117



豪炎寺くんのことが好きだと気がついた。
私自身が、自分で自覚して納得する形で知った、二度目の恋だった。あの後は、何故だか終始ふわふわしていて、スキーでも何度も転げてしまった。そんな豪炎寺くんには、調子が悪いんじゃないかなんて随分心配をかけてしまったみたいだけど、不謹慎なことにそんな心配さえ今の私には嬉しくてたまらない。単純だろうか。

「…あ、あった」

そしてその体たらくのせいかホテルに帰ってからも何処か行動が隙だらけなおかげで、今も大浴場にブラシを置き忘れてしまったことを思い出して取りに行っていた途中だ。今日は昨日までとは違うホテルでしののんと二人部屋なのだが、しっかり呆れるような顔をさせてしまった。面目ない。
あぁ、駄目だ気を引き締めなきゃ、こんなんじゃ周りにはすぐ筒抜けになってしまう。今はまだ今日のスキーで疲れているのだろうと、むしろ心配さえさせてしまっているが明日からはそういう訳にはいかない。
頑張ろうと頬を叩きつつ、部屋に戻るべく静かな廊下を歩く。そして、次の角を曲がればエレベーターがあるというところに差し掛かり角を曲がろうとして、その直前に聞こえた言葉に慌てて身を翻した。

「豪炎寺くんが、好きです」

…豪炎寺くんへの、告白現場に遭遇してしまった。思わず物陰に隠れたけれど、先ほどから心臓が嫌な音を立ててとてもうるさい。さっきチラリと覗いたときに見えた声の主の女の子は、たしか隣のクラスの可愛い子だ。テニス部に入っている子で、話したことはないけれど結構モテていたはず。それを見て、まるで他人事のようにぼんやりと思う。

(…美男美女で、お似合いだ)

先ほどまでの浮かれ気味な調子は途端に沈んで、自嘲気味な笑みがこぼれそうになった。豪炎寺くんはカッコいいし、そもそもあんな可愛い子に告白されて嬉しくないわけがない。モヤモヤとした黒い感情が胸の内で渦巻くのを感じながら、私は唇を噛み締める。…嫌だ、たとえお似合いでも、豪炎寺くんが別の女の子の隣に立っているのは、嫌だ。
そんなあちら側の当人たちは私の存在に気づかないまま、女の子が豪炎寺くんへの思いを語っている。

「ま、前に、プリント落としたときに、拾ってくれて、それで優しいなって、思って」

それを聞いて、たしかに、と納得した。豪炎寺くんは優しい。もともとの人柄なのだろうけど、困っている人に対して自分の手を差し伸べてくれるような優しさを、彼は持っている。…だから、あの子が豪炎寺くんのことを好きになったのも可笑しいとは思わない。
私だってその優しさに救われて、惹かれた。彼女と同じ、豪炎寺くんを好きな女の子のうちの一人なのだから。

「…悪い。気持ちは嬉しいが、付き合えない」

…私は、酷い人間だろうか。たった今、目の前で一つの恋が散った瞬間を目撃してしまったというのに、私の心はどうしようもなく緩やかな安堵で満ちている。豪炎寺くんが、誰のものにもならなかったというだけでこんなにも嬉しい。

「そ、そっか…。うん、何となく、返事は分かってたから。…理由だけ、聞いても良いかな」

…これ以上は、聞かない方が良いだろう。人の告白シーンなんて本当は見るべきじゃない。そしてそれが、私の好きな人に対するものであるならなおさら。そう思って、踵を返した。話なら、今からしののんたちに聞いてもらおう。私が豪炎寺くんのことを好きだと気づいたことも、きっとみんななら真剣に聞いてくれる。

「…あぁ」

…だから、それを耳にしてしまった時、私は呼吸が止まるかと思った。いや、実際にきっと呼吸は止まっていたし、足は踏み出し方すら忘れたようにしてその場に立ち竦む。
豪炎寺くんの声は穏やかだった。
豪炎寺くんの声は優しかった。
豪炎寺くんの声は柔らかかった。
私は、その声に込められた想いの色を知っている。…理解できるように、なってしまっていた。
それが他でもない彼自身のおかげだというのは、私にとって皮肉でしか無いのだけれど。


「…好きな奴がいるんだ」


その言葉の意味を頭で理解できてしまった瞬間、私は逃げ出すように音も無くその場から駆け出した。





部屋に駆け込むようにしてすぐ、私の帰りを待っていたらしいしののんに訝しげな顔で見られた。きっと今の私の顔は真っ青で、酷いことになっていたと思う。体調が悪いの?と気遣ってくれたしののんには曖昧に笑っておいて、私はやけに重い身体を引きずりベッドの中に潜り込んだ。

「…薫ちゃん?」
「…ごめん、今日、ちょっと疲れちゃったみたいだから、先に寝るね」
「…分かった、鹿乃ちゃんたちにはそう言っておくね。ゆっくり休んで」

訝しげでありながら気遣わしげな様子でもあるしののんは、そう言って部屋を出た。…この後は、のっちたちの部屋に行ってまた恋バナをする予定だった。私の話だって、そこで今日こそは聞いてもらおうと思っていて。
…豪炎寺くんの話を、相談を、したかったのに。

