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ふゆっぺが正気を取り戻したことにようやく安堵して、私と守はふゆっぺを監督に任せて一度合宿所に帰った。他のみんなも、いきなり倒れたふゆっぺのことを心配していたらしく、私たちは質問責めにあったものの、ふゆっぺの過去のことは誤魔化し、一先ず大丈夫なことを伝えれば、みんなも安心していた。ふゆっぺの記憶のことは、あとできっと監督や本人からの説明があるだろうし、私が余計なことを話して混乱させるのは避けたいしね。

「守は、明日の朝にまたふゆっぺのところに行くんでしょ?」
「あぁ。…あれ、薫は行かないのか?」
「私は仕事をしなきゃ。ふゆっぺの分まで、支えられるように頑張るの」
「そっか!」

ふゆっぺが生気を取り戻したことで、監督が危惧していた危機は過ぎ去ったのだし、ふゆっぺもすぐにここへ帰ってくるに違いない。でもやっぱりすぐに本調子という訳にもいかないだろうから、その分私も手助けがしたいのだ。守も私のその決意を聞いて「何かできないかな」と頭をかいていたが、守には当然守にしかできない仕事がある。

「守の仕事は、チームを引っ張って優勝を目指すことでしょ」
「…そうか、そうだよな!」

明日も頑張るぜ!と威勢よく拳を突き上げながら部屋へと向かっていく守を見送りながら、私も小さく微笑んだ。そうだよ、守には今まで通り、いやそれ以上に頑張ってもらいたい。きっとそんな守の一生懸命な姿がふゆっぺを元気付けてくれるし、みんなの闘志も奮い立たせてくれる。…そしてそれは、このチームの中でも守にしかできないことだから。

「薫ちゃん、あとは私たちに任せてもう休んで」
「え」
「そうですよ!薫先輩、今日は一日バタバタしてたんですし」
「…じゃあ、お言葉に甘えようかな」

夕飯後に回収した食器を洗っていれば、秋ちゃんからは右手のスポンジを。春奈ちゃんからは左手に持っていた洗いかけの食器を奪われてしまった。バタバタしていたと言っても、ふゆっぺの病院に付き添っていただけだし、私が戻るまで仕事を回してくれていた二人の方が疲れているとは思うんだけど、二人があまりにも強く勧めてくるので、私はその言葉に大人しく従うことにした。
申し訳ないながらも二人に後を任せ、私は自分の部屋に戻る。そして手早くお風呂を済ませて就寝の準備をしていれば、誰かが外から戸を叩く音がした。返事をすれば、中に入ってきたのは。

「…豪炎寺くん?」
「…悪いな、寝る前に」
「ううん、どうかした?」

座っていたベッドサイドから少しずれ、豪炎寺くんが座れるスペースを開けて横を叩けば、豪炎寺くんは少し遠慮がちになりながらも、私の隣に腰を下ろした。まだ就寝前とはいえど、明日も練習なのだし早めに切り上げてもらおう。そう思いながら用件を問えば、豪炎寺くんは僅かに躊躇いながら、私の顔を覗き込んで口を開いた。

「…大丈夫か」
「…え?」

その問いの意味が分からず、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。豪炎寺くんは、いったい何のことを言っているのだろうか。そしてその言い方じゃまるで、私が大丈夫じゃなさそうに見えたように聞こえる。思い当たることがなく、戸惑いながら首を傾げれていれば、豪炎寺くんは小さく顔を顰め、私の頬を指の背でそっとなぞる。労わるようなその仕草と共に、豪炎寺くんはもう一度「大丈夫か」と繰り返した。

「酷い顔をしてるぞ。…自覚無いのか?」
「…そう、かな」

反射的に自分の頬に手を添えてみる。けれど、鏡もないここじゃ自分がどんな顔をしているのかさえ分からなくて、とりあえず曖昧に笑ってみた。それを見て豪炎寺くんはさらに眉を潜める。どうやら、彼の目から見た私は、相当に参っているらしい。しかしそう見える理由が分からなくて、思わず考え込んでいれば、ふと、今ここには居ないあの子の、あのときの涙を思い出した。

『やめて、私、忘れたくない』

必死な顔で、そう言って監督の袖を引いていたふゆっぺの言葉を聞いて、あのときの私は、何を思ったのだったっけ。
辛い過去を背負って、この先の未来を生きていきたいと訴えたあの子を見て、私の心は何を感じたの。

「…わたし」
「…」
「わたし、うれしかったのかな」

ふゆっぺに、ちゃんと思い出してもらえたことが、私はきっと泣きたいくらいに嬉しかったのかもしれない。「ふゆっぺのためになるのなら、忘れたままでも良い」だなんて強がりを吐いても、心の内でたしかに生まれていた寂しさを見て見ぬふりしていても。それでもきっとあのとき、私はふゆっぺが、私たちの思い出も含めた過去を抱えて生きていくと、そう決めてくれたことが嬉しくてたまらなかったのかもしれない。
そして、表面ではふゆっぺの記憶が戻らない方が良いだなんて口にしていたくせに、本音ではそんなことを望んでしまっていたことに気がついて、自分本意で最低な自分がいたことに愕然とした。あまりの勝手さに、涙が溢れてくる。

「薫」
「ごめん、ね、すこしだけで、いいから」

この情けない涙を、他でも無い君にだけは見られたくなくて。それでも今、私の中で痛いほどに疼く心が千切れてしまわないように、私の側に居て欲しくて。私は咄嗟に顔を隠すために、豪炎寺くんの体を半ば押し倒すようにしてその背中に腕を回して、胸元に額を押し付けた。それに逆らわず、押されるがままに半分ベッドへ体を倒した豪炎寺くんは、突然の私の行動に戸惑いながらも、やがて私の頭を抱え込むようにして抱き締めてくれた。

