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次の日も相変わらずスパルタながら、選手との距離を縮めようとしない久遠監督。不動くんの独りよがりなプレーも目立っていて、雰囲気は昨日よりもかなり悪い。昨日のトマト二倍作戦は上手くいかなかったのだろうか。瞬時に私の仕業だと悟ったのか親の仇のような目で私を睨んでいたし、さすがにあの量を残すと自分の弱みが周囲にバレてしまうのを恐れてか全部食べていた。なので何かしらやらかせばまたトマトが倍になることは頭に入っているはずなのだけれど。上手くいかないものだね。

「あれ、春奈ちゃんと目金くん。どこ行くの?買い出し?」
「えっ、えぇ、はい!ちょっとテーピングの追加を…!」
「…テーピングってこの前買い足したばかりだったような…?」
「備あれば憂無しと言いますから!!!」

ふと、午前練を終えた休憩時間になぜか制服に着替えた二人がどこかへ行こうとしているのが見えて呼び止める。テーピングなんかは不備が無いように手配しておいたはずなんだけど、もうそんなに無いのかな。後で在庫を見とかなきゃ。
ついでに二人には消耗の激しい消毒液を買ってくるように追加で頼んでおく。ちょうど良かった。昨日から割と擦り傷を負う人が多いから無くなるのが早かったんだ。

「足が止まってるぞ壁山!」

…それにしても、そろそろ壁山くんの体力がもたないな。前々から体力の無いところは問題点としてどうにかしようとしていたのだけれど、それでもなかなか体力はつかなかった。そこはもう本人の努力次第だったし、壁山くんは元から狭い範囲でのディフェンス能力の高い選手だ。そのおかげで雷門中ではゴール前を守るだけで良かったかもしれないけれど、これから世界を見据えていく以上はそれも許されなくなる。

「薫ちゃん…そろそろ壁山くんも限界なんじゃ…」
「…ううん、まだ行ける。それに、ここで止めるわけにはいかないから」
「薫ちゃん…?」

前までは選手の持つ能力の範囲内で作戦を考えれば良かったかもしれないけれど、今はそうもいかない。弱点なんて露出した時点で敗北が確定してしまう。壁山くんの持久力、不動くんたちのいざこざ。どれも日本の弱点になり得るものばかりだ。それを一つでも減らして、世界に進むための足がかりに変える。…だからこそ、私は後輩相手でも甘やかさない。

「壁山くん、がむしゃらに走らないでボールを見ながら走る!持久走じゃないんだよ!」
「は、はいっス…!」

大丈夫、壁山くんはやれば出来る選手だ。野生中のときだって、苦手だった高所を乗り越えてイナズマ落としを成功させて見せた。ここで彼を侮ってしまうことこそ、壁山くんへの無礼だから。
みんな驚いたような顔をしているけれど、今まで通りのままじゃ世界になんて通用しないことを私はとっくに理解している。理解したからこそ、強くなって欲しい。
日本は強いんだって。世界の頂点にだって立てるのだということを、みんなのサッカーで証明して欲しいから。

「監督、そろそろ…」
「あぁ、時間か」

そしてその日は、三時前になる頃を見計らって私は練習を抜けることになっていた。秋ちゃんたちや他のみんなが不思議そうな顔で私を見ているけれど、今日は虎丸くんの家の食堂を手伝う日だ。虎丸くんはそれが分かっているのか、私に向かって軽く頭を下げていた。手早く着替えて、私は目的地である虎の屋さんに向かう。

「すみません、今日から手伝いで来ました。イナズマジャパンの者です」
「まぁ、貴女が…ごめんなさいね、手伝いなんてさせてしまって…」

店の奥から顔を出したのは、この店の店長さんである虎丸くんのお母さん。体調が悪いのだろう。店の奥の部屋には布団が敷いてあるのがチラリと見えた。虎丸くんが心配になるはずだ。
今日は金曜日なのでとてつもなく忙しくなりそうだ、という申し訳なさそうな虎丸くんのお母さんに笑って首を横に振る。忙しいのはマネージャー業で慣れている。接客も私の苦手分野では無い。

「こっちが厨房です。レシピはまとめたノートがあるので…」
「分かりました。何か分からないことがあればまた伺います。お母様はお休みになってください」

一通り接客なんかの説明を受けて、まだ申し訳なさそうな虎丸くんのお母さんを奥の部屋に押し込む。虎丸くんが安心して練習するためにも、早くお店のことに慣れなくちゃ。

「いらっしゃいませ!」
「あれ、君見ない顔だね。新しい従業員さん?」
「いえ、しばらくの間こちらで手伝いをすることになりました」
「そうか…頑張って」
「はい!」

