あれからというものの、別に変わったことはなかった。
「そりゃいきなり変わるなんて、ドラマの見過ぎだろ」
慶は相変わらずだった。
でも、私は慶に感謝をしていた。均衡が壊されてもっと酷いものになったのかもしれない。でも、虐待はなくなった。ただ、お兄ちゃんとお父さんが戻ってきた。それだけだった。
でも、慶のこみかみにまだ、火傷があるように思えて罪悪感を覚えた。前髪で隠しているから見えないし、聞けなかった。
まだ蝉は鳴いてて暑さは消えなかった。
母は一体、なにに怯えるのだろうか。もともと情緒が不安定だとは思っていたが、なにも知らない。
「隠してることあるでしょ」
「ないよ」
「嘘つけ」
このやり取りは続いていた。
隠し事をするな。呪いのように思えた。でも、人は隠したくなるから、隠す。でも、結局は怒られる。
「学ばねえな。茂木ぃ」
バレてる。焦りが強くなった。
虐待はなくなったが、たまに、ごく稀にタバコを押し付けられることはある。これを虐待というのかはもう、判断できなくなった。
「なんで、隠すんだよ」
目の前に立つ慶は恐ろしい。赤茶色の目が光る。
「ご、ごめんなさい」
「おいおい。お前の母親と一緒にするなよ」
気分が悪そうに言った。心底、嫌がってるかのような声に私は、冷や汗を流した。
「ごめんなさい」
やっぱり人の怒りを抑えるには、謝るしかないんだなと改めて思った。
慶は無表情でこっちらを見て
「もういいや」
と言った。
ほっと胸を下すことなく。捨てられる恐怖を覚えた。焦って頭をあげる。慶の足から慶の顔に視線が変わった。
「ご、ごめんなさい」
「だぁかぁらぁ。親と一緒にすんなよ。気色悪い」
慶に呆れられたのが怖い。お願い、許して、なんでもするから、もう、隠し事しないから、お願い、慶、慶
「・・ンな顔でみんなよ。いじめてるみたいだろうが」
慶は眉間にしわを寄せて、嫌な顔をした。でも、さっきよりは優しかった。もういいよと許しているかのような顔だった。
ガンッ
安心した瞬間、大きな音を立てて顔の横を拳が通った。
お母さんの拳を思い出した。
「二度とされるな」
慶は全て知っている。私がまだ、タバコを押し付けられているのを。たまに手首を引っ張られるのを。髪の毛を引っ張られるのを。全て知っていたのだ。
そう言って慶は拳を引いた。壁に当てた拳は血が出てて、後悔した。
慌てて、その手の甲をハンカチで抑えた。
慶の表情は知らない。
アトピーは、忘れやすいと思うが、夏は割と存在感があったりする。
忘れた頃には最悪な結果になってて、しまったと思うことが多い。
やけに暑い夜だったことを覚えている。土曜日まで学校があるのは、だいたい高校生の補修と言う名の面倒な時間だったりする。
夏の昼間は皮膚が焼けるように暑く、夕方頃は手に土がついてるかような。幼い頃、夕暮れ時になったら帰る支度をする。あの瞬間が身体に染み付いている。
日が沈んで、夜が来たのにやけに暑く。冷たくもないぬるい風が、地上の熱を下げようと頑張っているようだった。
お父さんは仕事が休みだから家にいる。ならば、お母さんと喧嘩してるんだろうな。とのんびり思いながら暗い夜道にローファーを鳴らした。
家に着いてみると、家の電気が1つも付いていなかった。
みんな、お出かけをしているんだな。と玄関のドアに鍵を入れたらば、鍵がかかった。
閉めてしまったという、不思議な感覚に閉められた。なにか、悪い予感がすると恐る恐る入ってみる。
ただいま。と声を出せば、何も帰ってこなかった。玄関のドアを閉めてリビングの扉を開ける。夏なのに窓は開いてなかった。その代わり、クーラーがついていて。何度にしているのかはわからないが、床が冷たいのを覚えている。
そして、とてつもない匂いがした。
なにやら、叫んでいる。ドアを勢いよく開ければ
「父さん!父さん!」
とお兄ちゃんの声がする。何事かと、電気をつけようとしたとき。
「・・・帰って来たの?」
とお母さんの声がした。
やけに晴れた空をしていたから、夜の月明かりはとても美しいだろうな。とは思ったが、まさか、その綺麗な白い月明かりが、お母さんが持つ包丁に反射して感じるとは思わなかった。
倒れている、お父さん。それを支える顔が辛いそうで死にそうなお兄ちゃん。それをボウっと両手で包丁の柄を持っているお母さん。なんだ、これは。
「な、なにを、しているの?」
限りある力で押し切って言えば、お母さんは顔を歪め、泣き出し。
「ごめんね。ごめんね」
と言って、あたかも私を抱きしめるように私の横腹に包丁を刺した。
痛いのなんの。その痛さはを比喩する言葉なんてない。なぜ、こうなったのか。なぜ、こうさせられたのか。なぜ、なぜ。と頭が白くなった。
