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『…それと、彼女にもお礼を言っておきなさい』
『…彼女…?』

父である勝也からサッカーを続けても良いという許しを得たとき、最後に彼は豪炎寺に向けてそう告げた。一瞬誰のことか分からなかったものの、勝也がチラリと目線を向けた先、吹雪にしがみついて泣いている薫の姿を見て目を見開いた。

『昨夜、彼女が家に訪ねてきて試合を観に来るように言ってくれた』

…昨夜、と言われて思い出したのは昨日の夕方のこと。サッカーが明日で終わってしまうことへの苛立ちも相まって手酷く振り払ってしまった彼女の手の感触を思い出して思わず俯いた。…あの傷ついた表情が頭から離れない。
彼女はどうやら自分の一方的な拒絶の後、わざわざ勝也の元を訪れて直談判してくれたらしい。勝也には試合を見届ける義務がある、と説かれてショックを受けたそうだ。

『良い友人を持ったな。大事にしなさい』
『…はい』

友人、という言葉を聞いて胸をチクリと刺されたものの、決して間違ってはいない自分らの関係性に思わず苦く笑った。…彼女には想い人がいる。それは自分の知っている人かもしれないし、知らない人かもしれない。…少なくとも、自分じゃ無いことは分かっていた。

『ずっと仲の良い友達でいようね』

そう告げたのは、他でも無い彼女自身だ。真っ直ぐに自分を見つめて放たれた残酷な言葉に、自分はこの恋が僅かな可能性も無く潰えたことを知ってしまった。…彼女が幸せならば良いと、覚悟していたはずなのに。

「やっぱり私、豪炎寺くんのこと、好きだなぁ」
「あぁ、ありがとな」

だから、彼女から柔らかな声音で呟くようにして告げられたその言葉を聞いて、ほろ苦いものを感じながらもお礼を告げる。…それに深い意味なんて無いのだということは、とうの昔に理解していた。彼女にとって自分は友人以外の何者でもなくて、だからこそこうして一番すぐ側に居られる。…だから、初めは不思議に思った。豪炎寺の返したお礼の言葉に対してたっぷり五秒間間が空いた後、素っ頓狂にひっくり返った驚愕と動揺に震える声が返ってきたことに。

「…き、こえ、てた…?いま私、口に、出てた…?」
「…?あぁ、だからありがとう、と…」

そして何故か狼狽えるような、途方に暮れたような声音でそう言うものだから、訝しげに思って隣を見る。…見た瞬間に、やはり初めは目の前の光景を理解することが出来なかった。
見えたのは、電灯があるとは言えど薄暗い夜の外でも分かるほどに真っ赤に染まった彼女の狼狽えた顔。口元を手の甲で押さえてこちらを見るその瞳は、困惑からか薄っすらと涙の幕が張って潤んでいた。
…そんな今の状況をようやく自分の頭が理解した途端、心臓がどくりと音を立てて高鳴る。早鳴り始めた鼓動が自惚れにも期待に染まっていくのが分かった。…何故彼女は、そんな顔で自分を見ているのだろう。

「…なぁ、今のは」
「ご、めん、忘れて、今の、お願いだから」
「そんなこと、無理に決まってるだろ…!」

腕までをも使って顔を覆い隠そうとするのを急いた仕草で半ば無理やり引き剥がし、目線を合わせるように両の手をその柔い頬に添えた。まるで絡まった荊を解くようにして見えた先にあった彼女の表情。今まで一度も見たことのないような初々しく真っ赤に染まり切った、どこか泣きそうなその顔を見て、思わず喉を鳴らす。…これがもしも、もしも自分の自惚れで無いのなら。その紅潮した頬と、潤んだ瞳の意味は。
その唇から取りこぼした、「好き」の意味は。

