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耐えきれず嗚咽をこぼしながら泣く私の背中を撫でながら、しののんは黙って私の独り言じみた告白を聞いていた。全てを吐き出し終えて、しばらくの間沈黙が私たちの間を支配して。
やがて、彼女は何かを確かめるようにして私に尋ねかけた。

「薫ちゃんは、円堂くんのことが好きだったんだね」
「…うん」
「そっかぁ」

…彼女にでさえも軽蔑されてしまうのだろうかと不安に思った。だって、こんなのは可笑しい。実の兄に恋慕を抱くなんてそんなこと、いくら何でも人間として歪過ぎた。だからこそ私は彼女から気持ち悪いと突き放されても、それを事実として受け止めざるを得ない。
…けれど、しののんはそんなことは言わなかった。ただ優しい声で、まるでめでたいことでも祝うような声音で「良かったね」と囁く。

「初めて好きになれた人が、素敵な人で良かったね、薫ちゃん」
「!」

思わず顔を上げた。そして同情じゃない、嘘偽りも無い心からの言葉だと分かって、また涙がこぼれた。…かけられた言葉が罵倒じゃなかった、それだけで私の中の何かが救われたような気がしたのだ。
肩を抱き寄せられて、私はしののんの肩に顔を埋めて泣く。声を押し殺して泣いた。…これが初恋でも良いのだと、誰に許されなくても私だけはその恋を誇って良いのだと言われたようにさえ思えて。

「円堂くん、良い人だもん。一番近くに居た薫ちゃんが好きになっちゃったって可笑しくないよ」

…守のことが、好きだった。幼いながらに殺すしかないと悟って諦めて、家族への愛だと思い込み続けたあの感情は、紛れも無く私にとっての初恋だった。
長い時間をかけてようやく認めることができたこの恋は、成就を望むことさえ出来ないまま、失うことを前提として生まれたものだったかもしれないけれど。それでも私にとっては、人を好きになる喜びと幸福、そして苦しみと絶望を教えてくれた大切な想いだった。

「叶わなくても、届かなくても。想うだけなら、許されると私は思うな」
「…しののん、も、そうなの…?」

その言葉を聞いて、叶わない恋をしているのだと微笑んでいたしののんを思い出す。後悔しない恋だったと、ああも真っ直ぐ言える強さを私は知らない。…叶えちゃいけない恋だったからこそ、私は手放す道を選んだのだから。

「うん、そうだよ。…だから私は今も、生きていられるから」

想うことは、自由だ。…私もそうやって誰かに認めて欲しかった。間違っていても、愚かであったとしても。私の恋の芽生えを喜んでくれる誰かの言葉を、私はきっと待っていた。そして長年越しの待ち望んだその言葉に、私はようやく救われたような気がするのだ。
…そしてそこで、ふと思う。守へのかつての想いが恋だったと自覚した今、それとよく似た想いを抱く豪炎寺くんへのこの気持ちも、果たして恋なのだろうか。

「…私は、豪炎寺くんのことが、好きなのかなぁ…」
「さぁ、それはさすがに分かんないや」

しののんはそんな弱々しい私の言葉をバッサリと切り捨てた。あまりの切れ味の良さに思わず顔を顰める。答えるのが早いんじゃないだろうか。
そんな文句を呟けば、しののんは楽しそうに笑った。

「その答えを見つけるのは、私じゃないでしょ。薫ちゃん自身が、自分で見つけなきゃ」
「…スパルタだぁ」
「ふふ、頑張れ」

頭を撫でてくれる手が心地良い。…思えば、風丸くんの他に、私をこうして助けてくれる人にはしののんも居た。甘やかすわけじゃないけれど、私の欲しい言葉ばかりをくれるわけじゃないけれど。
私を一度だって否定したりしなかった。
そんなしののんは、私にとっては一等大切で特別な友人であり、味方でもあったんだった。





…さて、そんなこんなでようやく初恋にケリをつけられたのは良かったのかもしれないが、また一つ問題が発生した。私の豪炎寺くんへの想いが恋か否か、という問題である。
限りなく状況はグレー。何せ、初恋さえ見ないフリをしていたおかげで私の恋愛経験はゼロなのだ。年頃の女の子のくせに涙が出そう。

「大丈夫?薫ちゃん」
「…スキーがこんな重装備だったことに心から感謝してる…」

割と顔周りを覆うような装備で良かった。表情が誤魔化せるから。
何せ、豪炎寺くんと顔を合わせるたび今朝から挙動不審ときた。朝食のときなんて目が合うたび箸は落としかけるし、目玉焼きには醤油をかけ過ぎた。訝しげな豪炎寺くんには、しののんからの「寝不足らしい」というフォローがあって誤魔化せたから良いものの、状況としては全然良くない。むしろピンチ。

「スキーの腕前もピンチ…!」

初心者なのが悔やまれる。やはりみんな私を除いて経験者だったらしく、唯一自信が無いとボヤいていた半田くんでさえ、蓋を開けてみればスイスイと滑っている。おのれ半田くん。
なんとか一時間ほど恐々と初心者用のコースを滑るうちに、そこそこ良い感じにはなってきたけどそれでも怖い。それに、自分のことそっちのけで教えてくれる豪炎寺くんにも申し訳無かった。

