148


次の日も練習の様子は変わらない。みんなは相変わらず決勝戦に向けて気合の入ったプレーをしているし、飛鷹くんも少しずつだけど確実に上手くなっている。雷電くんと士郎くんの連携シュートは今のところ手詰まりのようだけど、二人ならきっと今に息を合わせられるだろう。…そして、豪炎寺くんと虎丸くんは。

「…薫ちゃん、大丈夫?この前から元気無いみたいだけど…」
「…大丈夫、少し疲れてるのかな」
「無理しないでくださいよ!」

秋ちゃんたちに気遣われながらも、豪炎寺くんの方をチラリと見遣る。昨日タイミングがわずかに噛み合ったあのときからはあまり進展のないシュートであるが、あの二人ならきっと決勝戦までに完成させることは出来るだろう。だけど問題はやはり豪炎寺くんの方だと思った。元気の無さはあまり見られなくなったけれど、代わりにどこか焦りが見えるようになって。だから休憩中、虎丸くんを見て何やら思案している豪炎寺くんに私は歩み寄る。

「…虎丸くんの方に合わせようとか、そんなこと考えちゃ駄目だよ」
「!」
「虎丸くんはやればできるし、豪炎寺くんだって虎丸くんを引っ張ってあげれば良い。…大丈夫、二人は息ピッタリだもん」

少しでも彼の心の悩みが晴れるように、私はせめて精一杯の笑顔で居ようと思った。何も聞けないし、聞いたってきっと豪炎寺くんは答えてくれない。でもそれならせめて、何も出来ないなりに私も力を尽くしたかったから。
豪炎寺くんは微かに目を見開くと、少しだけ目元を緩めて静かに頷いてくれた。…ふとそこで、ドリンクが足りない人の分の補充に行っていた秋ちゃんが駆け足で戻ってきたかと思えば私と守の名前を呼んだ。

「円堂くん、薫ちゃん、手紙が来てるわよ!」
「手紙?」

秋ちゃんの手にはたしかに手紙が握られている。お母さんからだろうか。いやでも携帯がある以上手紙を書く必要なんて無いんだし…本当に誰からなんだろうか。差出人からの名前の無いそれを守の横から覗き込む。…そして、そこに書かれている文字を見て私は頭が真っ白になった。

「…この手紙」

お祖父ちゃんの字だと、何故か何の疑いもなくそう思った。私の個室に置いてある英語辞書に書き込まれた癖字と手紙の文字が重なって見えたような気がする。その途端、血の気が引いていくのが自分でも分かって。何故かは分からないけれど私はたしかにショックを受けていた。
…どうしてだろう。心臓が酷く早鳴って、胃のあたりがムカムカするような、そんな気持ち悪さが込み上げてきた。分からない。今の自分の感情が分からない。私は今この手紙を見て、何を感じているというの。

「それはないです!」

しかしそこで立向居くんの怒声が聞こえて我に返った。どうやらみんなはこの字が本物か偽物かという論議をしているらしく、今の立向居くんの声は目金くんによる「誰かの罠である可能性」を否定するものだったらしい。…そんな目金くんには悪いが、私は立向居くんの意見に賛成だ。
それは直感とした言いようが無いけれど。
具体的な根拠なんて何も無いけれど。
あれはたしかに私や守が見慣れたお祖父ちゃんの字だ。…私たちが生まれる前に亡くなったはずの、お祖父ちゃんの。

「まぁ、考えても仕方ないか」

守はそうやって切り替えたように笑う。…こんなとき、そんな守の考え方が羨ましくなる。本当かどうかも分からないことは置いていく。…それが出来ないから、私はここまで悩んでしまうのだろう。

