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女子トイレに駆け込んで、真っ赤になっているであろう目元を冷やすようにして顔を洗う。顔を拭って鏡を見れば、そこにはもう先ほどまでの弱々しく泣く女の子は居なかった。そこに居たのは、また一つ決意を腹に決めた私だけだ。
洗面台に手をついて、私は静かに目を伏せる。…考えろ、考えなきゃ。泣く時間はもう終わった。豪炎寺くんがもう決めてしまったのなら、私はもうそれを否定しない。引き止めない。でもせめてその最後が彼にとって後悔の無いものにするために。
私が今、豪炎寺くんの為にできることはなんだ。

『彼の父親の意向で』

…そこでふと、久遠監督の言葉が脳裏に蘇る。豪炎寺くんがイナズマジャパンを抜けなければならなかった理由。豪炎寺くんがサッカーを辞める決意をしたその訳は確か。

「…よし!」

頬を一つ叩いてトイレを飛び出す。玄関に向かう途中に鉢合わせた今日の夕食当番のふゆっぺには、私の分のご飯を冷蔵庫に入れておくように頼んでおいた。ふゆっぺは不思議そうな顔をしていたけれど、私の真面目な顔に何かを感じたらしい。「危ないから遅くならないようにね」とだけ微笑んで何も聞かないでいてくれた。私はそれにお礼を告げて、今度こそ玄関口へと駆け出したのだった。





豪炎寺勝也はその日、ほんの少しだけ苛立ちを抱えながら帰宅することになった。それは夕方のこと、自分の勤める病院に押しかけてきた息子の友人でチームメイトだという少年から「息子からサッカーを奪わないで欲しい」と頭を下げられたからである。他人の家庭の事情に口出しをするなと言いたかったのを堪えて、敢えて無視をしたのは彼なりの温情だった。…自分はずっと息子にサッカーを辞めさせたかった。
「サッカーの感動でも人を救うことはできる」とそんな世迷いごとを吐く息子はまだ知らない。この世には、そんな綺麗事だけでは救えない命だってあることを。今は亡き自分の最愛の妻が何よりもそうだった。
サッカーなどという無駄な時間を費やすくらいならば、自分は息子に医者という確実な道を示す。…その選択に、迷いも後悔も無かったけれど。

「…こんばんは、夜分遅くに失礼します。私はイナズマジャパンの監督補佐を務めさせていただいています、円堂薫です。
今日は、お願いがあってこちらに伺わせていただきました」

家に帰って早々、自分に客が来たと困惑気味な家政婦のフクから呼ばれて玄関先に向かえば、そこにはここまで走ってきたのであろう、息を乱しながらも毅然とした態度でそこに立つ少女の姿があった。
その中でも「円堂」という名前と「お願い」という言葉に思わず勝也の眉が跳ねる。思い出したのは今日の夕方、病院に訪れた息子の友人でありチームメイトの少年だった。息子をドイツに留学させると決めたその決断を覆してはくれないかという願い。この少女も同じかと少々うんざりしながらも、帰ってもらおうと口を開きかけ。

「修也くんの試合を、観に来てくれませんか」

続いて放たれた言葉と深々と下げられた頭に、勝也は思わず困惑することになった。予想していた言葉とは違う、その要求の意図が分からない。

「…時間が取れないんだ。恐らく、観に行く時間はほとんど無い」
「少しだけでも良いんです。彼の試合を観てください」

遠回しの拒否にめげることなく食ってかかってきた少女は、どうやら一歩も引く気は無いらしい。決着のつかないそのやり取りにだんだん困惑が苛立ちに変わってきた勝也は、思わず嫌味を交えた言葉を吐き出す。

「…他人の家庭に口を出している暇があるのかね。修也が抜けた後が大変だろう?」

他人、という言葉に少女の顔が強張ったような気がした。しかしそれさえもまるで飲み込むようにこちらを見据えた少女の目には、それでもなお引き下がらない意志の強さが見て取れる。それはあの時、決勝戦まではと自分に頼み込んだ息子の目と似ているような気がした。

「すみません、失礼だと分かっています。でも、言わせてください。
貴方が修也くんにサッカーを辞めろと言って彼からサッカーを奪うのなら、貴方にはその終わりを見届ける義務があります。…これまでずっと頑張ってきた彼のサッカーを、他でも無い貴方が見殺しにしないでください」

見殺し、という言葉が何故か胸に刺さる。そんなつもりは微塵もない。自分はいつだって息子たちの未来を考えている。家庭の事情を知らないこの少女にそれを言われる筋合いは無いはずだ。…けれどその真っ直ぐな目が、まるで「逃げるな」とでも言うように自分を責め立てているような気がして。
何か言わなければ、と口を開きかける。しかしその捻り出しかけた反論は、背後から駆けてくる軽やかな足取りに阻まれることになった。

「お父さん!薫ちゃんをいじめないでっ!!」
「…夕香」
「ち、違うよ夕香ちゃん。お父さんとはお話してただけだよ」

庇うように勝也と少女の間に立ち、腕を広げて自分を怒ったような顔で見つめる娘に彼は思わず困惑した。随分と親しいように見える。息子を通して交流でもあったのだろうか。

「…本当?」
「本当だよ。でも心配してくれてありがとう、夕香ちゃん」
「うん!」

嬉しそうに少女の首筋に抱き着く夕香を優しい眼差しで撫でてやるその顔が、まるで慈しむような優しいものに見えて既視感を覚えた。それが何なのか自分でも分からないまま、いつのまにか先ほどまでの苛立ちが消えてしまっていることに気がつく。…あぁ、しかしこれでは確かに怒れるものも怒れない。