「豪炎寺くん、好きなところで滑ってきて」
「いや、だが…」
「私ばっかりに付き合わせるのも悪いし、豪炎寺くんも楽しんできてよ」

そう意見を述べた私に、豪炎寺くんは何やら不満そうな何か言いたげな様子だったけれど、有無を言わせず送り出した。あと、君の近くにいるとやはり挙動不審が治まらないので、今しばらく休憩させて欲しいのだ。そっちがむしろ本音。
渋々ながら豪炎寺くんがリフトに乗るのを遠目に眺めて息を吐いていれば、ふと遠くから名前を呼ばれるのが耳に入った。…守が、半田くんと隣合わせでリフトに乗って上から私に手を振っていたのだ。それに対して大きく振り返しながら、ぼんやりと昨夜のことを思い出す。
今朝起きて不安だったのは、守と顔を合わせたときのこと。守に対してこれまで通りに接していられるかが分からなくて、怖くて仕方なかったけれど。…私の予想を裏切って、「おはよう」の挨拶はすんなりと唇からこぼれ出た。

『おはよう薫!今日は楽しみだな!』
『…うん、そうだね。楽しみ』

ちゃんと、初恋にケリをつけられたのだと実感した。前よりも真っ直ぐに見つめられるようになった守の目は綺麗で、輝いていて。…けれどそこに、恋の痛みも高鳴りも存在しない。あるのは、私の大好きな「兄」への家族としての愛情のみだった。

「…もう少し近くに行こうかな」

守たちはちょうど豪炎寺くんとも同じくらいのタイミングで滑るようだし、せっかくなのでもう少し近づくことにした。のっちたちも「転ぶなよ!」なんて囃し立てている。
先に守と半田くんが先行して滑った。最後は危うさを見せながらもワイルドに止まってみせた守とは裏腹に、スピードもブレーキも安全運転な半田くんに、女子からの感想は「男を見せろ」という辛辣なものだった。私は別に良いと思うよ、安全運転でも。

「次の豪炎寺に期待だな」
「半田の分まで挽回してくれるっしょ」
「お前らな…」

散々な物言いの女子に顔を引きつらせた半田くんを他所に、坂の上の豪炎寺くんがこちらへひらりと手を振って滑り出す。…昨日のスケートといい、ウィンタースポーツはもともと得意なのだろう。軽やかで機敏な動きを見せながら滑り降りてくる豪炎寺くんに、みんなから歓声が上がった。
雲一つない晴天の中に光る太陽が、滑り去った反動で細かに舞う雪を照らし輝いている。その中を滑り降りてくる豪炎寺くんが口元を僅かに楽しげに緩ませているのを見て、何故か一瞬心を奪われた。…ふと、そこで目さえ合ったような気さえして、ドキリと心臓が跳ねる。

「…きれい」

本当に、綺麗だ。男の子にこんな感想なんて可笑しいのかもしれないけれど、今見た豪炎寺くんの姿はまるで雪の中で舞っているように見えてしまった。もっと見ていたいとさえ思う。
…しかしそこで「すげーっ!」という守の驚嘆の声に、ぼんやりとしていた意識が戻る。…心臓が苦しい。いつのまにか顔が赤くなっていたのが、自分でも分かった。内心そんな自分の感情の急激な変化に戸惑ったまま、みんなが豪炎寺くんの元へ滑っていくのを見て私も慌てて追いかける。…慌てていたのが、いけなかったのだろう。動揺していたのも相まって、私は一歩踏み出した瞬間に雪で滑って無様にも転げた。

「薫!?」
「すごい綺麗に転んでんじゃんね!?」

…は、恥ずかしい…!こんな無様な姿を晒すとは、恥ずかしすぎて顔が上げられない。運良く受け身を上手く取れたらしく、転んだのが雪の上であったこともあって怪我は無さそうだったけれど、気持ちとしてはいっそこのまま雪の中に埋れてしまいたい気分だった。
そして、それがある意味誤解を生んだのだろう。なかなか起き上がらない私に痺れを切らしたような手が、私の肩を揺さぶって焦り気味に声をかけた。


「____大丈夫か!?」


思わず顔を上げたすぐ先に見えた、心配するような、焦燥に満ちたような瞳に心がぎゅうと甘く締め上げられる。…あぁ、そうだ。こんなとき、いつだって真っ直ぐに私の元へ駆け寄ってくれるのが、君だった。
エイリア学園では降り注ぐ瓦礫の中を、自分の危険さえ顧みずに走って救い上げてくれた。静かに絶望して諦めかけていた私の心を、誰よりも君だけが諦めてたまるものかと手を伸ばして引き上げてくれた。…もう、答えなんてとっくに出ていたじゃないか。

「…なんだ」

私は、豪炎寺くんのことが好きなんじゃないか。
誰よりも優しくて、少しだけ言葉足らずの不器用な男の子。家族思いで、仲間思いで、サッカーが大好きな私のヒーロー。
救い上げてくれたものの数を数えてみた。手を伸ばしてくれた回数に想いを馳せた。どの記憶にいる君も、いつだって優しくてカッコ良くて。…思えば随分と昔から、私の中ではきっと特別な存在だったに違いない。

「…おい、本当に大丈夫か…?」
「…ふふ、ふふふふふ」
「頭打ってんじゃないかコイツ」

呆れたような顔の半田くんは後で叩くとして、今はただどうしても可笑しくてたまらない。認めたくないと目を背け続けていた想いは、気がつけばこんなにも分かりやすく私の心で息づいていたのだから。

「ありがとう、豪炎寺くん」
「…?あぁ、無事なら良いが…」

君が好きだよ、豪炎寺くん。二度目の恋が、君で良かったと心から思う。
誰よりも優しくて、誰よりも愛おしい。そんな君への想いに気づくことができたことも、きっと私にとっては幸福そのものだった。君はまだ、そんな私の拙い恋心なんて知らないのだろうけれど、それでもいつか伝えられたら良いなって思うよ。
そしてそのときはどうか、どんな結果だって良い。ただ真っ直ぐ君に、私の抱える想いを伝えさせてね。





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