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良いこと思いついた、と女の子が笑う。いつも一緒に遊んでいる、女の子の兄がサッカーボールに夢中なのを良いことに、内緒話の要領で声を潜めた女の子は、まだ幼い少女だった冬花にこう囁いた。
『ふゆっぺはね、しょうらい、まもるとけっこんすればいいんだよ!』
閉じ込めてしまった記憶の中。今や顔さえ思い出せないその女の子は、そう言って、無邪気に笑いながら冬花の手を取った。いいのかなぁ、なんて恥ずかしげに俯いた冬花に、少女はきょとりと目を瞬いた後、嬉しそうな顔で頷く。
『だって、そうすれば、ずっと』
…その言葉に続いたはずの声は、今もまだ思い出せないままでいた。
*
ふゆっぺが全てを思い出して、倒れた。すぐさま病院に運ばれたふゆっぺに、何度も声をかけながら私はその手を握り続けていたけれど、ふゆっぺはその手を一度も握り返してくれることなく、その瞳はずっと、やはり虚空を見つめたままで。
「監督!ふゆっぺはやっぱり、記憶が戻って…!」
「…円堂、お前たち二人が側に居れば、冬花は本当の自分を取り戻せるのでは?悲しみに耐えられるのでは?と思った…だが…」
「俺たちに何かできることは無いんですか!?」
監督はその問いに「無い」と答える。悲しみを乗り越えられるのはふゆっぺ自身のみであり、私たちにできることは何も無いのだと。
それを分かっていても、ふゆっぺに何もしてあげられない無力な自分が恨めしくて、私は唇を噛み締める。
「…私はずっと悩んできた」
だけど一番悲しいのは、辛いのは監督だ。たとえふゆっぺの命を救うためとはいえ、ふゆっぺの記憶を奪ってしまったことを、監督はこれまでずっと後悔を抱きながら苦しんできたのだろう。本当の娘では無いにしろ、それでもなお自分の娘として育ててきた。そんなふゆっぺが、こんな状態になって、監督が一番何とかしてやりたいに決まっている。
「だが、仕方ないのだ。冬花にはもう一度、新しい記憶を植えつける。催眠療法をするしか…」
「え!?それってふゆっぺが、また俺やみんなのことを、忘れてしまうってことじゃ…!」
「そ、んな…」
「…冬花を救うには、それしかない」
…また、ふゆっぺが記憶を失う。私たちのことだけじゃなくて、これまでの思い出や、イナズマジャパンのみんなのことも、忘れてしまう。そんなのは嫌だ、と叫びたいのを無理やり飲み込んだ。だってそれは、私のわがままだ。ふゆっぺが、もしも忘却を望んでいたとするのなら、私のそのわがままは、ふゆっぺを苦しめるだけのものになる。
「駄目だ!そんなの…!」
そして守も私と同じ気持ちだったらしい。どこか泣きそうな声で監督にそう訴えて、今もまだ心あらずのふゆっぺに語りかけた。
「ふゆっぺ、俺は覚えていたい。楽しいことも、辛いことも全部覚えていたい!ふゆっぺだってそうだろ…!?」
…けれど、ふゆっぺはその声に応えない。応えようとしない。応えることを期待するには、ふゆっぺはどうにも、何もかもに絶望しきっていたのだから。監督もそんな守を嗜めるように声をかける。
「…円堂、冬花にお前の声は届いていない。冬花を救うには、もう…」
しかし守は諦めなかった。ここまで持ってきてしまっていたサッカーボールをふゆっぺの左手に触れさせて、必死に諦めることなく、ふゆっぺの心に声をかける。
「サッカーボールだ。あんなにマネージャーの仕事楽しくやってただろ?サッカー好きなんだろ?」
アルゼンチン戦でみんなを叱咤したこと。
ドリンクを自分なりに考えて作っていたこと。
栄養バランスを気にかけて、独学ながらもたくさん学んでいたこと。
ふゆっぺは最初、右も左も分からないマネージャー初心者だった。けれどイナズマジャパンの一員になって、私や秋ちゃんたちと一緒に頑張るうちに、いつのまにかふゆっぺも、なくてはならない存在になっている。それが私は、自分のことのように嬉しくて仕方なかった。ふゆっぺが笑う度に、守と並んでいる度に、私の名前を呼んでくれる度に。昔、三人で公園を駆け回った幼い日々を何度も思い出した。失われてしまった時間が蘇ったんだと、一人密かに懐かしい気持ちになって。
