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「そういえば綱海、お前に聞きたいことがあるんだが」
「お、何だ?」
クールダウン中、ふと今その時思い出したかのような口振りで鬼道が綱海を見て口を開く。のんびりと背を反らしていた綱海は、その問いかけに対して体を元に戻しつつも疑問の形で答えた。鬼道が問いかける。
「俺たちが最初に選手候補として呼ばれた日、お前はたしか薫に『あの時から様子が変だ』と言っていたが…何かあったのか?」
「!」
今ここには居ない少女の名前が聞こえたからか、少し離れた場所にいた豪炎寺も思わず目を見開く。思い返せばたしかに、あの招集の日まで彼女は何か様子が変だった。それは自分だけが感じていた違和感。鬼道たちにも尋ねたが特に変わりは無いと言われてしまい、自分も戸惑うばかりだったのだが。
「あー…それがさ、あん時の一ヶ月前くらいに?俺薫に『好きな人が出来たんだ』ってフられちまってよー」
「好きな男!?」
鬼道の素っ頓狂な声を聞きながら、スウと背筋が冷えていくような感覚に陥り思わず目眩がして、足元が覚束なくなるような錯覚を覚えた。たった今、綱海が言い放った事実がまるで自分の頭を殴りつけたかのような衝撃をもたらす。
…何を自分は、ショックを受けている?たとえこの想いが叶わなくても彼女が幸せなら良いと、心に決めたのは他でも無い自分自身だ。彼女の想い人が誰であれ自分はこの友人の立場で、最後まで友人面して彼女の行く末を思う。それで満足だと微笑んだんじゃないか。
「けどよ、アイツその時すっげー声が暗かったんだよな」
「…お前をフッたからじゃないのか」
「そうかぁ?なんかよ、もっと何つーか…こう…」
しかしなるほど、彼女の様子が可笑しかったのにもこれで納得がいった。完全な終止符の打たれた自分の恋の哀れさに、思わずほろ苦い笑みが溢れそうになるのを奥歯で噛み締める。苦しみばかりに苛まれる胸の痛みを誤魔化すように左胸へ爪を立てれば、布越しに鋭くも鈍い痛みが肌を掻いた。…そしてだからこそ悲しく思う。彼女に元気が無かったのは、暗かったのは、無理をしていたのは、『大丈夫』の意味は。
「大丈夫じゃないくせに、大丈夫だって笑ってんのはどう考えても可笑しいじゃねーか」
彼女だって、自分と同じ叶わない恋をしているからなのか。誰よりも幸せになって欲しい彼女も苦しい恋を嘆いていたというのか。
…嗚呼、彼女が笑えるような恋をしてくれたら良かったのに。そうすれば自分は自分の恋を握り潰して、彼女の背を押してやることができたのだ。この想いは叶わないと諦めて、思い出にしようとすることだって出来た。…しかしそれでも諦めの悪いこの心は、まだ彼女への想いを未練がましく掴んで離さない。いっそ、そんな自分が惨めに思えて仕方が無かった。
「豪炎寺、もうクールダウン切り上げるのか?」
「…部屋に戻る」
風丸の不思議そうな声に対して、辛うじて平静を装った声で返事を返した豪炎寺は合宿所へと踵を返す。戻った部屋の中、スパイクを脱ぎ捨てて彼は壁伝いにへたり込んだ。散らかった靴を並べ直すことすら億劫で、今すぐ何もかもを放り捨ててしまいたいような気持ちになる。…虚しい。
「…お前は、好きな奴がいるのか」
改めて呟いた事実が重しのように自分の心に伸し掛かる。恐れていた現実は、とうに決めていたはずの覚悟をいとも簡単に塗り潰して心を暗く落としていった。
のろのろと手を伸ばして、少し離れた先にあった鞄を引き寄せる。中から取り出した家の鍵からぶら下がる青いイルカを拳に隠して、豪炎寺は薄い笑みを浮かべた顔を膝に埋めた。…本当に、これでもう終わりだ。
「…お前が、すきだ」
不思議なことに涙は出なかった。
