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監督の部屋を出てすぐに、私は脇目も振らず一目散に駆け出した。真っ先に豪炎寺くんの姿を探す。個人部屋も食堂も、浴場までをも一つずつ探して、ようやく見つけたのはグラウンドだった。延々とゴールに向けてシュートを放ち続ける豪炎寺くんを呆然と見つめながらも、先程の監督の言葉が何度も私の頭の中では思い出されていた。

『豪炎寺は、次の試合が最後になる』

…ドイツに留学をするのだという。お父さんと同じく医者になるために、次の試合でサッカーを辞めてしまうのだと。韓国戦を終えてしまえば、豪炎寺くんは居なくなってしまう。彼にとって何よりも大事で大好きなはずだったサッカーを置き去りにして、遠くへ行ってしまう。

「豪炎寺くん!!」

震える声を叱咤して名前を呼べば、豪炎寺くんがこちらを振り向いた。荒く息を吐く豪炎寺くんの元へ歩み寄り、私は豪炎寺くんの腕を取る。…ちゃんと豪炎寺くんの言葉が聞きたかった。辞めるだなんてそんなこと、よりにもよって豪炎寺くんが言うわけがなかったのだから。
だってかつて、サッカーをあんなにも渇望していたのは豪炎寺くん自身だ。守たちとのサッカーが好きだと言っていた。あんなにも生き生きとしながらボールを追いかけていた。それなのにどうして、こんなに簡単に手放してしまえるの。

「…どうした」
「サッカー辞めるって、本当なの」
「!」

「…円堂か」と苦く呟いて視線を逸らした豪炎寺くんに、私は首を横に振る。この様子だと守も知っているのだろう。通りで最近豪炎寺くんを見る目が辛そうだったはずだ。でも今は、そのことは後回しで良い。聞きたいことは他にたくさんあるのだから。

「監督から、聞いたの。…ねぇ、どうして辞めちゃうの。豪炎寺くんは本当にサッカーを辞めたいの」
「…留学するんだ。俺は医者になる」
「そうじゃなくて!ドイツでだってサッカーはできるよね!?なのに…どうしてサッカー自体を辞めちゃうの!!」
「!」

…そうだ。豪炎寺くんが辞めるのはイナズマジャパンだけじゃない。サッカー自体を手放してしまおうとしている。
豪炎寺くんが本当に自分の意思で医者になるために留学するのなら、私は誠心誠意その夢を応援する。頑張れっていくらでも背中を押せる覚悟があった。けれどこれは違う。こんなのが豪炎寺くんの意思な訳が無い。本当に大切なものを手放そうとしている今の彼を、私は応援なんて出来るわけが無かった。

「辞めないで」
「!」
「私は、豪炎寺くんにサッカーをしてて欲しい。手放さないで欲しい。だって…だって私は、豪炎寺くんがサッカーしてる姿を見るのが好きだから」

豪炎寺くんはその言葉に目を見開いて、しかし何故か苦しそうに顔を歪めたかと思うと、彼の腕を掴んでいた私の手を振り払った。その乱暴な仕草に思わず呆然としていれば、豪炎寺くんの目が鋭く私を睨みつける。…どこか悲しげにさえ見えるその目は、はっきりと私への拒絶を示していた。


「…お前には関係無い!」


豪炎寺くんの言い放った言葉が矢のように、私の心を抉るように深く突き刺さる。踏み込むなと、明確に突き放されたような気がした。…待って、そんなこと言わないで。だって私はまだ、君の気持ちをちゃんと聞いてない。だからそんな風に、何もかもを全部切り捨てようとしないで。

「…俺が居なくても、円堂たちなら世界を勝ち抜ける」

違うよ、私は豪炎寺くんも一緒じゃなきゃ嫌だ。たしかに守たちは強いけど、私はたとえ豪炎寺くんが強くたって弱くたって一緒に世界へ行きたい。世界の頂点の景色を、私は君と一緒に並んで見たいんだよ。…そしてそれは豪炎寺くんとじゃなきゃ、駄目なのに。

「…手荒にして、悪かった」

豪炎寺くんの指が私の頬に触れた。泣かないでくれと掠れた声で囁かれて、私はそのとき初めて自分が泣いていたことに気がついた。そして自覚してしまったら最後、どうにも止め方を忘れてしまった涙が絶え間なく溢れでて、耐えきれず蹲み込んでしまえば、また豪炎寺くんが困ったような途方に暮れたような声で私の名前を呼んだ。
「やめないで」と嗚咽混じりに私はこぼす。
けれど、豪炎寺くんはそれでもさっきの言葉を取り消してはくれなかった。