「それより特訓だ!今は決勝戦のことだけ考えようぜ!な、薫」
「…うん、そうだよ。気にしてたって仕方のないことなんだし」

取り繕うようにして笑う。私の頭の中ではまだぐるぐると今の手紙の事が渦巻いていたけれど、守がそう言うのなら私も気にしないフリをしよう。守の言う事だってその通りだ。お祖父ちゃんの字で書かれた手紙に書いてあったのは『頂上で待つ』。…それならいずれ、世界大会の本戦に進めば会えるかもしれないってことだ。
それなら私は、どうしたってそのときまで待つしかない。…待つしか、方法は他に無いのだ。
それに守の言う通り、お祖父ちゃんのことばかりを気にしている余裕は無い。次の日の練習でもさらに苛烈さを増して、いっそ怖いほどに気が立っている豪炎寺くんを見てなおさらそう思う。虎丸くんとの連携シュートがなかなか合わないことに苛立っているのか、虎丸くんに注意する口調も今日はいつもより厳しい。
おまけに、そんな豪炎寺くんを見つめる守も何か様子が可笑しくて不安になった。守はお祖父ちゃんのことは気にしないと言ったし、昨日も一応響木監督に見せにいくと言っていたから今の守の頭の中にお祖父ちゃんの手紙のことは綺麗さっぱり消えているはずだ。…でも。

「…豪炎寺くん、守」

決勝戦を前にして、明らかに様子の可笑しい二人。それを見て私は、何か自分が大切なものを見失っているような気がして怖かった。





「…四時起床、ですか」
「明日から新しい練習に入る。お前にはまず先にそれを体験させることにした」

その日の夜のミーティング。久遠監督からいきなりそう告げられて私は思わず困惑した。別に四時起床なのは良い。私は早起きは得意だし、四時だろうとすんなり起きられるだろう。けれど困惑したのはそれじゃなく、練習の事前の確認として私を実験台にすることだ。

「…私で役に立ちますか」
「私は出来ないことを言うつもりは無い」

…つまりは出来るということだ。たしかに私を最低レベルとして練習メニューを組み立てればちょうど良いのかもしれない。けれどまだ決勝戦の相手が決まっていないというのに、そんなにも早く練習内容を決めてしまっても良いのだろうか。そう思いながら監督を見つめていると、どうやら監督は私の疑問に答えてくれるらしい。差し出されたバインダーの資料に目を通して、私は思わず目を見開いた。
…トーナメントの反対側、韓国が一回戦において圧倒的な点差で勝っている。二回戦は明日の朝一だと聞いたが、ここまで圧倒的な差をつけられていると結果はほぼ決まったようなものだろう。そして監督は何より、韓国が上がってくると確信している。

「…わかりました。力を尽くします」

ただ、明日の朝は汚れても良いジャージで来て欲しいらしい。どれだけ過酷な練習をするのだろうかと思わず息を飲んだ。…飲んだのだが。

「これはさすがに予想はつかなかった…!」

時刻は午前四時半。デデン、と目の前にあるのはコートを丸ごとくり抜かれた上に泥を敷き詰められたグラウンド。なるほど、今なら監督の言っていたことが分かる。これは汚れること必須の練習だ…!そして監督に行けと指示されて、思わず顔を引きつらせながらもいざ中に挑む。う、ぬちょっとして気持ち悪い…。どうやら夜のうちに突貫工事を行ったらしいが、よく業者の人もこんなことを請け負ったものだ。

「シュートを打ってみろ」

センターラインから勢い良く駆け出すものの、泥に足を取られて走りにくい。いつもよりもスピードが出ない泥の地面に悪戦苦闘するせいでどうにも必殺技が撃てなかった。何せ、飛び上がろうとしても足場が悪すぎるせいで高さは取れないし、ボールを地面につけると泥のせいで沈んで満足に蹴ることも出来ない。
だからそれならと、私はつま先で蹴り上げたボールをそのまま空中でゴールに向けて叩き込む。…疲れる。まだ少しドリブルしてシュートを打っただけなのに。まだ体力に余力はあるが、たった少しの運動でこれだけ体力を削られるなんて。

