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アジア予選決勝当日の朝がやってきた。目を覚ましてすぐ私は洗面所に向かい、目が赤くなってないかどうか確認する。寝る前に嫌というほど冷やしたおかげか、特に変わった様子は見られなくて安心した。
今日は監督はふゆっぺと一緒に先に会場入りするらしい。八時には合宿所を出るということで今からバタバタするだろう。…気合を入れていかなくちゃ。そんな思いを込めて自分の頬を両手で挟むようにして叩く。

「…よし!」

豪炎寺くんのことは、一度置いておこう。今は韓国戦に全力を尽くさなきゃ。何よりこれが豪炎寺くんにとって本当に最後の戦いになるのなら、私が力を尽くすことは彼のためにだってなるはずだから。
…思えば私はそんな自分の中に抱えるもののせいで朝から少しピリピリしていた。別に選手に冷たい態度を取るわけじゃない。何か不慮な事故が起きないようにと念入りに気を張っていたのだ。

「これで揃ったな、じゃあ出発だ!」
「忘れ物が無いか最後に確認してね」

みんなの体調チェックも兼ねて最後に顔を見渡せば、途中で豪炎寺くんと目が合う。…気まずそうに目を逸らされた。昨日のことを気にしているのだろう。そんなこと、君が考えなくたって良いのに。その後鬼道くんと目が合ったときは、あっちが「大丈夫だ」とでも言いたげに微笑んでくれたので私も思わず安堵した。…私の勝手な都合だけれど、鬼道くんとはこれからも友達でいたかったから。

「これに勝てば、FFIの世界大会に行けるのね」
「あぁ!」

乗り込んだバスの車内は、これからの試合への抱負やその先に待つ世界大会出場への希望で溢れていた。みんなそれぞれやる気が満ちていて、私としてもホッとする。決勝という緊張に負けていつもの調子がガタ崩れになるのは避けたい。…しかしそのときだった。何故かバスが突然急ブレーキを踏んだのだ。思わず前のめりに倒れそうになるのを耐えて、私は秋ちゃんと一緒に古株さんのところへ歩み寄る。

「どうしたんですか!?」
「いきなり何が…」

古株さんは震えながら道路の前方を指差した。その先を見て、私たちは目を見開くことになる。
改造されたバイク、明らかに柄の悪い格好、ニヤニヤとした顔つき。…不良たちの、集まりだった。

「アイツらは!?」

どうやら守には見覚えがあるらしい。そのことについて詳しく尋ねようとして、そこで外からかけられた声に遮られた。まるで茶化すような軽い口調で、フードの男は飛鷹くんの名前を呼ぶ。

「お久しぶりですねぇ、飛鷹せーんぱい」
「唐須!テメェ何のつもりだ…!」
「今から大事な試合だそうじゃないですかぁ。だから応援に来たんですよ。…ほら、先輩に世話になった連中もこんなにたくさん集まってくれましたよ?」

…なるほど、どうやら彼らは飛鷹くんの昔の知り合いらしい。飛鷹くんへの嫌がらせとして、こんな事をしでかしてくれたようだ。私は今の時間を確認する。…会場には余裕で着くようにスケジュールを立ててあったからまだ間に合うけれど、こんなタイミングでよくもまぁ邪魔をしてくれるものだ。
守たちはどうやら説得を試みるらしい。当事者である飛鷹くん、その付き添いとして綱海くんと雷電くんがバスを降りて行った。穏便に事が済むと良いのだが。

「えぇ〜?せっかく応援に来た友達を追い返すんですか先輩」
「何が応援だ、タチの悪い嫌がらせじゃねぇか!」
「うわ、良いんですかぁ?喧嘩なんかしちゃったらせっかくの決勝戦、出場停止処分になっちゃいますよ?」

…ピクリ、と自分の眉が跳ねるのが分かった。あまりにも汚い手を使ってくる彼らに反吐が出そうになる。最初からこちらが手出し出来ないことを分かっていてこんな手を使ってきているのだ。暴力沙汰なんて起こせばチームは試合の前に敗北が決定してしまうから。…あぁ、駄目だ。
最初にも言ったと思うけれど、私はこれでも朝からピリピリしている。チームが万全な状態で試合に挑み、豪炎寺くんが悔いの無い試合ができるよう全力を尽くそうとしていた。だからこそ、今のこの状況は私の堪忍袋の緒を切るのに十分だったのだ。

「…どうしたの薫ちゃん、携帯なんて出して…あ、監督に連絡…」
「緑川くん、少し静かにしてて」
「はい」

自分でもドスが効いていると思うくらいの低い声が出た。みんなが僅かにどよめいて私から距離を取る。受け答えをした緑川くんには申し訳ないが、これでも私はキレるとこまでキレている。彼らは私の中の二つの地雷を丁寧にも踏み潰してくれたのだ。
一つは、こうして試合へ臨むみんなの邪魔をしたこと。
そしてもう一つは、飛鷹くんという誰よりも努力してここまで頑張ってきた人の過程を悪意で踏みにじろうとしたこと。
彼らが飛鷹くんに恨みがあろうが何だろうが私にはどうでも良いのだ。私は飛鷹くんが自分を慕う後輩たちを捨て置いてでもサッカーを志したその覚悟を知っているから。…けれど今の私がそんな不良たちに対峙しても意味は無い。暴力沙汰に変わりはないし、女だからと舐められるのがオチだろう。…だから、適材適所として他の人に頼む事にした。

「もしもし、貴久くん」

世間の一般常識でも、餅は餅屋というしね。





その女が降りてきたとき、いったい何事だ?と唐須は思わず首を傾げた。この緊迫感漂う空気の中、似つかわしくない微笑みを浮かべてバスを降りてきたそんな女は、飛鷹に向けて携帯を差し出す。ピンクのイルカのついた可愛らしい携帯だったから、恐らくその女のものなのだろう。