「…もう、決めたことなんだ」

揺るがない声音に、豪炎寺くんの決意を見た。私の頭を優しく撫でて立ち去っていく豪炎寺くんの足音を、私は追いかけられないまま黙って見送ることしかできない。
届かなかった。豪炎寺くんの心に、私の言葉も思いも何もかもが伝わらなかった。もう既に彼の中ではどうしようもなく覚悟ができていて、私はそんな彼の覚悟を覆すことが出来なかった。…たった、それだけの話だった。





「どうした!?」

しばらくその場に蹲ったまま呆然としていれば、突然肩を揺さぶられた。思わず顔を上げれば、そこには焦ったような表情で私を見つめている鬼道くんが居て。どうやらここまで急いで駆けてきたらしい鬼道くんの息はやや上がっていて、きっと遠くから見つけた私を心配してくれたのだろうと思う。けれど私の涙は止まらなくて、黙りながらも次々にボロボロと溢れていく。
鬼道くんは、そんな私の顔を見て何故かみるみるうちに顔を険しくさせた。そして、怒りを堪えるような低い声で私に尋ねる。

「誰かに何か言われたのか」
「…」
「不動か?」
「…」
「…なら、お前はどうして泣いているんだ」

何度も首を横に振れば、鬼道くんは途方に暮れたような顔で私に訳を尋ねる。…どう言えば良いか分からなかった。だってきっと、豪炎寺くんは留学のことを誰にも話して欲しく無いと思う。私に知られただけで、あんな苦い顔をしていたのだから。それなら私に、話すことなんて、何も無い。…けれど。

「つ、辛い、悲しい」
「…何がだ」
「……ッ、豪炎寺くんに、私は、何もしてあげられない」
「!」

鬼道くんに促されるようにして思わず吐き出した自分の無力さは、どこまでも絶望に満ちていた。私じゃ豪炎寺くんを繋ぎ止められない。行かないでと必死に引き止めた手は、彼の拒絶と共に振り払われてしまったから。
私じゃ駄目だった。
私じゃ無力だった。
豪炎寺くんにあれだけ救われておきながら、私は豪炎寺くんのために何もしてあげられない。手を伸ばしても掴んでもらえない。…もしも、これが豪炎寺くんの好きな人だったら引き止めることができたのだろうか。行かないでと叫べば、抱き締めてもらえたのだろうか。…けれどそんなことをいくら考えたって私には分からない。
「関係無い」と突き放された私は所詮、豪炎寺くんにとっては赤の他人に過ぎないのだから。

「…お前が何故、泣いているのかは理解した」
「…」
「お前は、豪炎寺のことが好きなんだな」
「ッ…!」

頷くことも、否定することも出来なかった。その代わりに抑えきれなかった嗚咽がこぼれる。どうせ鬼道くんに誤魔化すことなんて不可能だった。察しの良い彼のことだ。私の気持ちなんてきっと今のやり取りでとっくに見抜いている。でも私は、どうしてもそれを自分で認めるわけにはいかなかったから。この想いは、誰よりも豪炎寺くんのために、自分の中に閉じ込めるのだと自分で決めたのだから。

「…薫」

嗚咽をこぼして一人泣き噦っていれば、ふと鬼道くんに名前を呼ばれる。二度目にまたもう一度呼ばれて今度こそ億劫げに顔を上げた。そこには何故かゴーグルを外して、赤い瞳をこちらに真っ直ぐ向けた鬼道くんがいて。
いつのまに蹲み込んだのだろう。私の目の前に膝をついて、鬼道くんは私の目を射抜く。

「俺は、お前のことが好きだ」
「…ぇ」

思わず、呼吸が止まった。目を見開いた拍子で溢れた涙を掬い上げるようにして頬に触れた鬼道くんが私の頬を手のひらで柔く包み込む。その優しい手つきに私は思わず安堵を覚えた。…今、君は何て言ったの。

「お前は役立たずなんかじゃない。それを俺が証明してやる。…俺は、これまで何度もお前に救われてきたんだ」

この「好き」は、友達としてでも仲間としてでも無いのだと言った。正真正銘鬼道くん自身が私だけに抱く恋なのだと彼は微笑む。
たった今ズタズタに引き裂かれたばかりの傷ついた心を慈しむように、言葉を囁きかけてくれた鬼道くんの言葉に一瞬目眩を覚えた。甘く優しい言葉がまるで私の心を包み取り巻くように、穏やかに耳朶を打って。


