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イタリア代表との試合も間近に迫ってきた。選手のやる気が満ちているのはもちろんのこと、監督の指導にも心なしか熱が入っているようにも見える。当然、それを受けて私たちの気合いも十分だ。特に最近はふゆっぺの活躍が目覚ましく、昨日なんて特製ドリンクについての相談をしてくれた。何でも、それぞれ選手に合ったドリンクを用意してみたいらしい。もちろんそれはありがたかったから了承した。

「それにしても…このラベルの絵、ふゆっぺが描いたの?」
「うん、簡単なイラストだけど…」
「全員分は大変じゃなかった?もし言ってくれたら手伝ったのに…」

私は絵は苦手だけれど、簡単なイラストくらいならできるはずだ。そう自分に言い聞かせながらふゆっぺに言えば、何故かその背後で顔を引きつらせた数名が顔を背ける。何か言いたいことでもあるのだろうか。ちなみに顔を背けたのは守、風丸くん、豪炎寺くん、鬼道くん、染岡くん、秋ちゃんの六人。その中でも訳を聞きやすそうな風丸くんをとっ捕まえて、私はその理由を尋ねてみた。風丸くんはやや言いにくそうに答える。

「ほ、ほら、薫の絵は独特だからさ…」
「独特…?そうかな、普通じゃない?」

そんなに変だろうか。何となく手元のバインダーに挟んであるメモ用紙に絵を描いてみて、私の絵がどんなものか知らないらしい興味深そうな他の面々に見せてみると、何故か途端にその顔が引きつった。微かに震える声で鬼道くんが尋ねてくる。

「…一応聞くが、ここに描かれた処刑を待つかのような絶望感漂うモンスターは…?」
「ペンギン」
「嘘だろ!!!!!」

我が友である佐久間くんがそれを聞くと、悲鳴を上げて顔を覆った。そんな声を出さなくても。可愛くない?頑張ってペンギンのふわふわ感が出るように描いたんだけども。あとペンギンのクチバシも、カッコよくなるようにちょっと鋭くしたんだよ。

「何でそんな実物を参考にしてんだよ」
「リアリティを追求して…」
「するなするなするな」
「これ以上はペンギンが可哀想だ」

それは酷い。ペンギンが可哀想とは心外だ。私だって傷つくときは傷つくんだぞ。

「じゃあ人物画…?」
「描くな」
「呪われでもしたらどうすんだよ」
「不動くん今夜サラダ増量するからね」
「ふざけんな!!」

…まぁしかし、みんなが嫌がることを無理やり強行するわけにもいかないので、ひとまずこの鬱憤は不動くんのトマト増量で手を打つことにしようじゃないか。
そしてそんなドリンクの件も良い例で、その日の夜なんて、ふゆっぺは人参が苦手な綱海くんに人参ゼリーを作ってあげたりしていた。無理やり人参そのものを食べさせるのではなく、工夫してあげる優しさも見えている。

「ふゆっぺはもしかしたら、栄養士とかそういう職業が向いてるのかもしれないね」
「栄養士…?」
「うん。というより、大まかに言うと医療系かな。手先も器用だし、優しいし、看護師さんもふゆっぺにピッタリだと思う」
「そうかな…」

私はそうだと思うな。だってふゆっぺは本当に優しいし、でもそれでいて、人のためになることはきちんと叱ってくれる人だから、医療看護系の仕事はふゆっぺの天職のように思えるのだ。逆に私は、優しさを分け与える先も量も、人によって偏ってしまうから、そういう職業は向いていないと自負しているからね。
そしてそんな次の日、やはりやる気は衰えないみんなの練習にはさらに熱が入る。声も飛び交う中で私もサポートをしながら、次の指示を聞こうとベンチを振り返れば、ふとふゆっぺが胡乱な目で守を見ていることに気がついた。そこに、何やら不安定さが見える。…私はそのとき、あの日の監督の言葉を思い出した。

『円堂、お前たちは冬花が幸せな時に一緒にいた。お前たちと居ることで、その頃の記憶が呼び起こされているのかもしれない』

…呼び起こされる記憶は、優しいだけのものじゃない。特にふゆっぺは、もしも記憶が戻ってしまったそのときには、本当のご両親を亡くしたという事実を受け止めなきゃいけなくなる。そうすれば、ふゆっぺの心が傷つくのはきっと必然だった。だから私は咄嗟にそちらへ駆け寄ると、背後からその目を悪戯のように覆ってみせる。

「だーれだ」
「!え、あ…えっと、薫、ちゃん…?」
「正解だよ」

こちらを振り返ったふゆっぺの目は、先ほどのような不安定さはもう見えなかったけれど、その顔色は少しだけ悪い。…少し、この場から遠ざけた方が良いのかもしれない。監督の方をチラリと視線で窺ってみれば、小さく頷かれた。監督もどうやらそうして欲しいらしい。

「ふゆっぺ、ちょっとあっちで休憩しよう。顔色が悪いよ」
「だ、大丈夫、少し疲れてるだけだから…」
「良いから。…ね」

少し強引にはなるが、ふゆっぺの手を取って宿泊所の方に足を向ける。心配そうな顔の秋ちゃんたちに後を任せて食堂に赴くと、ふゆっぺを椅子に座らせてから麦茶を取りに行った。二人分のコップに注いで戻り、向き合うようにして座る。