「飛鷹くん」
「ッ、円堂さん危ないですから下がって…」
「これ、代わってって」

何故この状況で?とその場の全員が思ったし、当然差し出された飛鷹も困惑していた。しかしその女の顔が有無を言わせぬ雰囲気を漂わせていたからか、飛鷹はしぶしぶといった様子で携帯を受け取り耳に当てる。…すると次の瞬間、飛鷹は遠くから見ても分かるほどに目を見開いて背筋を伸ばした。

「っ!?ご無沙汰してます!!」

…飛鷹が敬語を使う。それはつまり、電話の相手が彼にとって目上の存在であるということだ。その場にいる選手たちはそれが監督であると思っていたし、監督の存在を知らない唐須たちであっても大人に頼ったのであろうとせせら笑っていた。しかし飛鷹が困惑した顔で携帯をスピーカー状態にし、電話の向こうの相手の声が聞こえるようになってその余裕は崩壊した。

[よォ、唐須。お前随分と偉くなったみてぇじゃねーか]

ぶわり、と背筋が一気に冷えた。楽しげに聞こえてその実全く笑っていないであろう声音に、心臓が嫌な音を立てて早鳴り始める。…何故、この目の前の女のものらしき携帯からあの人の声がするのだろう。
東雲貴久。二年前までこの辺り一帯の不良たちを纏め上げていた自分たちの前々リーダー。世の中に顔向けできないことは一切許さない潔癖さを持ちながら、その反面喧嘩が三度の飯よりも好きだという根っからの戦闘狂。礼儀には厳しいが、下っ端であっても面倒見が良いことから彼は舎弟によく慕われていた。今は引退してチームから足を洗っているが、その影響力は今でもなお強い。…そんな彼が、何故。

[あの随分と手のかかったお前が今やチームのリーダーか!そうかそうか、立派になったもんだなぁ]
「…た、貴久さんはもう引退したんですから関係無いっスよね?俺と飛鷹さんの問題なんですよ」
[おう、俺も別にお前と飛鷹が喧嘩しようと何も言わねぇよ。…ただなぁ]

今まで楽しげだった声が一転、ドスを効かせた低いものに変わった。思わずへたり込んでしまいそうなほどの恐怖に必死で耐えられたのことが自分でも不思議なくらいだった。

[可愛い可愛い妹分からのオネダリとなったら話は別なんだわ]

…自分はどうやら眠れる獅子の尾を踏んでしまったらしい。知らなかったのだから仕方ないじゃないかという言い訳を自分の頭の中だけで吐き出せば、電話の向こうから諭すような声が耳に入ってくる。

[唐須ぅ、俺がいっつも口酸っぱくして言ってたこと、言ってみろ。忘れたとは言わせねぇぞ]
「…か、堅気には、手を出さない…」
[おう、そうだったな。…それで唐須、今目の前にいる奴らは本当にコッチ側か?]

言外に糾弾されている。もうチームを抜けて堅気に戻った飛鷹に何故手を出そうとしているのかと問われている。…もしこのまま飛鷹に喧嘩を売って怪我でも負わせてしまえば、自分に待ち構えているものはチームの掟破りをした馬鹿の烙印だ。
それを考えて絞り出した否定の言葉に満足げに笑った東雲が、飛鷹に向けて「もう良いぞ」と告げる。飛鷹から携帯を受け取った薫はスピーカーを切り、親しげにお礼の言葉を告げた。

「貴久くんありがとう。また今度連絡するね」
「なぁ薫、今のは…」
「貴久くんだよ。ほら、しののんのお兄さん」
「あっ、あの人か!」

可愛がっている妹分の兄だからと昔から目をかけてもらうこともあった円堂は懐かしさに思わず声を上げる。今のが誰か見当がついたらしい風丸も遠い目をした。
そして電話を切った彼女は、やはり笑ってはいない目を唐須たちに向けてあくまでにこやかに、しかし冷淡な口ぶりで諭すように口を開く。…それは、ある意味彼らにとっての最終通告でもあった。

「じゃあ…すみません、そろそろ退いてもらっても良いですか?」

唐須の背後にいた不良たちは一目散に逃げ出した。誰が好き好んであの人の怒りなんぞ買うか、という意思ゆえに。唐須もさすがにこれは自分に分が悪いと思ったのか、舌打ち一つこぼしてバイクで退散して行った。それを見送った彼女は満足げに微笑むとバスの方に向き直る。

「よし、行こっか。早く行かないと試合に間に合わなくなっちゃうからね」
「お、おう…」

誰もが引きつった顔でバスに乗り込む。…しかしそこで、最後にバスに乗り込もうとした飛鷹を引き止める声が聞こえた。振り向けばそこに居たのは、自分を慕う後輩たちの姿がある。その中心にいた鈴目はたしか、唐須によってチームを追い出されたはずだった。

「飛鷹さん!」
「鈴目、お前無事だったのか…!」
「飛鷹さん、唐須のことは俺たちが何とかします!もうアイツらの好き勝手にはさせません!」
「貴久さんも仲介に入ってくれるって言ってくれたんです。だから、飛鷹さんはサッカーだけを見てください!」

それを聞いて飛鷹は目を見開いた。その言葉を噛み締めるように俯いたかと思うと、しかし上げた顔には決意が宿っていた。自分の都合で散々振り回した後輩たちの、気合いに応えなければならないと思ったから。
バスは再び走り出した。背後にはこちらへ懸命に手を振る後輩たちの姿がある。飛鷹はその姿を焼きつけるように見つめ続けた。その姿が自分の視界から消えてしまうそのときまで、ずっと。





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