「…東京の先生に、連絡を取る」
「…待って、ください」
守の呼びかけにそれでも応えないふゆっぺを見て、監督が携帯を取り出したのを思わず止める。…さっきも言った通り、これは私のわがままに過ぎない。記憶を失わせないということは、ふゆっぺに辛い過去を背負わせ続けるのと同義だ。だけど。
「ふゆっぺに、これ以上何も、忘れてほしくないんです。だって笑ってました。ふゆっぺは、いつも楽しそうにしてました」
小さい頃も今も。ふゆっぺの笑顔は何も変わっていなかった。みんなに囲まれながら浮かべていた笑顔は、私たちが幼い頃に手を繋ぎながら遊んでいたあの頃と一緒のまま、無邪気なままだったのだ。そんな風に笑えるふゆっぺの笑顔を、記憶を、私は失って欲しくない。だって守の言う通りなのだ。
記憶は時に辛いものもあって、それはきっとこの先何度でも自分の心を傷つける。けれどそれ以上に楽しい記憶は、そんな心を幾度となく救い上げてくれるはずなのだから。
「悲しい記憶に潰されそうなら、私たちがみんなで助けます。何をしたって助けてみせます。ふゆっぺに、今までの思い出を失ってほしく無いんです」
そう言って守を見れば、守も真剣な顔で頷き返してくれた。だって、守だって私と同じ気持ちのはずなのだ。昔一緒に遊んでいた女の子が過去の記憶に苦しみ、私たちとの間に確かに有ったはずの思い出までをも失っていて。そして再びその記憶に苦しみながら、今の幸せな記憶さえも失おうとしている。そんなの、見逃せるはずが無いのだ。
私は握ったままのふゆっぺの手を、自分の額に押し当て、絞り出すように呟く。滲み出た涙はやがて、私自身の頬を滑ってベッドの上にシミを描いた。
「ふゆっぺは、弱くない。過去だって乗り越えられる。…一緒に、乗り越えようよ。絶対に、この手は離さないから」
「ふゆっぺ、サッカーってさ、楽しいことばかりじゃない。辛いこともたくさんある。でも……でもそれを一緒に頑張って乗り越えていくのが、仲間なんだ!言っただろ、ふゆっぺは、今もこれからも、俺たちの大切な仲間だ…!」
気づけば守も泣いていた。私と一緒にふゆっぺの手を握って、心を閉ざしたふゆっぺに必死になって呼びかけていた。けれど、久遠監督はそんな私たちを痛ましげに見つめて、電話をかけ始めた。もう、私たちじゃどうすることもできないのだと言われているようで、思わず目を伏せた。…そのときだった。
「な、かま…?」
微かにふゆっぺの声がして、顔を上げた。するとそこには、先ほどまで闇ばかりを映していたはずの目に光を宿して、静かに泣いているふゆっぺが居た。守と二人で絶句していれば、ふゆっぺは再度、守の言葉を繰り返す。
「なか、ま…」
「ふゆっぺ」
そしてふゆっぺは勢いよく跳ね起きると、東京に居るという催眠療法を行う先生に電話をかけていた久遠監督の、手首を掴んで引き留めた。監督が何をしようとしているのか、ふゆっぺは分かっていたのだろう。悲痛な顔で監督に向けて訴えるように口を開く。
「やめて、私、忘れたくない」
「冬花…」
「すごく悲しくて、辛くて、苦しいことを思い出したけど…でも、もう忘れたくないの…!守くんたちや、大切な仲間たちのことを」
…ふゆっぺがそう言ってくれたとき、私は愚かにも嬉しいと思ってしまった。これは、ふゆっぺが一番苦しむ選択だ。過去を抱えて生きていくということは、両親が死んだことを忘れないということと、同義なのだから。そして監督も、ふゆっぺの決意であろうとそれを許すのには抵抗があるらしい。ふゆっぺを嗜めるようにして顔を覗き込む。
「私は、お前が心配なんだ」
「大丈夫。お父さんが、守くんが、薫ちゃんが、みんなが、仲間がいるから」
それを聞いて思わず握り締めてしまった手を、ふゆっぺはこちらに微笑みながら、優しくも確かに握り返してくれた。その強さに、迷いも苦しみも、何もかもが存在していなくて。それがちゃんと、ふゆっぺの心の底からの決意なのだということがよく分かった。
