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『あの…?』
『好きだ』
『は?』

綱海条介にとってこの恋は、実に何とも衝動的で無謀な、それでも彼なりに全身全霊の想いだった。
出会いはとんでもなく、サーフィンのせいでかけてしまった水飛沫でしとどに濡れた前髪を払って、何でもないように笑ったあの笑顔の無垢さに心惹かれたまま、愛の告白をしてみせるという不審ぶり。

『な、なんで』
『いや、俺もよく分かんねぇけど…なんかアンタ見てるとグワッ!ってきてよ…』
『ぐわっと』

好きだと臆することなく本能のままに言い切った自分に見せた、狼狽えたような赤い顔を純粋に可愛いと思った。この一目惚れに近い恋が叶うだとかそんな都合の良い展開も願いも無かったけれど、もしも一つだけ彼が望んだとするならば、それはいつだって彼女が心から無邪気に笑ってくれることだった。
そしてそれは自分も雷門イレブンの一員としてキャラバンに乗り込み、彼女とも仲間として関わるようになるうちに何度も見ることができた。

マネージャーたちと楽しそうに話す姿も。
キャプテンである円堂の世話を焼いていた嬉しそうな顔も。
もちろん、自分に向けて見せてくれる楽しげな表情だって。

そのどれもが幸せそうで、楽しそうで、嬉しそうで。だからそれだけで、綱海にとっては十分に満足だった。シンプルに、彼女が幸せになってくれれば自分の恋の結末など些細なことでしかなかったから。
綱海は多くを望まない。
ただ、自分が好きだと思った彼女が笑ってくれるならそれで良い。そんな単純明快な、それでいて優しく傲慢な想いが綱海の恋そのものだった。

[…もしもし、綱海くん?]

だから、はじめは何事かと思ったのだ。久々にかけてきた電話の先の彼女の声は、明るさを装っていても何かしらの悩みや葛藤を抱えていることはその不自然さから丸分かりで、綱海は思わず動揺で携帯を海に落としかけながらも慌てて「どうした?」と尋ねる。修学旅行で北海道に行くのだ、と楽しげに報告してくれた先週の彼女の無邪気さは、すっかりなりを潜めてしまっていた。

[…前に綱海くんが、告白してくれたでしょ?…その返事を、しなきゃと思って]

たしかに自分は前に一度、初対面で彼女に告白している。しどろもどろになりながらもそれを断ろうとした彼女に、「自分が勝手に好きなだけだから気にするな」とも声をかけた。心を寄せるような人間が居ないのなら自分にもチャンスがあるだろう、と戯けて。…けれど今回、こうして電話をしてきたということは、つまり。

[好きな人がね、できたの]

…律儀な人間だと思う。そんなあやふやな告白なんて、一時の気の迷いだろうと放り捨てたって構わないのに、自分の差し出した言葉をちゃんと受け取って返そうとしてくれるその真っ直ぐさ。
自分はきっと、そんな彼女の中身にさえ惹かれてしまっていた。
そしてそんな訳で、何とも残念なことに自分の恋は叶わないまま終わる結果となってしまったのだけれど、綱海にはどうしてもそれよりも気になることがある。

「なんでそんなに暗いんだよ、薫」
[…]

綱海に対して申し訳ないと感じているのならば、話は分かる。心根の優しい彼女のことだ。自分のことを好きになってくれたというのに、その想いに応えられず無碍にしてしまうことに罪悪感を感じてしまうのだろう。そうならば、自分は気にするなと笑って窘めてやった。…けれど、さっきの声音はそうじゃなかった。
彼女の声は罪悪感というには、あまりにも暗く絶望に満ちていたのだから。

「何か嫌なことでもあったのか?その好きな奴のことか?」
[…]
「…なぁ、薫」
[大丈夫、だよ]

無理やり明るくしたような声が耳朶を打つ。そんな言葉、いくら人よりも楽観的な自分だって信じられるはずが無かった。明らかに大丈夫な訳がない。無理をしているのは表情が分からなくても明らかに目に見えていた。
だって、本当に大丈夫な人間は、声を震わして「大丈夫」なんてそんな強がりだと分かるようなことを言わない。

[私は大丈夫だから。…心配してくれてありがとう、綱海くん]

違う、そんなお礼が欲しい訳じゃなかった。そんな風に強がって欲しかった訳じゃない。…けれど、今は憎らしいほどに距離が離れてしまっている自分には、彼女にかけてやる言葉を持ち合わせてはいなかった。
一瞬だけ、彼女と自分を隔ててしまう海に苛立ちを覚える。そんなものに腹を立てたって意味が無いことは分かっているが、それなら自分は何にこの気持ちをぶつけてしまえば良かった。

「…くそッ!」

「じゃあ、またね」という陳腐な会話の終わりを告げた彼女から電話が切られた瞬間、綱海は携帯を砂浜に放り投げ猛然と海に突っ込んでいく。
深く、深く奥底まで潜り込んで、ゴーグル越しに仰いだ水面は日の光で煌めいて美しかった。…この眺めを見たら、彼女の悩みも苦しみも、吹き飛ばすことができるのだろうか。
分からない。けれどしかし、それでも分かってしまったことがある。…悔しいけれど、自分は。

(笑わせてやれねぇ)

彼女を絶望から救ってくれる王子様は自分じゃ無い。先ほど実感したばかりの何とも残酷でシンプルな答えを綱海は、水の中で泡に溶かすようにして音の無い咆哮の声を上げた。







「…大丈夫なんだよ、綱海くん」

ぽとり、ぽとりと滴を溢して、彼女は引きつった笑みを無理やり浮かべて笑ってみせる。手には、ピンクの石が嵌め込まれたイルカのキーホルダーが宙にゆらりと揺れていた。
手のひらで包み込むように握り締めたそれを、彼女は額に押し当てて、静かに嗚咽をこぼす。

「わたしは、へいきだから」

叶わぬ恋を心で嘆いて顔で笑む。そんな歪な在り方を選んで。
明日も少女は、ただ一人の彼の人を想って泣くのだろうか。





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