まるで干上がった心を映したかのように、涙さえも渇いて溢れない。…泣いてしまえれば、楽になれたのだろうかと自嘲する。未だ癒えない傷を抱えて疼く胸を抑えて豪炎寺は静かに目を伏せた。
*
守と飛鷹くんが夕飯の時間になっても帰ってこない。もしや何かトラブルでもあったのだろうか。そう不安になったのだけれど、秋ちゃん曰く守は「響木監督のおつかい」のための外出らしいので全てを察した。頑張れ守。
案の定二人並んで泥だらけになりながら帰ってきたし、ため息ひとつこぼして風呂を指し示しながら窺った二人の様子は、前よりも随分打ち解けたように見えた。ちゃんとお互い腹を割って話したのだろう。これでようやく一安心といったところかな。鼻歌が出そうなのをなんとか飲み込みつつ私は食堂へと戻る。しかしそこで、私はあることに気がついた。
「…あれ、豪炎寺くんは?」
「豪炎寺さんなら、今日は食欲が無いから早めに寝るって聞きましたけど…」
…珍しいな。豪炎寺くんがそんなこと言うなんて。大食いのイメージでは無いし体も細い方だけど、豪炎寺くんは男子中学生らしくモリモリ食べることを知っているからなおさら。具合でも悪いのだろうか。いやでも昼間見たときには元気に見えたし…様子を見にいってみようかな。
「豪炎寺くん何か食べてた?」
「いえ、何も…」
じゃあお握りを作っていこう。軽く食べられるように小さめに握っておけば、豪炎寺くんも食べやすいかもしれない。具は残念ながら特に目ぼしいものが無かったから塩お握りになるけれど、そこはどうか許して欲しい。
「…豪炎寺くん、起きてる?」
みんなで夕飯を食べ終わった後に、余ったご飯で二つほどお握りを作ってから豪炎寺くんの部屋の扉を叩く。けれどどうやら豪炎寺くんは既に眠りについてしまっているようで、申し訳ないながら私はそっと部屋の扉を開けた。毛布もかけないまま身を投げ出すようにして眠る豪炎寺くんに思わず苦笑して毛布だけかけてから、お握りの入ったタッパーを机の上に置いておいた。
「…メモを置いておけばいいかな」
机に持ち歩いているメモ帳を一枚引き千切って簡潔な伝言メモを残すことにする。起きたとき誰が入ったか分からなかったら怖いしね。…しかし、さらさらと書き綴ったメモをタッパーの上に添えて満足げに頷いていれば、ふと後ろから身動ぎするような衣擦れの音がした。豪炎寺くんを起こしてしまったのだろうか。
慌てて振り返ったものの、そこで目にした豪炎寺くんの様子に私は思わずベッドの側まで歩み寄る。苦しげに眉を顰める豪炎寺くんは、まるで悪夢にうなされているかのように苦しげだった。
「…大丈夫だよ、豪炎寺くん」
宥めるように頭を撫でる。少しだけ汗ばんだ額をハンカチで拭いてやりながら、強張った表情をほぐすように親指で目元に触れた。…どんな夢を見ているのだろう。夢に見てしまうほど、何かに苦しんでいるのだろうか。
その苦しみを、どうにか取り除いてあげたかった。いつだって豪炎寺くんには穏やかな世界で生きていて欲しくて。
「…ごめんね、豪炎寺くん」
ひとつだけ謝って、私は豪炎寺くんの額に唇を寄せる。下心も何も無い私なりの精一杯のおまじない。ずっと昔、眠れない私にお母さんがしてくれた魔法。こうしてもらえることで、幼い私は誰かに守られているのだと無条件に安心できたから。
「…おやすみなさい」
顔を離すと、豪炎寺くんの顔はさっきよりもずっと穏やかになっていた。その頭を数度撫でつけて私は今度こそ部屋を出る。…どうか、豪炎寺くんが幸せな夢を見ますように。
悪夢なんかに魘されることなく、優しい眠りばかりを享受できますように。
*
夢を見ていた。自分は何故か真っ暗な闇の中にいて、どこにも見えない出口を探して無闇矢鱈に走っていて。けれどどこにも光は見えず、苦しくなるばかりの呼吸と胸に荒く息を吐きながら絶望に染まりそうな思考から目を逸らしている。