「ふゆっぺは頑張ってるからね、少しは気を抜いても良いんだよ」
「…そうかな。でも他の皆さんに比べたら…」
「比べる必要なんて無いよ。ふゆっぺは、ふゆっぺができることを精一杯してるでしょ」

無理をしないで欲しい。…そして願わくば、このまま記憶が戻らなければ良いとさえ思う。ふゆっぺを傷つけるかもしれないのなら、たとえそれが私と守との思い出さえも、永遠に封じ込めることになったとしても構わない。そんなことを、ふゆっぺが麦茶を傾けるのを見ながら考えていれば、ふとふゆっぺは顔を上げて私を見つめながら、「さっきはありがとう」と微笑む。それが何のことか分からず目を瞬かせていれば、ふゆっぺは少しだけ照れ臭そうな顔で口を開いた。

「…さっきね、ホッとしたの」
「…ホッと?」
「うん。…さっきまで、少し調子が悪くて。まるで暗闇の中に取り込まれそうになって、とても怖かったの。…でも、薫ちゃんが声をかけて手を引いてくれたとき、それが全部どこかに行っちゃった」

何だか懐かしい気持ちになったのだと。そんな風に言って笑う、ふゆっぺの今より一回りも小さかったその手を。昔は何度も引いて、一緒に公園で遊んだのだということを、ふゆっぺは今はもう知らないはずなのに。

「だからありがとう、薫ちゃん」

そんなふゆっぺの今の微笑みと昔のふゆっぺの笑顔が重なって、私の心臓を酷く締めつけた。…本当は寂しいのだと、心が叫んでいるかのようで可笑しくなる。頭は理解できていても、心は今の現状が嫌だとわがままばかりを吐き出していた。

「…どういたしまして、ふゆっぺ」

それでも、今は、こうして。
何も知らないふりで、過去の思い出も温もりも押し込めて、出会ったばかりの様子を装うことでしか、私はふゆっぺの心を守れない。





「…スペイン代表との練習試合ですか?」
「あぁ、既に約束は取り付けた」

イタリア代表戦に向けて、久遠監督は練習試合を持ち込んできた。相手は予選で日本とは当たらない、スペイン代表チーム。どうやらあちらも次の試合結果次第で本戦に上がれるかどうかが決まってくるらしく、今の調子をさらに上げていくためにと、イナズマジャパンとの練習試合を受け入れてくれたらしい。

「明日の午後から、イナズマジャパンのグラウンドですね」
「あぁ」

結構急な話だから、今からバタバタしそうだなぁと思いつつ、監督に言われた時間をメモに記していれば、ふと監督がこちらを黙って見つめているのに気がついた。何か他にあるのだろうか、とその目を見つめ返せば、監督は僅かに視線を逸らしつつ、どこか躊躇いがちに口を開いた。

「円堂、お前のできる範囲で構わない。…しばらく冬花の側に居てやってくれないか」

監督らしくないその弱ったような懇願じみた申し出を聞いて、私は思わず目を見開いたものの、迷うことなく頷いてみせた。公私混同は絶対にしない監督が、こんな様子で言っているのだ。最近ますます不安定になってきたふゆっぺのことがよほど心配なのだろう。そしてそれは、私も同じことだったから。

「分かりました」

たとえふゆっぺに私の記憶が無くても、私にとってふゆっぺはとても大切な友達なのだ。それならば私は、ふゆっぺの為にできることはなんでもしてあげたくて。
そしてそんな話をした翌日、予定通りスペイン代表との練習試合が行われた。その実力は、さすがは代表なだけあってすごく、正直予選でスペインに当たらなかったことに安堵してしまった。多分こんなこと言ったら守に怒られちゃうから言わないけども。…ただ、やはりどこか鬼道くんのプレーに焦りが見えるような、そんな気がする。前のめりのプレーが増えたというか、単独での攻撃が目立つというか。

「お前もそう思うか…」
「うん…やっぱり、総帥さんのことが気になってるのかな」
「恐らくな」

練習試合後、洗濯物を取り入れるのを手伝ってくれた佐久間くんとタオルを運びながら、鬼道くんについての相談をしてみる。佐久間くんもそのことには気がついていたらしく、どうしたものかと少し悩んでいるらしい。…どうやらイタリア代表監督になったという総帥さんのことで、やはり思うところがあるのだとか。

「佐久間くんたちがついてるから、多分大丈夫だと思うけど…鬼道くんのこと、よろしくね」
「あぁ、任せろ」

鬼道くんは頭が良いし要領も良いから、どうしても悩みを胸の中に溜め込んで、自分の力だけで解決してしまおうとするところがある。チームメイトとしてそれは推奨されるべき行為ではないと思うし、ちゃんと吐き出して相談して欲しいものだが、それはやはり鬼道くん次第になってしまうのだろう。鬼道くんのこれまでの葛藤を全部理解してあげられない私としては、ただ静かに見守るしかないというか。