「…私分かってた。いつも、気にかけてくれていたこと。心が強くなるように育ててくれたこと。何があっても良いように、見守っていてくれたこと」
ふゆっぺはもう、目の前にいる人が本当の父親ではないことを知っている。それでもなお、ふゆっぺは監督に向けて笑った。まるで本当の父親に向けるかのような声で、表情で、監督を見つめていた。
「ずっと私を守ってくれてありがとう、お父さん」
「…冬花」
監督の首筋に縋りつくようにして抱きついたふゆっぺを、監督は少しだけ呆然とした後、優しい顔で抱き締め返した。その様子を見て私と守は、二人して顔を合わせて、思わず声も無しに笑ってしまったのだ。
*
夢を、見たの。
それはずっと昔の出来事で、私がずっと閉じ込めていた優しい記憶。まだ私と同じくらい幼い姿の守くんは、向こうで一人サッカーボールを蹴っていて、薫ちゃんは私と一緒にブランコに乗ってた。でもそのときの私は、浮かない顔をしていて。薫ちゃんの顔も、少しだけ泣きそうな、悲しそうな顔をしていた。いつもは楽しくお喋りできていたのに、その日だけは特別で。
『パパとママがね、おひっこしするって』
『…ばいばいするの?』
ほんの子供の私は、たとえそれが悲しいお別れであっても、受け入れなければいけなかった。お父さんの仕事の都合で、この街から引っ越すことになった私はその日、二人にお別れを言いに来ていたの。でもなかなか、そのことを言い出せなくて。それを悟ってくれた薫ちゃんが、「女の子のナイショ話だから」って守くんを向こうに追いやって、私の話を聞いてくれた。
『ふゆっぺは、だいじょうぶだよ。むこうでもきっと、おともだちたくさんできるよ』
『…でも』
私が怖かったのは、何も新しい土地に行くことだけじゃなかった。それが恐ろしいと思うのも理由の一つだったけれど、それ以上に、私が怖くて恐ろしくて、泣きたくなった理由は。
『わたし、ふたりとおわかれしたくない』
引っ込み思案だった私の手を引いて、何度も遊びに誘ってくれた優しい二人。そんな二人とお別れして知らない土地に行くのが、あのときの私は怖くて仕方がなかったの。二人という、温かい居場所を失う恐怖に、私は何度も怯え震えた。…けれど薫ちゃんは、そんな私に思案顔になって、やがて思いついたように顔を上げると、私に向けて首を傾げた。
『…ふゆっぺは、まもるのこと、すき?』
『…うん』
『わたしは?』
『すき、だよ』
そう答えれば、薫ちゃんは嬉しそうに笑った。そして私の隣で揺らしていたブランコから飛び降りて、私の手を取り無邪気に笑う。
『じゃあね、ふゆっぺはね、しょうらい、まもるとけっこんすればいいんだよ!』
今ならこんなにも鮮やかに思い出せる。どうして忘れていられたんだろうと不思議になるくらい、それは鮮明に私の心に突き刺さって、離れてはくれなかった。
『だって、そうすれば、ずっと』
当たり前のような顔で、声で、未来を約束しようとしてくれる薫ちゃんが眩しかった。また三人で過ごす日々が訪れるのだと信じて疑わない、その純粋に輝いた瞳が嬉しかった。
『ずっといっしょに、いられるでしょ』
その言葉が、笑顔が、あの頃の私にとっての希望になった。
だから、あのとき。守くんと二人で私に告げてくれた言葉に引き戻されて、私が絶望の淵から帰ることのできたあのとき。薫ちゃんに対して何度も何度も既視感を覚えたあの感覚に、私は妙な納得を覚えたの。
私が戻ってくると信じて、仲間たちとみんなで生きる道を選ぶのだと疑わない彼女の、手の温もりに、懐かしさと泣きたくなるような安堵を覚えたのは、きっと。
『あーそーぼ!』
そう言って、何度も。かつて一人縮こまっていた女の子の手を、光の方へ引いてくれたあの手を、無意識のうちきでも覚えていたからなのかもしれない。悲しいときも、辛いときだって、私の側に居て寄り添ってくれた彼女に、何度も救われた心があったから。
だからそう思ったのはきっと、間違いじゃないと、そう思ったの。