「見、ないで、豪炎寺くん」
「…悪い、それも無理だ」
「お願いだから」
「薫、俺は」
「ほ、本当は好きなんて言うつもりは無かったの!」

その言葉に、今度こそ豪炎寺はピシリと体を固まらせた。呼吸までもが詰まって、心臓が鼓動を止めてしまったのでは無いかとさえ思うほどに胸が甘く痛い。…つい今まで不確定要素であったはずの予想が現実なのだと知り、頭の中が沸騰したかのように熱くなった。
好きだと。今、彼女はそう言ったのか。友情でも人間的な意味でも無く。自分が彼女に向けるものと同じ形、同じ意味としての好きだと。

「ご、ごめん、ごめんね。言うつもりなんて、無かったのに」
「ッ…!」
「ごめんなさい…!」

逃げ去りたいのに逃げられないこの状況にとうとう耐えきれなかったのか、薫の下がり切った眉の下で潤んでいた瞳からほろりと雫が垂れた時、豪炎寺は思わず口を開いてしまっていた。
…それは、もはやその告白への返事同然とでも言えるもので。

「俺も好きだ」
「………へ」
「お前のことが、好きだ」

…あぁくそ、本当はこんな風に言うつもりでは無かったというのに。もっと良い雰囲気の中でいつか、カッコつけて精一杯感謝と共に伝えようと思っていたのに。…それもどうせ受け入れられることのない想いだと、タカを括っていた故のことだったのだが。
それなのに今、自分の心はこんなにも感動と喜びで震えている。ひた隠しにし続けていた想いが溢れて、止めどなくこぼれてしまう。

「ずっと好きだった。…お前だけが」

真っ直ぐに見つめ合う視線の先、焦がれるような熱を込めた自分の瞳に彼女は僅かに身を揺らした。そしてほんの少し目を泳がせて、目蓋を伏せて。…そうして恐る恐る再び瞳を真っ直ぐに豪炎寺に向けて、キュウと固く引き結んでいたはずの唇をゆっくりと開いた。

「…本当に…?」
「!」
「う、嘘じゃ、ないよね。同情、とか」
「…そんな疑われ方はさすがに俺も怒るぞ」
「だって、豪炎寺くんには、好きな人が居て。だから諦めなきゃって、それで」
「…何処で聞いたかは知らないが、それならお前のことだ」

添えたままの手の親指で軽く頬を撫でながら、好きだと再度囁く。これは嘘では無いと、同情なんて以ての外だと意味を込めて差し出した言葉を彼女はゆっくりと飲み込んで。…ようやくそれが事実であるのだと理解した。
そして理解してしまったら最後、胸の奥底に閉じ込めてしまったはずの願望が、欲が、はち切れたように涙と共に溢れ出して言葉になる。

「…すき」
「!」
「ご、豪炎寺くんのことが、好きだよ。ずっと友達なんてそんなの…そんなの嫌だ。…わ、私は、豪炎寺くんのことが好きだもん…!!」

その言葉に思わずこみ上げてきた衝動のまま、目の前の彼女を抱き寄せる。か細い悲鳴が耳朶を擽るのに微かに身をよじらせながら、細くて柔らかい華奢な身体を腕いっぱいに閉じ込めた。…愛おしい、全てが愛おしくてたまらない。
遠く遥かに咲いていて、自分の手には決して届かなかったはずの花は幻でしか無かった。
本当に欲しかったものは自分のすぐ横に。
彼女自身が自ら差し出してくれた、その掌の中にあったのだから。

「ごう、えんじ、く」
「…薫」

所在無さげに彷徨っていた彼女の手が自分の肩に触れて思わず心が跳ねる。ぐらりと頭を酩酊させるような彼女の匂いが愛おしくて、さらに抱きしめる強さを強めた。そんな腕の中の彼女に、途切れ途切れの囁くような声で名前を呼ばれて答えれば、彼女は震えた声で「あのね」と言葉を切り出した。