だんだん、まるで足元に闇が絡みつくような錯覚さえ覚えて足は重くなっていく。前に踏み出すことすら億劫になって立ち止まれば、そこで心が暗闇に落ちてしまいそうで目眩がした。
『哀れだな』
誰かの嘲笑うような声が聞こえた。
その声は自分とよく似た色をしていた。
振り向けばそこには、自分と同じ姿形をした誰かが立っている。その場から一歩も動けなくなった自分を嗤って、奴は口を開いた。
『滑稽な話だ。俺がいくら想っても、尽くしても、救っても。同じ気持ちを返しては貰えない』
かわいそうに。奴はそう言って涙をこぼす。自分を嘲笑いたいのか、自分の傷に共鳴して泣きたいのかそれすらハッキリしない。…いや、きっとどちらもなのだろう。
奴はきっと、自分の心を映し出した鏡の中の自分だった。
そんな奴は、自分は、くしゃりと顔を歪ませて自嘲するように口を開く。投げやりな口調で放たれた言葉に、自分は思わず絶句した。
『俺はいっそ、あの女を好きにならなければ良かったのにな』
…違う。違う、違う、違う!そんなわけが無かった。あのとき自分の存在を真正面から見つけてくれた彼女に救われた自分の恋は、間違いなく正しかったはずなのだ。
見返りなんて求めない。何度だってこの心が苦しいとき、手を差し伸べて引いてくれた。その度に自分は彼女をもっと想って、図々しくも一歩先を望みそうになって。けれどそれを、自分は口に出して否定できなかった。それなら何故、自分はここまで心に傷を負っている。失う恋の痛みに激しくぶれた心は、本当はいったい何を望んでいた。
『豪炎寺くん』
思い返した先に居た、あの日の彼女が蘇る。遠い旅先の地で残酷にも告げたその言葉は、たしかにあの日この心に消えない楔を打ち込んだ。
『ずっと仲の良い友達でいようね』
嫌だとは言えなかった。本当はその笑顔ごと言葉を否定して、いっそ自分の胸の内の思いを全て吐露してしまいたかったのだ。
けれど許されなかった。誰よりも自分が許さなかった。あのとき、格好つけてばかりの善人ぶった自分は何より、この恋がすべて失われてしまう瞬間を明確に恐れていたから。
…この恋に後悔は無い。彼女だけに捧げた愛を自分は否定しない。…けれど。
誰よりも、何よりも。愚かなこの心は無意識に彼女との未来を望んでいたのだとようやく自分はここで自覚して、ただただそんな自分が哀れに思えて笑った。
『豪炎寺くん』
しかし、そこで夢は途絶えた。まるで暗闇から引き摺り出されたかのような感覚と共に見えた、ぼんやりとした視界の中で目を覚ますと、外はまだ暗いままで時間は真夜中であることを示している。少しばかり天井を眺めながら寝返りを打てば、ふと机の上に何かが乗せられていることに気がついて体を起こした。立ち上がり歩み寄れば、そこにはタッパーに詰められたお握りとメモ書き。その字が誰のものであるのかを瞬時に悟ってしまった途端に、思わず笑みがこぼれる。…あぁ、無理だ。
この恋に終止符を打つことなんて、自分には出来ない。
「…お前は酷いな」
『食欲あったら、これ食べて元気出してね』という走り書きを机の引き出しに仕舞い込む。何の思惑も無く自分を心配してくれた優しい彼女に何度だって跳ねるこの感情は、何度殺したって何度も何度も蘇った。たった今、この瞬間も。
彼女のことが好きだ。たとえこの想いが届くことなく必要とされないものであっても、それでもなお愛おしいと叫んでしがみつくこの心を自分は手放せない。…もう、それでも良いと思えた。
届かなくて良い。
けれど密かに想うことくらいは。
…そんな甘ったれた言葉で愚かな自分を許す。誰が許さなくても、自分だけは許してやろうと思った。
「それくらい、良いだろ」
_____そんな形でしか救えないこの恋の哀れさには、見ないフリで目を背けながら。