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豪炎寺くんとの出会いを今でも覚えている。
思い出すのは四月、私服に身を包んだ迷子の君を私が見つけて声をかけたのが始まりだった。転校生として雷門中にやってきた君は、サッカーに対して決して軽くはない事情を抱えていて、本当はサッカーをやりたくて堪らなかったくせに守の勧誘を断り続けて。
夕香ちゃんのことがあったことを知っている。
君が誰よりも自分自身を責めていたことも知っていた。
でもね、私はそれでもあの練習試合の日、絶望に暮れていた私の心を救ってくれた君が誰よりもヒーローに見えたんだよ。

『…任せろ』

私に出来なかったことを、君はいとも簡単にやってのけた。潰れそうだった心を救い上げてくれた。…そしてそれは、君が正式にサッカー部に入部してからもずっと。
チームのエースストライカーとして、十番を背負ってコートを駆ける君を見るたびに安心した。豪炎寺くんが居るなら大丈夫だと、無条件に信じていられた。

『頼ってくれ』

エイリア学園との戦いに明け暮れていたあの頃、病院の帰りに君がくれたその言葉がどれだけ私の不安な心に光をくれたかなんて、きっと君は知らない。守と風丸くん以外に心の拠り所を知らなかった私にとって、別の誰かに手を伸ばすだなんて考えられなかった。
他の誰かにだって弱音を吐いて良いんだと。そう教えてくれたのは、豪炎寺くんだった。

『______薫!!!!!』

たくさん救ってもらった。この命さえも君が引きずり上げてくれた。瓦礫の降る中、自分の危険さえ顧みずに手を伸ばしてくれた君にはきっと、返しても返しきれない恩がある。
そしてそのときだった。少しずつ君に傾いていたこの心が、完全に君だけを向いて花開いたのは。

『お前が無事なら、それで良い』

豪炎寺くんのことが好きだ。誰よりも好きで、きっとこれから先これ以上に好きになれる人なんて居ないと言えるほどに心から好きなのだ。
たとえ君に好きな人が居ても。この恋が報われることなんて絶対に無くても。君に心を許したことを後悔しない。そんな恋だった。
誰よりも幸せになって欲しい。私はもう、君にたくさんもらったから。十分だから。満足だから。

『お前には関係無い!』

私じゃ豪炎寺くんを救えない。助けることすら出来ない。だって私たちは所詮友達止まりで、この気持ちだって一方通行の身勝手なものだ。君に相応しく無いこの心を、私は誰かに知られてしまうことを恐れている。
誰よりも、豪炎寺くんに失望されることを怖がっていた。

『お前は、豪炎寺のことが好きなんだな』

そうだよ、ずっと好き。これから先、たとえ手の届かない存在になってしまったとしても好きだ。
だからどうか、せめて幸せになって。君が君の好きな人と結ばれて、君の描く理想の未来を歩んで、そうしていつか、私みたいな女も居たなと思い出にして。
記憶の中だけで良い。君の頭の中の記憶の片隅で良いから、私に居場所をちょうだい。…私が自分自身に望むのはたったのそれだけだよ。

「タイガー…!」
「ストーム!!」

だから私は、一人泣いた。感極まっているのだと勘違いして肩を貸してくれる士郎くんにしがみついて泣いていた。何かに吹っ切れたような顔で、世界進出を決めたシュートを撃ち放った豪炎寺くんの悔いのないサッカーを見られたことが嬉しくて。これで終わってしまうことが悲しくて。何も出来ないまま、泣き噦ることしか出来ない自分が恨めしくて。

「薫ちゃん世界だよ!…薫ちゃん…?」

世界に行けることはとても嬉しくて、けれど同時にやってくる豪炎寺くんとの別れが嫌で仕方ない。そのことを士郎くんにも話すことは出来なくて、狼狽えたような心配そうな声で名前を呼ばれるけれど、私はそれを黙殺したまま。
このみっともない顔を伏せて、静かに嗚咽をこぼしていた。





「世界大会進出おめでとう!乾杯!!」
「乾杯!」

その日の夜は監督から許可をもらい、みんなで祝勝パーティーを開いた。いつもならバランス重視でなかなか作れないみんなの好物もふんだんに作って並べれば、みんなも嬉しそうに歓喜の声をあげる。守の乾杯の音頭で始まったパーティーはとても明るくて騒がしかったけれど、今日だけは無礼講だとみんな楽しそうだ。
ちなみに監督は「ハメを外しすぎるな」と釘だけ刺して自室に戻ってしまった。後から響木監督のところに行くから夕飯もいらないらしい。…そしてそんな監督に、私はとても嬉しい知らせを聞かされることになった。