「…ごめん、豪炎寺くん」
「は」

…一瞬何が起こったか分からなかったのだが、肩に走った衝撃と、それによって訪れた背中のひんやりとした感触に自分が今後ろに向けて倒れ込んだのだということは理解できた。…つまり今、自分は彼女に突き飛ばされた?
思わず状況が理解できず呆然とする自分に、立ち上がった彼女は相も変わらず真っ赤な顔で頬を抑えながら軽くこちらを睨めつけて口を開く。

「こ、これ以上は、限界、だから!…だから…その…お、おやすみまた明日!!!」

そのままバタバタと走り去っていく彼女の足音が遠ざかると共に、真夜中の静けさがゆっくりと戻ってくる。虫の声が微かに聞こえるのを耳にしながら夜空を仰いでいるうちに、呆然としていた意識がハッと元に戻る。慌てて身を起こした豪炎寺は、数回瞬きをした後に思わずといった様子で口を開いた。

「………………………は?夢か?」

…思わず彼がそう呟いたのも仕方が無いと言える。しかし起き上がってすぐに彼が目にしたものは、慌てていた薫が置いていってしまったらしい紙コップの中で揺れる烏龍茶。それが確かに、つい先ほどまで自分の隣に彼女が居たことを証明していて。今のこれらが夢でも何でも無く、先ほどまでのやり取りも言葉も感触も熱も何もかもが現実であると、実感した瞬間に。
豪炎寺は思わず額を抑えて呻きながら、再び後ろの方へと倒れ込んだ。





ドタドタと騒がしい足音が駆けてきたと思った瞬間に、どんがらがっしゃんと廊下の方で何事かと思うほどの音がした。食堂に残って打ち上げの片づけをしていたらしい緑川や土方、まだ歓談中だった吹雪や基山が顔を見合わせる。代表して恐る恐る廊下を覗き込んだ緑川は、廊下に並べてあったダンボールやら差し入れのお菓子の山の中に突っ込んで倒れ込んでいる薫の姿を見つけて思わずギョッとした。何をしているんだ。

「え、だ、大丈夫薫ちゃん…?」
「……だいじょうぶじゃない…」

起き上がる気力も沸かないらしい彼女に、とりあえず苦しかろうという善意でダンボールを退けてやり、体勢をうつ伏せから仰向けに変えてやっていれば何だ何だと集まってきた他三名のうちの一人である基山が、悶え苦しむように唸る彼女を落ち着かせるように口を開いた。

「どうかしたのかな」
「基山くん今すぐ私を宇宙の塵にして…」
「何て?」

顔を両手で覆ったまま絞り出すようにそう告げた薫に思わず耳を疑う。いつも朗らかで明るい彼女が、世界大会進出というめでたい日に何故このような後ろ向きな発言をしているのか。その場にいた全員は思わず困惑した。
しかし、いまいちその理由が分からない。彼女から訳を聞こうにも、話すどころか死にそうな声で消えたい消えたいと呟き続けるものだから、その場の全員がどうにもならないと手を上げた。ちなみに吹雪は困り顔なもののその目は笑っていない。むしろ目の前の彼女を追い詰めた要因への殺意を抱いているようにさえ見える。

「消えたい…」
「おいおい落ち着けよ、とりあえず円堂か豪炎寺呼んできてやっから…」
「豪炎寺くんは駄目ッ!!!!!!!!」

思わず跳ね起きて土方にそう訴えた彼女の顔は、泣きそうになりながらも燃えるように赤かった。そして豪炎寺の名前で何事か思い出したのか、羞恥の滲む呻き声を上げて蹲った彼女を見て、その場の全員が大まかな事態を察する。なるほど、おめでとう。
緑川は突然のラブストーリーに思わず赤面したし、基山は思わずほっこりと微笑んだ。土方は沖縄潜伏期間中からの豪炎寺の苦悩を思い出して目頭を抑える。吹雪は天高く拳を突き上げて、声無き勝利の雄叫びをあげていた。

「もうやだあぁ…」
「…もう寝た方が良いよ」

とりあえず基山は生温い目と声で、涙声の彼女の肩を叩きながらその言葉で現場の混乱を捻じ伏せることにした。





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