「もう一度だ!」
「はい!」

それから何度か練習メニューらしきものを一通りこなして、時計が六時を指す頃に練習はようやく切り上げられた。慣れない泥の中でのサッカーだったせいで身体はすっかり疲労困憊。これからさらに練習を見て行かなきゃいけないのか…と少しだけげんなりしていれば。

「お前は今日は一日休みとする。夜のミーティングの時にまた私のところに来い」
「…え」

監督はそれだけ言って引き返して行ってしまった。…私に休み?もうすぐ決勝戦があって、しかも大事な試合なのに?しかし私はそんな風に呆然としながらも、とある一つの可能性に思い至る。

「…もしかして、気遣われた…?」

…恐らく監督は私が精神的に疲労していることを見抜いていたのだろう。けれど私がそう簡単に休みを取るわけがないことも理解している。だから休むために相応しい仕事を与えたのか。…そういうことなら、好意をありがたくいただこう。監督の思惑通り今の私の身体は随分とヘトヘトだ。
泥だらけの体を引きずり風呂場に向かって、朝一のシャワーを浴びる。濡れた髪を拭きながら一度だけ食堂に寄って、本日の朝食当番である秋ちゃんとふゆっぺに今日は一日部屋に居ることと、朝食は要らないことを伝えておいた。

「…休み、か」

自分の部屋のベッドに寝転んで天井を仰ぐ。…せっかくの休みだし、今だけは何も考えないで眠ろう。試合のことも、お祖父ちゃんの手紙のことも、豪炎寺くんのことも。今だけは自分勝手に、自分のためだけに眠ってしまえ。
そんな呪いじみた言葉を吐き捨てて、私は微睡の中に落ちていった。





結局あれから私は死んだように眠りこけてしまっていたらしく、部屋の前に「起こさないでください」という張り紙を貼っていたのは良いのだけれど随分とみんなに心配をかけたらしい。半分寝ぼけ眼で食堂に姿を表した瞬間に質問攻めにされてしまった。
具合が悪かったのか、と聞かれたのだけれど今朝の泥のフィールドでの練習のことを話せばすんなり納得された。それにたっぷり寝たことによって精神もいくらか楽になったような気がする。休息って大事だなと思わされた。

「…やっぱり韓国になったんだ」

そして、私が呑気に寝ている間にやはり対戦相手は韓国になったらしい。しかもサウジアラビアを相手に四対〇の圧倒的点差。一回戦のときと同じだ。どうやら相当手強い相手のようだけれど、守たちならきっと大丈夫。…大丈夫なはずだ。
豪炎寺くんも一昨日とは違って気迫も穏やかなものになっている。この前のような苛烈さはなりを潜めているし、この泥練習で少し頭を冷やせたのかもしれない。

「じゃあ私、監督のところに行ってくるね」
「えぇ、分かったわ」

練習を終えて、片付けを頼んだ後に監督の部屋に向かう。私だけに先に話しておくことがあると言われたのは練習の終わり頃の話だ。明日の決勝戦に向けてのことだろうか。
そう思いながらたどり着いた監督の部屋の前、静かにドアを叩いて返事と共に中に入る。

「…来たか」
「はい。…あの、話って」

監督は黙ったまま、私を真っ直ぐに見つめる。何か少しだけ言いにくそうな目だった。あの監督がすぐに口に出せないこと。それが分からなくて思わず胸中が不安に駆られた。…やがて監督は意を決したように口を開く。

「…他の選手たちには決勝戦後に通達する予定だ。くれぐれも外部には漏らすな」
「はい」

…そのときのことを、実は私はあまりよく覚えていない。ただ監督の言葉がやけにスローモーションのように聞こえて、まるで地面がぐらりと傾いたかのように足元の感覚が覚束なくなるような錯覚を覚えた。…そんなの、冗談であって欲しかった。監督なりの趣味の悪いジョークなのだと言って欲しかったのに。


「豪炎寺は、次の試合が最後になる」


…そのとき私はようやく、豪炎寺くんの暗い表情の意味に気がついてしまったのだ。





TOP