「…随分と、夕香が懐いているようだ」
「うん!だってね、薫ちゃんいつも夕香と遊んでくれるし、優しくて大好きだもん!」

本当に可愛がられていたのだろう。まるで姉か母を慕うような嬉しそうな口ぶりの夕香が、家族以外の人間に対してこんなに甘える姿を初めて見た。聞けば、夕香が昏睡状態の頃から見舞いに来てくれていたらしい。それすら自分は知らなかったのかと少しだけショックを覚えた。
そんな自分の胸中を知らず、少女は再び勝也に向けて頭を下げる。もはや健気な懇願にも近いそれに、勝也はもう苛立ちを抱きはしなかった。

「…修也の件は、たしかに君の言葉にも一理ある。…約束は出来ないが、時間があれば観に行かせてもらおう」
「ありがとうございます…!」

また頭を下げられて、何故だか面映い気持ちで居心地が悪くなる。思えば息子の試合を父親が観に行くことに可笑しなことも何も無いはずなのだ。ただそれが、妻が死んでから随分と久しぶりになってしまっただけで。
夕香に別れを告げてからどうやら帰るらしい少女を最後に引き止めて、勝也はふと感じてしまった疑問を投げかける。夕方の少年とは違う要求をしてきた少女の意図が、不思議でならなかったから。

「一つ、良いだろうか」
「…はい」
「…君は、修也からサッカーを取り上げるなとは言わないのか」

本当に息子のことを思ってここに来たのなら、口から出るセリフはそれであるはずだ。本当はあの子がサッカーを辞めたくないことくらいは、自分だって分かっている。けれど少女は一言だって勝也に「辞めさせるな」とは言わなかった。…その理由が分からない。

「…本当は、言いたいです。だって修也くんはサッカーをしている時が一番幸せそうで、楽しそうに見えて仕方がないから」
「…」
「本人にも言いました。辞めないでって、それで良いのかって聞きました。…でも、修也くんが言ったんです。『もう決めたことだ』って」
「!」
「本人が何かを失う覚悟で決めたことを、私は否定できません。せいぜい、彼が悔いのないサッカーを出来るように後押ししてあげることしか、私には出来ないから。
…だからここに来ました。修也くんはお父さんのこと、大好きです。だから貴方の意志に逆らわない。…彼が本当に試合を見てもらいたいのは、きっと家族である貴方です」

それだけを告げて、少女は帰って行った。何も言えなかった。少女の想像にしか過ぎないその言葉がどうしても頭から離れない。
…親子と言うには距離の遠すぎる自分たちが、あまり話さなくなったのはいつからだっただろう。前は比較的少なくとも会話があったが、それが極端に減ったのは夕香が事故に遭って昏睡状態に陥ったあの時からだった。自分はあのとき、遠ざけ始めていたサッカーに初めて憎しみを抱いた。息子がサッカーさえしていなければ、娘は事故に遭うことは無かったかもしれないのにと歯噛みしたこともあった。
そしてそれをきっと、聡明な息子だって知っていたのに違いない。

『彼が本当に試合を見てもらいたいのは、きっと家族である貴方です』

いつから息子の笑う顔を見ていないのだろう。最後に見た笑顔は、ずっと昔。まだ妻が生きていた頃、一緒に応援に行っていた試合でゴールを決めた瞬間の嬉しそうな顔が、自分の中で一番鮮やかに残っている。…そういえば、あの子は、サッカーをしている時が一番楽しそうだったのだったか。

「お父さん!薫ちゃん帰っちゃったの?」
「あぁ、夜も遅いからな」

不満そうに声を上げた夕香の手の中には、一枚の画用紙が握られている。どうやらそれは夕香の描いた絵らしい。自分がそれを見ていることに気がついた夕香は、まるで自慢をするかのように広げて見せてくれた。…そこには、息子とあの少女らしき人物が描かれており、随分と仲睦まじげに寄り添っている姿がある。その隣には、可愛らしいクマのぬいぐるみを持って笑っている夕香らしき女の子の絵があった。

「あのね、これ薫ちゃんがお兄ちゃんと一緒に選んでくれたお人形なの!」

たしかに最近、よく抱いているぬいぐるみに似ていた。息子が修学旅行から帰ったときの土産だとはしゃいでいたような気がする。
そしてそのときようやく、自分が先ほどから抱いていた既視感の正体に思い至った。あの優しげな表情も芯のある意志も、一歩も引かない強さも。その何もかもが、亡き妻によく似ていたのだ。
なるほど、夕香が懐くわけだと一人納得する。この絵をプレゼントするのだと笑う夕香の頭を撫でながら、勝也は絵を見下ろしつつもしみじみと呟いた。

「…お姉さんのことが好きなんだな」
「うん!だってお兄ちゃんがとっても大好きなお姉ちゃんだもん!」
「……………そうか……」

……さすがにこんな無邪気な形で息子の恋愛事情までは知りたくは無かったのだが。





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