『…豪炎寺くんが…!?』
『父親から正式に許しを得たそうだ。豪炎寺も世界大会には同行する』

あの韓国戦を見た豪炎寺くんのお父さんはどうやら、豪炎寺くんのプレーを見て考えを変えたらしい。生き生きとプレーする豪炎寺くんが何処に居た方が幸せなのかを考えてくれたのだという。そう聞いたとき、私は嬉しくてたまらなくて思わず監督の部屋なのにまた泣いてしまった。…珍しく監督が狼狽えていたのは面白かったけど。

「薫ちゃん、そっちにコーラあるかな」
「うん、あるよ。今持ってくるね」
「ごめんね…」
「いいよいいよ、士郎くんは座っててね」

…そして士郎くんはあの後すぐ病院に直行したのだけれど、残念ながら痛めた足は少し治るのに時間を要するようだった。緑川くんも然り。このまま酷使し続ければ完全に痛めて選手生命にも及ぶと聞いた。その結果、二人は残念ながら離脱。代わりの選手を選ぶと監督は言っていたけれど、私は悲しくて仕方なかった。そんな二人も承知の上らしい。二人が納得の上なら、まだマシなのだろうか。

「あれっ!?もうお菓子が無いっス!!」
「えー、マジかよ」
「あ、それなら差し入れでもらったのがたくさんあるから取ってくるよ。でも食べ過ぎないでね」
「はいっス!」

壁山くんや木暮くんが、既に無くなりつつあったお菓子の山に悲しそうな声を上げているのを聞いて私は思わず口を出す。みんなに差し入れだ、と塔子ちゃんをはじめとした他の人たちからたくさん差し入れをもらっているのだ。いつもは栄養を考えてあまり食べさせないのだけれど、今日くらいは目を瞑ろう。みんな頑張ってたしね。

「えっと…たしかここに…」
「薫」

廊下に置いてあった段ボールの山の前にしゃがみ込みいくつかお菓子を見繕っていれば、ふと後ろから声をかけられて胸が跳ねる。ゆっくりと振り返ればそこには予想通り豪炎寺くんが立っていた。昨日のこともあり少し気まずくて目を逸らしながら立ち上がれば、豪炎寺くんは静かに口を開く。

「少し、話をしないか」
「…うん」

壁山くんたちにお菓子を渡して、自分の飲み物を入れておいた紙コップを手に廊下へと出る。秋ちゃんたちからは不思議そうな顔で見られたものの、私は曖昧に笑って誤魔化した。別に報告するようなことじゃないしね。そしてそんな豪炎寺くんの少し後ろを歩いてついて行けば、たどり着いたのは人気の無い合宿所の玄関口だった。数段の低い階段の砂埃を二人分はらってくれた豪炎寺くんが座り込んだ横に、お礼を言いながら少しだけ離れて私も腰を下ろす。

「…昨日は、悪かった。お前を突き放すような言い方をした」
「そ、れは…私だって、踏み込み過ぎたのが、悪かったし」

ぽつりとこぼした豪炎寺くんの謝罪に、私は狼狽えながらも言葉を探す。それは豪炎寺くんは何も悪く無い。たしかに私はあの時、豪炎寺くんがとっくに決意したことへ安易に踏み込むべきじゃなかった。だってそれは、きっと悩みに悩み抜いたのであろう豪炎寺くん自身を侮辱することと同じだったから。

「父さんにもいろいろ聞いた。…お前が、俺のことで怒ってくれたことも」
「…ごめんね、自分勝手なことして」
「謝るな。…俺は嬉しかったんだ」

優しい顔で可笑しそうに小さく笑った豪炎寺くんの顔に、思わず胸が締め付けられる。私のちっぽけな足掻きが少しでも君の役に立てたのかもしれないだなんて、嬉しく思ってしまった。…だから、少しだけ本音を漏らしてしまう。友達として可笑しくは無い私なりの本音を。

「…少しだけ、寂しかったかなぁ。豪炎寺くんに『お前には関係ない』って言われたとき、ああ確かにって納得できちゃったことが、嫌だった」

たとえ私がこのままずっと豪炎寺くんの友達であったとしても、所詮は友達止まりの人間に、彼の世界に踏み込むことは許されない。豪炎寺くんにとって特別な人間でなくちゃ、その絶望も苦しみも分かち合うことが出来ない。
友達という関係性に限界があるなんて知らなかった。友達だからこそ出来ることがあり、出来ないことだってあるのだと、私はあのとき初めて思い知って愕然としたのだ。

