い込んで。恨んでるはずなのに恨めない。あんた、愛されてますよ。愛されてんなら、愛さないと、報われないでしょう」
怒ったお母さんは、私にとって恐怖だった。慶は恐れない。まあ、他人だからかもしれないけど。
慶は、私の電話のあと、わりとすぐに来てくれた。本当に家が近いのかもしれない。チャイムを鳴らした時。お母さんに殴られていた私は慶だと心から喜んだ。慶だ。慶が来てくれた。もう、安心だ。慶が来てくれた。誰も出ないインターホンに慶は、勝手に(と言うか私が呼んだから勝手じゃないかもしれないが)入ってきた。お邪魔しまーす。なんて気の抜けた声を出しながら。散らかる部屋を見て慶はローファーのまま入ってきた。床に泣きながら倒れる私と、拳を握ったままの母。咥えてるタバコから灰が落ちた。
「なあ。なにがそんなにムカつくんですか。言わないとわからないでしょ。わからないから殴らんですか?」
相変わらず慶は自分のリズムだった。今人を殴った人の前で怒りもなく恐怖もなく。先生にわからないことを聞くように。
母は、わりと焦っていた。慶が母に近寄る。床に座り下から見る慶の後ろ姿は、なんともいえないオーラを纏っていた。怖かった。まるで、母を殺すかのように見えた。
「はあ?なによ、あんた。ちょっと、香苗。どいうこと。家には誰も呼ぶなって言ってたでしょう!」
叫ぶ声は私の体の自由を奪う。でも、慶は相変わらず楽しそうに笑っていた。
「お母さん、怒鳴っててもなにも生まないですよ。なにがそんなに怖いんですか?私は、あんたの暴力から友人を守るために来たんですよ」
慶が母に言う。
「うるさい!」
母は、タバコを慶に押し付けた。慶に危害を加えてしまったことにひどく後悔した。
やめて、お母さん。慶、慶、大丈夫?ごめんね、慶。私は涙をポロポロ流した。なにもいえなかった。後悔は大きかった。
慶は当てられた右のこみかみを抑えていた。かがんでいた慶はのっそりと上半身を起こした。笑っているように思えた。いや、笑っていたのかもしれない。母が怖がっていたから。
「友人にまで、暴力を振るっちゃダメだろ」
悍ましいものを見た気分になった。
「なあ、あんた。私が通報したとしてみろよ。茂木があんたのこと。一生懸命好きになろうとしてくれてるのに、そんなんじゃダメだろ」
慶はそう言うと固まってる母を背にして私の方に向かってきた。
「茂木、お父さんとお兄ちゃんに電話かけろ」
なにを言ってるのかわからなかった。
「いいから。助けてって言え。知ってんだろ。お前が虐待受けてんの。見過ごしてるのはもう、終わりだ」
その終わりだと言う言葉が、もうこの事態を。この家のバランスを壊された気がした。
お兄ちゃんに電話をかけたとき。久しぶりに聞いた声は焦っていた。
「よかったな。茂木。お前の望んでたことが叶うよ」
もうバランスが崩れたと思ったとき。肩が楽になったと同時に絶望を感じた。
望んでたこと?なにがだ。私は、わたしは、
「なんで、お父さんと別れたの?」
慶は聞かなかったことを言った。わたしは、慶を見れなかった。もう一度、なんで?ときいてきた。
「・・・別に大したことじゃないよ。ただの喧嘩別れ」
「なんで、喧嘩したの?」
膝をついて私の背中に手を優しく当てて聞く慶の胸元を見ながら話した。あのシルバーピンが光っていた。
「いつも、喧嘩ばかりしてたから。わからない」
そう言えば、慶は。なぁんだと間抜けな声を出した。
「いつも喧嘩してたのかよ」
ぞくりとした。
わからないが怖かった。冷や汗が垂れてきた。慶がバランスとともに何かをぶち壊す気がした。もうこれ以上壊さないでくれ。大切な家族だ。やめて、
「香苗!」
ハッとしたときには、部屋はもう暗くなっていて玄関から兄がはいってきていた。久しぶりに見た兄と父。兄が私に抱きついてきた。慶は無言で背中から手を引いて片膝をついたままだった。父が母に怒る。なにをしてるのだと。そう言えば母は、知ってるのに逃げたくせにと怒った。もう、やめてこれが嫌だったから助けを求めなかったのに。耳を手で塞ごうとした時。
「おいおい」
凛とした何事にも意を介さない声がした。
「こうなるのが嫌だったから、茂木が我慢してたんでしょうが。なにをしてんだよ。あんたら」
慶は相変わらず笑っていた。
「私は友人を助けにきたんだ。あんたらを喧嘩させるためにきたんじゃない」
一辺と一辺だけで成り立っていた三角形の頂点は、ヒビが入っててもう、崩れそうだった。私がそれを頑張って頑張って抑えてたのに、慶はそれを簡単に蹴飛ばしてしまった。
家族みんな慶を見ていた。
「他人だから、よくわかる。きっもち悪いな、この家は。娘1人に全部責任負わせて。きっもち悪る」
楽しそうに笑う。母と父の間に立って言う慶に父と母は呆然としていた。
母の指から落ちたまだ火がついてるタバコを拾った慶は、それを持ち上げて
「なあ、タバコの押し当てるのってどれだけ痛いか知ってるか?」
母は固まった。私は慶が先ほどのをもっとひどく返すのかと思い焦った。でも、慶はそのタバコを握りしめて潰した。
「めちゃ痛いんだよ。熱いんだよ。それを茂木は我慢してたんだよ。もういいだろ。あんだけ我慢したんだ。いま、もうあんたが離婚しようがどうでもいい。どうでもよくなったんだよ。いいだろ、もう、許してやれよ。みんな。仲良くしろよ」
家族だろ。
私が大切に大切にしてきたものを彼女は最後まで壊さなかった。いらないものだけを排除して、いるものだけを大切に渡してくれた。
「・・・もう、いいよ」
やっと普通の声が出せた。
「もういいよ。お母さん。私、ずっと怖かったんだよ。お父さんが私も連れて行こうとしたとき、お母さんが悲しそうだったから。寂しそうだったからお母さんの元にいたんだよ。お母さんが嬉しそうにしてくれたから、抱きしめてくれたから、いようと思ったんだよ。でも、怖かったんだよ。痛かったんだよ。やめて欲しかったんだよ。お母さん」
ダメだ。涙が止まらない。過呼吸が起きそうだ。
「ごめんね」
細っそりとした声がした。
「ごめんね、香苗」
お母さんは私を見ずにそう言った。
お兄ちゃんが抱きしめてくれた。慶はなんともなかったような顔をしていた。無表情で、無感情で、まるでつまらないドラマを見ているかのような。冷えた目をしていた。
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