常連さんらしき人たちは新顔の私に不思議そうな顔をしていたけれど、どの人たちも優しく励ましてくれた。料理も大概は下ごしらえが済んでいるものばかりだったので、私はそれを調理して仕上げて出すだけ。金曜日の夕方だからか、人は決して少なく無かったけれど何とかお客さんを捌くことができた。

「すみません!遅くなりました!!」
「あっ、お帰りなさい虎丸くん。とりあえずお風呂入ってきなよ」
「ありがとうございます!」

六時前になれば急いで帰ってきた虎丸くんも加わったことで仕事もずいぶん楽になる。虎丸くんが調理を行い、私が接客と食器洗い。自分で言うのも何だが、結構虎丸くんと息が合っているのではなかろうか。
閉店は少し早めの九時で、最後のお客さんが店を出てから私は思わず机に突っ伏した。すっごく疲れる…。こんな日々を虎丸くんは練習と両立させながら頑張っているのか…!

「お疲れ様です薫さん!」
「お疲れ様…虎丸くんすごいね。全然疲れた様子じゃない…」
「慣れですよ。薫さんは今日が初めてじゃないですか!あれだけ出来たら十分すごいですよ!」

そう言われるとありがたいね。虎丸くんと一緒に机の片付けや掃除をしながら、他愛無い話をする。九時半前にはここを出ないと、暗い道は危なくなってしまうからやや急ぎ目にしなきゃ。





「…本当に、久遠監督は呪われてるのかな…」
「でも、問題を起こした監督だろ?それはな…」

合宿所に帰り着き、食堂に差し掛かる直前でそんな会話が私の足を止めた。思わず息を飲み会話を聞いていると、どうやら何故か久遠監督が前に中学校のサッカー部監督を辞めたことを知られてしまっているらしい。だが肝心の辞めた理由に関してはまだ表面上のことしか知らないらしく、安堵に胸を撫で下ろした。そしてそのまま、まるでたった今帰ってきたかのような素振りで室内に入る。

「あれ、みんな集まってどうしたの?」
「薫…」

全員がいるわけではないらしく、居たのはあくまで三、四人。雑談の延長といったところらしいが、あまり大きな声では言えない話だとは分かっているのかみんな何処か気まずそうに顔を逸らしていた。

「今の話、聞こえてたかな」
「話?」
「…いや、聞こえてないなら良いんだ」

基山くんが静かに安心したような息を吐くのを見ながら首を傾げて、何も分からないフリをしていれば後ろから怒りに満ちた低い声が私の名前を呼んだ。思わず肩が跳ねる。振り向けばそこには明らかに怒っている様子の風丸くん。

「薫…どこに行っていたんだ、こんな遅くまで…?」
「ちょ、ちょっと仕事だから気にしないで…」
「気にしないでって、お前な…」

虎丸くんには、チームに心配や迷惑をかけるわけにはいかないからと詳しい訳は話さないようにお願いされている。私もわざわざ話すようなことじゃないと判断したことでそれを了承した。
私の曖昧な答えに不満そうな風丸くんを笑って誤魔化せば、ご飯は?と秋ちゃんに聞かれたものの賄いを虎丸くんと食べたのでお腹は空いていない。食べたから大丈夫、とだけ返して私は踵を返した。今から備品の確認をしなくちゃいけない。…しかしそこで、どこかもどかしげな春奈ちゃんに呼び止められた。その口から放たれた言葉に、漏れ出そうになった動揺をギリギリで飲み込む。

「薫さんは、久遠監督のことで何か知らないんですか?」

…もちろん、知っているに決まっている。けれどそれは、知ったってどうにもならない、鬼道くんの傷を抉るだけの真実でしかない。それなら私はその真実を飲み込んで誰にも明かさず蓋をする。たとえそれが、私のわがままでしか無くても。

「…ごめんね、私も詳しいことはよく分からないんだ」

だから困ったような顔を装って笑った。何でもないような口ぶりで嘘を吐いた。そしてその代わりに一つ、償いだとでも言うように私はたった一つ分かりきっている事実だけを差し出す。