「…もし、俺が」
「…?」

しかしそこで、何故か歯切れ悪く豪炎寺くんが何かを言いかける。何を言いたいのだろうと思わず首を傾げて、けれど豪炎寺くんは少しだけ躊躇った後に、恐る恐る小さな声で囁くようにその言葉を吐き出した。


「お前を大事に思っているからこそ、言いたくなかったんだと言ったら。…お前は、怒るか」


…思わず息が詰まった。一瞬言葉の意味が理解できず頭が真っ白になるものの、じわじわと浸透するようにして私の心を温かい何かで染め上げたその言葉に、泣きそうになるのを耐えて首を横に振る。怒る訳なんて、無い。あるわけが無い。
そんな私を見て豪炎寺くんは少しだけ可笑しそうに笑った。優しい目をしていた。…私の、好きな目だった。

「円堂には話せた。…だが、お前に話せば、きっとお前は泣くんだろうと思ったら。…どうにも、言い出せなかったんだ」

…ああ、やっぱり優しいね、豪炎寺くんは。たしかにきっと私は、君の口から「サッカーを辞める」なんて言葉を聞いてしまってたりなんかしたら泣いていたに違いないのだ。
だって君は、私にとってのヒーローだから。
どんな絶望だって乗り越えて助けてくれた、君のプレーに私は何度も救われてきたのだから。
だからこそ君がまたこれから先サッカーを続けられると聞いて、私はとても嬉しいと思う。たとえ私の望む形で無くても、豪炎寺くんにとって私は特別に思われていることも知れた。…それならもう、それで十分じゃないか。
多くを望まなくたって、きっと私はこれだけで幸せなのだから。

「…ありがとう、豪炎寺くん」

ねぇ、君を愛おしく思うよ。たとえこの恋が叶わなくてもその言葉をもらえただけで、私は世界で一番幸せな恋を出来たのではないかと自惚れるくらい嬉しかった。君にとっては友達でしかないはずの私に贈られたその言葉は、私にとって一生忘れられない大切な宝物になるのだろう。そしてこの言葉を思い出す度に、私はきっとそんな君に何度でも恋をするのに違いなかった。…あぁ、やっぱり。

やっぱり私、豪炎寺くんのこと、好きだなぁ。













「__あぁ、ありがとな」


…何故か隣から返ってきた返事に、たっぷり五秒間思考停止した後に思わず変な声を上げてしまう。どうして今、豪炎寺くんから返事が返ってきたの。今の言葉を、もしかして私は口にしていたのだろうか。心から漏れ出た本音でしかない告白まがいの言葉を、よりにもよって一番伝えたくなかったはずの彼の前で吐き出してしまったのか。…そんなの、駄目だ。

「…き、こえ、てた…?いま私、口に、出てた…?」

羞恥で顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。気持ちが悪いほど頭がパニックになって焦りのあまり、言葉ですら覚束なくなってしまっていた。
バレちゃいけないのに。豪炎寺くんとは、友達でいなくちゃいけないのに。
ああ、どうしてこう私はいつも肝心な時に上手くいかないんだろう。

「…?あぁ、だからありがとう、と…」

私の可笑しな様子に疑問を抱いたらしい豪炎寺くんが私の方に顔を向けて、驚愕したように目を見開く。きっと今、私は酷い顔をしていた。こんな夜の闇の中でも顔はきっと真っ赤に染まっていて、瞳は薄らと張り始めた涙で視界はぼやけてしまっている。その全てを見られたくなくて、腕で庇うように顔を覆った。…逃げ出したい。今すぐ何もかもを放り出して君の前から消えてしまいたくなる。
だって、このままじゃ全部終わってしまう。ほろりと思わず溢れてしまった言葉のせいで我慢の効かなくなった私の感情は、殺してくれるなと暴れ出して、もう私の中に収まってはくれないようだったから。

「…なぁ」

豪炎寺くんの手が私の腕に触れる。私の顔を窺おうとやや強く力を込められた手に、ただただ焦りと絶望を感じた。…どうか、見ないでほしい。君を好きだと叫んでやまない心を映した、こんな酷い顔を暴かないで。終わりたくないの。君からの信用も、友達という立場も何もかも、失いたくないから。…だから。


「今のは」


お願いだから私を見ないで、豪炎寺くん。





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