「俺ならお前を泣かせない。…俺を選んでくれ」


鬼道くんの目は、真剣だった。私を慰めるためだとか、そんな同情じみたものじゃない。私の心だけに真っ直ぐ向けた想いは、私が豪炎寺くんに抱くものと同じ色をしていた。
きっとこの告白を受けて鬼道くんを受け入れてしまえば、私の心はきっと楽になれるのだろう。豪炎寺くんへの届かない想いに苛まれること無く、鬼道くんだけを好きになれる努力をすれば良いのだから。それに、鬼道くんなら私の心を守ってくれる。痛みばかりしか知らない恋に、愛される幸せを教えてくれる。…でも。

「ごめん、なさい」

それでもこの心が真っ直ぐに好きだと叫ぶのは、豪炎寺くんだけなんだよ。鬼道くんのことだってもちろん好きだ。でもそれは違う意味での好き。友達として、仲間として。たとえこの先君のことをどれだけ好きになれても、きっと私は豪炎寺くんへの想いと同じものを他の人には抱けない。
それが私の、無謀で愚かな恋だったから。

「ご、め…ごめん、ごめんなさい…!」
「…泣くな。俺は泣かせたくてお前に言ったわけじゃない」

フられるのは分かってたんだ、と鬼道くんはほろ苦く笑う。傷つき泣く私を見て、今ならつけ込める隙があるんじゃないかと思ったのだと。

「気にするな。今にお前よりも良い女を見つけてやるさ」

そんな軽口が、無理やり紡ぎ出した鬼道くんなりの強がりなのは丸分かりで、けれど私にそれを指摘する権利なんか無い。だから少しでも鬼道くんに報いることができるとするのなら、私はせめてこの涙を止めるべきだ。
袖で擦るように乱雑に涙を拭い取って、私は半ば無理やり顔を上げてみせる。目を逸らすな。私なんかと違って正々堂々と真っ直ぐ想いを伝えてくれた鬼道くんから目を逸らすのは、最低なことだから。そうすれば鬼道くんは可笑しそうに微笑んで私の頭を撫でる。そしてまるで泣く子を諭すような優しい口調で口を開いた。

「今の俺が言っても信憑性は無いかもしれんが、少なくとも豪炎寺にとって、お前は特別な存在だと思うぞ」
「…そんな、こと」
「信じるかはお前次第だが。…豪炎寺は、意味も無くお前を突き放すような人間なのか?」
「違う」

豪炎寺くんはそんな人じゃない。いつだって誰かを傷つけてしまうことを恐れている、そんな優しい人だ。だから私はそんな彼を好きになったの。
…それなら信じてやれ、と鬼道くんは笑った。好きなら信じてあげることが、何よりも大事なことだからと。
先に行くぞ、と立ち上がってその場を立ち去ろうとする鬼道くんの背中に私は思わず名前を呼んで引き止める。…こんなこと、本当は言うべきじゃない。鬼道くんの気持ちを受け入れられなかった私は黙っているべきだ。でも。

「好きになってくれてありがとう。いっぱいいっぱい、ありがとう」

それでも私なんかを好きになってくれたことは嬉しかったから。たとえ好きな人に、豪炎寺くんに振り向いてもらえる日が永遠に無かったとしても、それでもこんな私なんかを好きになってくれる人は居るのだと、知れたことが堪らなく嬉しくて。

「…礼は必要無い」

鬼道くんは少しだけ振り返り、まるで悪戯をするかのような悪どい笑みで私に向かって口を開く。

「友達なんだろう?俺たちは」

…友達という間柄が今の鬼道くんの心を蝕む呪いだと知っていても、私はそれに頷くことしか出来なかった。そして鬼道くんもきっと、私が頷くことしか出来ないと知っていてこんな言葉を選んだのだ。
これから先きっと、これまで通り鬼道くんと接することは出来ないのかもしれない。鬼道くんだって今日の告白を後悔する日があるのかもしれない。

『雷門中サッカー部マネージャーの円堂薫だよ。君たちの名前は?』
『敵と馴れ合う気は無い』

それでもあの日、ただの敵同士であったはずの君に手を伸ばしたことを、少なくとも私だけはきっと一生後悔する日は絶対に無い。それだけは何よりも。きっと神様にだって誓える私の揺るぎない心だったのだ。





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