「…でも、良い監督だよ。チームのために力を尽くしてくれる。信頼できる人だよ、あの人は」

それだけを告げて、私は食堂を出た。みんなはまだ何か言いたげだったけれど、今の私に言えることはこれだけ。
みんなよりも早く、長く久遠監督という人と向き合ってきた。不器用で、言葉足らずな人だから誤解を招くだけ。あの人の本質は何よりも、選手の実力と潜在能力を見抜けるずば抜けた指導力だ。
今はまだ分からないかもしれない。猜疑心や反感ばかりを抱いてしまうかもしれない。
それでもいつか選手のみんなが監督を信頼して、監督がその信頼に応えて采配を振るえるようになれば。

(イナズマジャパンは、世界にだって羽ばたける)

…だからどうか早く、まだバラバラなこのチームが一丸となれる日が、訪れるように。





ふと、誰かに頭を撫でられたような気がして目を覚ました。我に返って顔を上げれば、そこは食堂の机の前。どうやら備品の確認中に寝落ちしてしまったらしく、書類に汚れやシワがないかを慌てて確認した。…無かった…。

「…予想以上に疲れてるのかな…」

何せ、今日は多忙だった。とりあえず伸ばしてみた体からはバキバキと嫌な音がするし、今日のところはここで切り上げて寝るべきかもしれない。そう思いつつ立ち上がろうとすれば、ふと肩に何かが掛かっていることに気がついた。触れてみればそれは誰かのジャージ。ふわりと香った柔軟剤のこの匂いを、私は知っている。

「起きたのか」
「…豪炎寺くん…?」

入り口から顔を覗かせたのは豪炎寺くんだった。その両手に握られた二つのマグカップからは湯気が立っていて、豪炎寺くんはその片方を私に向けて差し出した。思わず反射で受け取るとその中身はどうやらホットココアらしく、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

「少し休んだらどうだ」
「…ん、ありがとう。そうしようかな」

わざわざ淹れてきてくれたらしい。冷ましながら傾ければ、温かな甘さが喉を通って優しく心を満たす。隣をチラリと見れば、豪炎寺くんもココアを傾けながらこちらをジッと見ていた。驚いて目を逸らしてしまう。…だってまさか目が合うだなんて思わないじゃないか。

「ど、うしたの?」
「…何かあったのか」
「え」
「今日はお前の様子がいつもと違うように見えたからな」

ぎくりとした。思い当たる節は、今日の壁山くんを始めとした他のみんなにも対する少々厳し目な態度。今までの私ならむしろ久遠監督を宥めて励ましたり慰めたりしていたはずだから、今日の私は随分と異質に映っていたに違いない。豪炎寺くんが声をかけてくれるほどだ。それは相当だったのだろう。
けれど私にだって、胸に誓った目標や夢がある。そしてそれは、みんなの為にやらなきゃいけないことだと他でも無い自分が決めたのだ。

「…私も変わらなきゃって、思ったの」
「…変わる」
「うん、このままじゃ久遠監督の言う通り、世界になんてとてもじゃないけど勝ち目なんて無い」

みんなの実力を疑っている訳じゃない。みんなは誰も彼もがすごい選手で、その力を認められて集められたこの国の代表だ。…そしてだからこそ、私は久遠監督の言い放つ厳しさを糧にして戦いを勝ち抜いて欲しい。

「信じてるの。みんなそれぞれに良いところがあって、足りないものがある。…そんな色んなことも、君たちなら乗り越えられると思ったから」

守がキャプテンで、豪炎寺くんがエースストライカーで、鬼道くんが司令塔で。そんな三人を中心としたイナズマジャパンが弱いわけが無い。…それを私は証明してみせたいのだ。
そう呟いて再びココアに口を付ければ、豪炎寺くんは「そうか」と短く呟いて同じくマグカップを傾ける。沈黙が私たちの間を漂い始めたけれど、私はそれを気まずいとは思わなかった。…それに私は単純に嬉しかった。
豪炎寺くんとこうして二人で話すのは久しぶりだったし、恩を仇で返すようになってしまうが、心配してもらえたことがすごく幸せで。

「ココアとジャージ、ありがとう豪炎寺くん」
「…ああ」

…これが独り善がりの、私だけが享受出来るささいな幸福だということも理解している。本当にこの優しさを与えられるべき人が私でないことも。
でも、少しだけ。少しだけ狡い人間になっても良いだろうか。豪炎寺くんが本当に好きな人にだけいつか、目一杯の優しさを注ぐ日が来てしまうそのときまで。
君のトクベツのフリをして、偽物の幸せを独り占めすることを、どうか許して。





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