倒れて血を抑えていれば、お兄ちゃんがお母さんに体当たりして、包丁を取り合っていた。
その包丁は、お兄ちゃんの腹に深く深く刺さりお兄ちゃんは血を吐いて倒れた。そうか、この匂いは。血の匂いだったのか。とどこか冷静な脳が言った。
兄も父も倒れ安否の確かめもできない。そのとき、お母さんは、
「ごめんね、ごめんね」
とわんわん泣きながら、腹を抑えた。お母さんは自害しようとしたのだろうか。わからないが、今となっては、そういうことだろう。自分は、自分が助かるためではなく。家族を助けるために、電話をかけた。警察達が来るまで、あと何時間あるのか。わからないが、1つだけ分かるのは、わたしは、今、泣いているのだということだけだった。
私は休学した。慶はなんの連絡もよこさなかった。家族はみんなとりあえず一命をとりとめていたが、みんな傷は残った。
学校に復帰したとき。私は噂の的だった。みんなの目が怖かった。怖くて怖くて逃げ出したかった。その時。のんびりと歩く慶を見つけた。慶は私に気づくとのんびりと、久しぶりに会う友人に挨拶をするように、茂木といった。なんだか、とてもムカついた。私が大変だったのに、連絡をよこさないで、よこさなかった。慶、慶、なんで、なんで、
「おいおい、落ち着けよ」
ハッとした。私はあの何時もの場所で、慶の胸ぐらを掴んでいた。
「ご、ごめん」
手を離せば、シャツはシワを作っていた。慶は適当に直してため息をついた。
「大変だったのは知ってるよ。でもさ、必要なら連絡してくるだろうと思ったんだよ」
簡単に連絡できる状況じゃないと思ったんだよ。慶の言葉に私は、なんて酷いことをしたのだろうと思った。
「ごめん」
「いいよ」
相変わらずなんとも思ってない口調をした。
「で、これからどうすんの?」
「ひ、1人は怖い」
みんながこっちを向いて笑ってる。噂してる。バカにしてる。怖いんだよ。1人は嫌だ
「は?私がいるだろうが」
慶の言葉はどうして、こうもすんなり入ってくるんだろうか。
泣きそうになって、慶に抱きついた。慶は優しく頭を撫でてくれた。安心だ。もう、安心だから。そう自分に言い聞かせる。
慶の肩に目を押し付ける私は、慶の表情を一切見ることはなかった。
アトピーが最悪の状態になると言うのは、小島の範囲が大きくなって周りに小さい蚊に刺されたかのようなプツプツができることだ。
膝の間には、広く薄い島が伸びていてすごい後悔が押し寄せる。
そんなに悪化してしまったら、もう無視はできなくて。でも、人というのは忘れてしまうから、掻いた瞬間、思い出す。
「なぁ、茂木ぃ」
冬は乾燥してるからアトピーが一定に定まる。でも、乾燥肌のせいでアトピーができる。わりと矛盾している。
「なに?」
夏に起きたアレはもう私にとって切り離せないのと同じように、慶は私にとって離せなくなった。
「お前、今でも後悔してるだろ」
慶の言葉に私は、苦笑いした。
ふと思う時がある。慶にあの時、電話しなかったらあの均衡は三角形は崩れなかったんじゃないかと。
でも、呼んでしまったのは私だから、もう後戻りはできない。壊してしまったから。
お母さんが病院に入れられることなく。お父さんと別れることなく。お兄ちゃんとたった2人で過ごすことなく。いられたのではないだろうか。
慶は全て知っていたんだと思う。均衡を崩せばどうなるか。なにが起こるのか。わからなかったのかもしれないが、慶は全て知っているように思えた。でも、慶にしか頼まなかった。私の弱さがじんわりと滲んだ。
「なぁ。茂木ぃ」
ネットリと呼ぶその声に、私はいつまで縛られるのだろうか。
アトピーのように、忘れた頃に呼ばれるその呼び方。アトピーと一生付き合うように。私は、きっと慶に囚われるんだろうなと感じた。
横腹をさする。さする腕にはアトピーがある。タバコのヤキも、傷もなにも、消えない。
返せと、家族を返せと叫ぶにはもう、遅すぎた。
「なに?」
かけた三日月は、いつもそこにある。
気持ちの悪さを具現化したその笑みは彼女を表すにはちょうど良かった。
悪いことをしてない慶を責めることはできなかった。彼女は、私を助けてくれた。それは間違いじゃなかった。でも、間違いだった。責めることのできない彼女は、相変わらず自分のリズムで私をかき混ぜる。
「おまえ、私のこと殺したそうだな」
楽しそうにいう慶の首筋にナイフを当てたくなった。そんなことできっこないことは、お互いわかってた。
だから、慶は言う。
「なぁ。茂木ぃ」
慶は私のことを、名前で呼んだことは、一度も、ない。
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