『好きな奴がいるんだ』

さっきの豪炎寺くんの声を思い出して、思わず嗚咽が溢れた。ずっとずっと我慢していた涙が止めどなくあふれてきて、枕をしとどに濡らす。…心臓が痛い。尖り切った爪で酷くゆっくりと裂かれたかのように、心が痛くてたまらない。好きなことに気がついたことに浮かれて、当たり前の可能性を考えもしなかった自分に対して思わず嗤ってしまった。

「…そうだよね」

豪炎寺くんに好きな人が居ないだなんて、どうしてそんなおめでたいことを呑気に考えられたのだろう。私にだって好きな人ができた。豪炎寺くんという、私には勿体ないくらい素敵な男の子を好きになれた。…それならきっと、豪炎寺くんが好きになる女の子は私なんかよりもずっと素敵な子だ。あれが全部、嘘だったら良かったのに。告白を断るための出任せの嘘だったなら、私だってきっと胸を撫で下ろして喜べた。…でも、あの豪炎寺くんの「好きな子」発言はきっと、嘘なんかじゃない。
それならあんな風に、何処にもいないはずの好きな子なんかのことを、優しく柔らかな声でなんて語らない。
きっと、あの時見えなかった豪炎寺くんの表情は優しかったはずだ。今までに見たこともないくらい、ただその子のことを思って浮かんだ表情だったはずだ。…そしてそれはきっと、少なくとも私のことじゃない。

『友達なんだろ、俺たちは』

「ともだち、だから」

…私たちは、所詮何処まで行っても友達止まりだ。豪炎寺くんだって前にそう言った。私だってつい最近までそう思っていた。…だからきっと、豪炎寺くんは私にだって優しかった。
そしてだからこそ、こんな想いは隠さなきゃ。
豪炎寺くんは優しいから、きっと私の想いに気がつけば困らせてしまう。友達でしか無い私のことなんかで悩ませて、豪炎寺くんの恋の妨げになりたく無い。
だって、いっぱい助けてもらった。
辛い時、悲しい時は側で支えてくれた。
…それなら今度はきっと、私が豪炎寺くんの助けになるべきだ。たとえそれが、自覚したばかりの恋心を、ズタズタに引き裂くようなことになったとしても。

「…すきだよ、豪炎寺くん」

…今だけはどうか、泣くことを許して欲しい。遅すぎた恋に終止符を打つための覚悟を、私に持たせて。言いたかった想いも、言葉もちゃんとしまい込むから。
明日になればきっと笑ってみせる。いつも通りな豪炎寺くんの友達である「円堂薫」を、君の前では完璧に演じ切ってみせるから。だから。

「…すきなのに、なぁ」

ありがとう、豪炎寺くん。
優しくしてくれて、いっぱいありがとう。
もう良いよ。私は君に、返しきれないほどたくさんのものをもらったから。…だから今度は、私に返させて。
想うだけなら、許されるんだよね。言えなくても、叶わなくても、豪炎寺くんを好きだっていう気持ちだけは持ち続けても良いんだよね。
どうか、それだけは許して欲しい。私の恋が死んだとしても、君の幸せだけは叶うように精一杯の笑顔で背中を押してみせるから。
豪炎寺くんが、私じゃない他の好きな女の子と幸せになれる未来を手に入れられること。
それだけを願えるような素敵な人間に、私はなりたかった。





次の日、修学旅行の最終日。北海道でも有名な展望台を訪れ、最後にクラス写真を撮る中、私は豪炎寺くんの隣に並び立つ。班ごとに固まっているグループが多かったから、私がここに立っていたって何もおかしなことは無い。…友達として、ここに立つことだって。

「豪炎寺くん」
「…?どうかしたか」

…昨夜はあのまま眠るわけにもいかなくて、しののんが部屋に居ないのを見計らって目を冷やしながら眠りについた。おかげさまでか目に腫れも見られないまま、皮肉にもいつも通りの私の姿で私はここに立っている。

「楽しかったね、修学旅行」
「…あぁ、そうだな」

とても、楽しかったよ。見たことのない世界を新しく見て知って。気づけなかった初恋の終わりも、芽生えていた恋の自覚だってこの旅があったからこそきっと出来た。…それが全て幸せなことばかりじゃなくて、悲しいけど私の早すぎる恋の終わりまで連れてきてしまったことだけは、不幸だとしか言いようがないけれど。

「豪炎寺くん」

それでも、君を好きになれて良かったって。
それだけは後悔しないって、心から言えるから。

「友達になってくれて、ありがとう」

困っている時、助けてくれてありがとう。
辛い時、側に居てくれてありがとう。
躊躇っている私の背中を押してくれてありがとう。
そして、私に恋を教えてくれてありがとう。
私は君の特別になれないことはとても悲しいけれど、悔しいけれど。だけどたくさんの贈り物をくれた君のために、私は出来ることならなんだってしたい。…そして、それはきっと。

「ずっと仲の良い友達でいようね」

豪炎寺くんにとって、ただの友達であることこそが何よりも君のためになると思うから。
精一杯の笑顔でそう告げた私の言葉に豪炎寺くんは僅かに目を見開いて、やがて仕方無さそうな顔で微笑みながら目蓋を伏せて微かに頷いた。

「あぁ、そうだな」

…その顔が少しだけ寂しそうな、どこか泣きそうに歪んで見えたなんてそんな都合の良いこと。
きっと、私の願った幻に違いないのだけれど。





TOP