「…お前が、いったい何のことで泣いているかは知らないが」
「…」
「こんなときくらいは、甘えてくれて良い」
「…うん」

こんなとき、だなんてそんなこと無い。私はいつも君の存在に甘やかされてばかりいるのだから。自分の弱く情けない愚かさを垣間見て、こうして泣くことしかできない今も、黙って私の涙を受け止めてくれる。そんな風に、君はいつだって溺れそうなくらいに優しいから。その度に私は、こんなにも、何度も君を好きになってしまう。
…でもそれを口にするのは、少し負けたような気分になりそうだったから。私は、豪炎寺くんへの感謝と僅かな意趣返しを込めて、抱き締めている腕の力を少しだけ強めてみせた。





さて、そういえば今のイナズマジャパンの戦績ではあるが、実はアルゼンチンに敗北こそしたものの、グループ内では二位という成績に落ち着いている。他の試合での勝ち負けが割と拮抗しているせいだ。現在首位のイタリア代表でさえ、一度は引き分けに持ち込まれているのだから、やはり世界のレベルは甘くないと言える。
そしてそんな中、イギリス代表のみが全試合を消化し、残すところは各チームが一試合ずつ。日本とイタリア、アメリカとアルゼンチンの組み合わせだ。

「…今のところイナズマジャパンは二位ですけど、最後の試合でユニコーンがアルゼンチン代表ジ・エンパイアに勝てば、勝ち点三が加わってユニコーンの勝ち点は七。もし私たちが明日のオルフェウス戦に負ければ、イナズマジャパンの勝ち点は六のままで、ユニコーンに逆転されて決勝トーナメントには進めず…」
「引き分けでも、勝ち点がユニコーンと並んで得失点差になり、やっぱりトーナメントには進めない」

手っ取り早い方法としては、アメリカがアルゼンチンに負けるという結果で終わることなのだが、土門くんたちも居る以上、そんな最低なことは望みたくない。それなら正々堂々と、誰に恥じること無い気持ちで決勝に進むためには、やはりイタリア代表に勝つしかないのだ。

「よし!みんな、オルフェウス戦に向けて練習、練習!」
「おう!」

守の言葉でミーティングは締められ、みんなも意気揚々とグラウンドへ向かう中、ふと浮かない顔をした鬼道くんに気がつく。…やっぱり、明日の試合のことで思うことがあるのだろうか。誰も気がついていないみたいだし、後で佐久間くんと不動くんには話しておこう。あの三人は割と連携も多いし、気にかけてもらっていた方が良いかもしれない。

「…あれ、ふゆっぺは?」
「古株さんに用があるんですって。もう外に出てると思うわ」
「そっか…」

…駄目だな。少し姿が見えないだけで心配になるだなんて、保護者でもあるまいし。ふゆっぺも全快して、前よりマネージャーの仕事も楽しそうにしている。心配することも、気にかけすぎる必要も無いってついこの前安心したばかりなのに。
そんなことを思いつつ、一つだけため息をついて私もグラウンドへ向かう。古株さんへの用件が終わったらしいふゆっぺとも合流した。個人的に頼み事をしていたらしい。不確定要素だからまだ詳しいことは話さないみたいだけれど…それはどうやら、お祖父ちゃんに関係あることだそうだ。

『あのな、薫、実は』

ふゆっぺが記憶を取り戻した次の日、ふゆっぺのお見舞いから帰ってきた守に、私はお祖父ちゃんの生存がほぼ確実であることを知らされた。ふゆっぺのお父さんが、お祖父ちゃんを総帥さんの魔の手から逃してくれたらしい。もともとふゆっぺのお父さんは、総帥さんの部下であったらしく、しかし総帥さんのやり方に疑問を抱いて、命を狙われたお祖父ちゃんの逃亡に手を貸したのだとか。

『だから、あの手紙はやっぱりじいちゃんからだったんだよ!』

…アジア予選の決勝前、差出人不明で私たち宛てに届いた手紙。「頂上で待つ」とだけのそれは、死んだはずのお祖父ちゃん独特の文字で書かれていた。そのときは誰かの罠かもしれないと、話は有耶無耶になってしまったけれど、お祖父ちゃんの死に疑惑が浮かんだのはそのときだった。
そして、それらを全て調べ上げてくれたのは夏未ちゃんらしい。留学というのは名目で、本当の目的はお祖父ちゃんの身に降りかかった事件や、死の真相を明かすこと。今も詳しいことを調べ続けてくれているのだとか。

『…そっか』
『…薫は、嬉しくないのか?じいちゃんが生きてるって分かって』
『…どう、なんだろう。私にも分からないや』

お祖父ちゃんが生きていた。それはきっと本来ならば喜ばしく、身内としては諸手を挙げて喜ぶべきことなのだろう。けれどそれでも、私の心は複雑だった。円堂家において、お祖父ちゃんという存在を思う度に私が思い出すのはいつだって、サッカーを嫌悪し遠ざけるお母さんの姿だったから。
悲しむお母さんを、私は忘れられない。大切で大好きなお母さんのことなのだ。…たとえ相手が身内であっても、私は、大切な存在を悲しませた人を許せるだろうか。

「…薫ちゃん?」
「…何でも無いよ。練習に行こっか」
「うん」

ずっと黙り込んでいた私に心配そうな顔をするふゆっぺへ、私は取り繕うように笑い、グラウンドへ足を向ける。…あぁ、本当に、何もかもが煩わしくなりそうだ。
いつだって、私たちの周りには、障害や苦労が多過ぎる。私はいつだってただ純粋に、私たちのサッカーを楽しみたいだけなんだけどな。





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