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「…ねぇ、豪炎寺くん」

潤んだ彼女の瞳が豪炎寺を見つめる。縋るようにさえ聞こえるその声に、彼は思わず息を呑んだ。先ほどから繋がれたままの手が彼女の方から、ぎゅうと強く握り締められる。どこか乞うようにこちらを見上げて、彼女は口を開いた。

「手を、離さないで、ね」

…彼女の何もかもが震えていたことを、豪炎寺は知っている。声も、手も、今彼女を襲う恐怖によって、痛ましいほどに震えていた。…しかしそんな彼女を、自分は今から突き放さなければならない。謝罪と共にそのことを告げれば、彼女の顔が絶望の色に染まった。

「な、なんで、私、豪炎寺くんに何かした?」
「…お前は悪くない」
「なら、なんで、どうして?…ご、豪炎寺くんは優しいから、そんなことしないよね?」
「…」
「…そうだって、言ってよ」

心が痛かった。自分の方だって、叶うならこのまま手を離さないで側に居てやりたい。彼女を襲う恐怖を少しでも和らげてやりたいのは、山々だというのに。
けれど、それは彼女のためにはならないのだ。突き放すことこそが、今の彼女のためになるのなら。

「…このままじゃどうにもならないことは、お前も分かっているはずだ」
「でも」
「…本当に、悪いと思っている」
「やだ、やだよ、そんなの、やだ」

するりと手を解く。せめて突き放す代わりに自ら身を引いてみせた自分を、彼女は追いかけることも出来ないまま声無き悲鳴を上げて、決して届かない手を伸ばし続けた。…そうして、彼女は悲痛な声で叫ぶ。


「……こんなところで置き去りにされてどうしろと!!!」


…彼女は氷の上、微動だにしないまま。明るい音楽流れるスケート場のリンクのど真ん中に居た。申し訳無さそうな顔で離れていく豪炎寺はともかく、遠くの方でこちらを見て爆笑している友人らと半田は後でしばき倒すと心に決めた。絶対に決めた。





時は一時間ほど前に遡る。北海道現地民である士郎くんと鉢合わせた私たちは「とりあえずご飯食べない?」というまきやんからの言葉に、士郎くんがおすすめするカフェへと入店した。クラシックな雰囲気が素敵なそのカフェはどうやらホットサンドが有名なお店らしい。
それぞれが食べたいものを注文したところで、私はまず初対面の三人に士郎くんを紹介することにした。

「えっと、士郎くんは北海道の白恋中の生徒でね、すごいサッカープレイヤーなんだ」
「吹雪士郎だよ、よろしくね」
「うっっわ、イケメンじゃん。女子のファン多そう」

そんな的確に真実をついていかなくても良いんじゃないかね、まきやん。士郎くんはたしかにモテるけどさ。
そして何やら意気投合したらしい三人と士郎くんが連絡先を交換したのを見届けてから、私はさっそく聞くべき事情聴取を行う。

「士郎くん、学校は」
「いやぁ、たまたま学校まで続く道が雪で埋もれちゃったんだ。だから今日は公欠扱いで良いんだって先生も」

士郎くん確か必殺技で除雪可能だったのでは??明らかにこっちに来る理由付けにしてない?大丈夫?
…まぁそんな心配をしつつも、けれど士郎くんとこうしてまた再会できたことが私にはとても嬉しい。士郎くんが北海道に帰ってからまだ一ヶ月も経ってないし、何なら毎日のようにメールも電話もしているけれどやっぱり顔を合わせられた方が良いから。そう思って仕方無しに微笑んでいれば、ふと士郎くんがこの後の予定を聞いてくる。

「特には何も無いよな?」
「うん、午後からも散策しようって…」

班長副班長の半田くんとのっちが顔を見合わせてそう口にする。すると、まるでその言葉を待っていたとでも言うようにして士郎くんが食いついてきた。勢いがすごい。

「それならスケートなんてどうかな?」
「スケート…?」

おっと、私はウィンタースポーツに関してはど素人にも程がある人間。明日あるスキー体験教室でさえ心配要素満載だというのに、それよりも難易度高そうなスケートときたか。
しかし私以外のみんなはどうやらそこそこスケートの経験があるらしい。いや、どうして守まで滑れるの。

「前に北海道行ったとき吹雪に教えてもらった!」
「ずるい」

士郎くんをスカウトしに行ったときだね?とってもずるい。いや、その頃私は豪炎寺くんと沖縄に潜伏してたから仕方ないのだけれど、なんかちょっとずるい。…いや、待とう。そうだよ、豪炎寺くんだって私と沖縄に居たから…!