「…何か、できたら良いんだけどな」
「できてるだろ」
「そう?」
「あぁ、お前、鬼道をフった後も、前と変わらず話してるだろ」
「う」
「いや、責めてるわけじゃ無い。…鬼道はそれが嬉しかったらしい」

関係性を明白に変えたくて告げた好意を受け取ってもらえずとも、私が前と同じように、変わらず鬼道くんを友人として大切にしてくれたことが嬉しかったと。鬼道くんは前に、佐久間くんへそう漏らしたことがあるらしい。

「『迷惑じゃなきゃ良かったが』とも言ってたぞ」
「迷惑なんて、そんな」

むしろ、救われたのは私の方だ。鬼道くんはあのとき、豪炎寺くんに拒絶されたものだと思い込んでいた私に、真っ先に駆け寄って心配してくれた優しい人だ。想う心を砕かれて泣いていた私に差し出すように、心を掬い上げようとしてくれたあのときの優しさに、私は確かに救われたものがあったから。

「だから私はせめて、鬼道くんの許される限りで良いから、彼を助けられる友達で居たいの」
「…ありがとな、薫」
「何で佐久間くんがお礼言うの」

何一つ可笑しなことは言っていない。だってこれは全部私の本心で、揺るぐことのない心の在り方なのだから。そしてそれは別に、鬼道くんだけに限ったことではなく、こうして奇妙な縁と共に親友になれた佐久間くんにだって、当てはまることでもあるのだ。何せ私たち、最初は敵対さえしていたのに、いつのまにかこんな親しい仲になっている。照美ちゃんも、士郎くんも、緑川くんも、みんなそれぞれ私とは違う立場に居て、事情があった。だけどこうやって友達になれたというのは、ある意味運命のようにさえ思えるのだ。

「さ、明日も練習頑張ろうね。イタリア戦はすぐそこだよ」
「あぁ」

運び終えたタオルを定位置にしまい、私もそろそろ夕飯の支度をしなければと食堂に向かう。しかし顔を出した先、そこに何故かふゆっぺの姿が見えないことに気がついて、思わず目を瞬かせた。みんなと一緒に居るものだと、思っていたのに。

「冬花さんなら円堂くんを呼びに行ったわよ」
「…守を…?」

…少しだけ、嫌な予感がする。ふゆっぺの記憶のこともあり、守とはあまり二人きりにさせたく無いのだ。今でさえふゆっぺは、練習中の守を見て何かを思い出すかのように頭を抱えている。つまり守の存在そのものが、ふゆっぺが記憶を取り戻す鍵になってしまっていた。…だからこそ、これは不味いかもしれない。私の存在も似たようなものだけれど、せめて大人数の居る場所に、連れて行かなければ。

「ごめん、秋ちゃん。ちょっと私も二人を呼びに外に出てくるね」
「薫ちゃん…?」

不思議そうな顔の秋ちゃんに説明している余裕も無く、私は足早に外へと飛び出した。たぶん、この時間帯だと守はいつもの自主練中のはずだから砂浜にいるはずだ。やや焦りながら、最後には早足が駆け足になってしまった頃、守と二人隣並ぶふゆっぺを見つけたとき、その変わりない様子に少しだけホッとした。間に合ったと。そんな安堵を覚えて、油断して。…だから。

「ふゆっぺ!」
「え、薫!?」

ふらりと揺れたふゆっぺの体を守が支えたのを見たとき、私は思わず叫んで駆け寄った。私が来たのに驚いた守が私の名前を呼んだものの、私はそれに構う余裕さえなく、ふゆっぺの顔を覗き込む。けれど視線が合っているはずのふゆっぺの目は虚空を見ていて、何事かをポツポツと呟いていた。

「そうだ…私、守くんと、薫ちゃんと遊んでた…」
「!」
「…ふゆっぺ?まさか、記憶が…!?」

守もどうやら、ふゆっぺの異変の原因に気がついたらしい。私も必死にふゆっぺの名前を呼ぶものの、私の声に気がつかないふゆっぺは、次々に記憶を取り戻していく。

「私、引っ越したんだ。それから守くんたちと会えなくなって、それから…それから…!」
「ふゆっぺ!!」

どうかそれ以上は、思い出さないで。生きることを諦めてしまうほどに傷ついた記憶なんて思い出さなくて良い。その代わり、私たちのことだって忘れたままで良いのだから。…けれどそんな願いは、叶わなかった。
全て思い出してしまったのだろう。だんだんと歪んでいく顔が絶望に染まって、まるで自分以外の全てを拒絶するかのように、私たちの体を押しやる。…そして。

「ぁ…あ…イヤァァァァァァ!!!」

悲痛な悲鳴を上げて倒れていくふゆっぺの体を、守と二人がかりで抱きとめる。半ば怒声じみた勢いで何度も、何度もふゆっぺの名前を呼んだ。何度も、呼んだのに。
ふゆっぺはもう、私たちの声に応えなかった。絶望と虚無を瞳に宿して、思い出してしまった記憶に心を砕かれながら。
ふゆっぺは、そんな記憶を拒むかのように、心を閉ざした。





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