「…悪い、人並みにだが滑ることはできる」
「う、裏切り者…!!」

そこは沖縄組として一致団結して初心者を気取るべきでは?仲間外れみたいで遺憾の意です。
そしてそんな一人だけ初心者な私を他所に、みんなはスケートに肯定的な様子。あまり乗り気では無い私に、士郎くんが少し強請るような口調で「ダメかな?」と首を傾げる。あざとくて可愛いけどさ。

「この近くにスケートリンクがあるんだよ」
「でも…」
「えっ、近くにあるのか!?滑りたい!」
「行こうかみんな」
「はっや」

守のはしゃいだような声に思わず条件反射で了解を出してしまう。だってしょうがないじゃないか。守が行きたいと楽しそうなのだ。私の経験不足が何だと言う。気合と根性で補ってやるとも。





スケートリンクではまず最初に、士郎くんから氷の上での立ち方を教えてもらった。比較的体幹もバランス能力もある私、何とか真っ直ぐ立つことはマスターできたのだが。

「は、離さないでって、言った、よね!?」
「…悪い」

今は次のステップとして、豪炎寺くんに手を引いてもらいながらゆっくりと滑る練習。士郎くんに手を引いてもらっても良かったはずなのに、どうして豪炎寺くんなのかと言うと。

『ほら、僕もうっかり薫ちゃんの手を引いたまま猛スピードで滑っちゃうかもしれないから』
『豪炎寺くんお願いします』

そんなのそこら辺のジェットコースターより怖くないだろうか?そんな訳で身の保障を優先させた私は豪炎寺くんの手を選んだ。その矢先であの裏切りである。初心者に何という仕打ち。半泣きで助けを求めた私に慌てて近づいて戻ってきた豪炎寺くんの手をしっかりと握り直した。

「絶ッッッッッ対に離さないから」
「…あ、あぁ…」

次に離したら夕香ちゃんに「お兄ちゃんから意地悪された」って言いつけてやる。豪炎寺くんが居るから安心して滑ることができるというのに、簡単に易々と手を離されていたら心休まる気がしないじゃないか。心臓に悪いから止めてね。

「…心臓に悪いのはこっちだ」
「なんて?」
「…何でもない」

しばらくすれば、両手を掴まなくても何とか片手で滑れるようになってきた。豪炎寺くんも私の様子を見ながらスピードを上げたり下げたりと、指導の仕方がとても上手。おかげで、まだまだぎこちないけど人並みには滑れるようになった気がする。

「スケートって慣れると楽しいね」
「あぁ、なかなか筋が良いんじゃないか」

褒められてしまった。豪炎寺くんはお世辞も上手。でもそんな豪炎寺くんもエスコートの仕方まで完璧だし、とてもカッコいい。その証拠にご覧よ、周りの女の人たちみんな豪炎寺くんのこと見てるよ。大注目。

「まるで王子様だね」

揶揄い混じりにそう言ってみれば、豪炎寺くんは何やら一瞬グッと言葉に詰まり、しかし少しだけ薄らと意地悪さを滲ませた顔で微笑んで私の手を軽く引く。

「なら、お前はお姫様か?」
「…」
「…」
「…照れるなら言うのやめようよ」
「…うるさい」

びっくりした…豪炎寺くんでもそんな冗談言うんだね。顔背けてても耳まで真っ赤だよ。キャラでも無いことするから…。…でもそんな私も照れからなのか、驚きからなのか顔が真っ赤な自信があるのでお互い様だね。





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