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ルシェちゃんが応援席に戻り、私たちもようやく我に返って後半へのミーティングを行う。カテナチオカウンターの攻略やその他の選手への集中を途切れさせないようにという監督の指示と、それぞれ個人への細かなアドバイスを聞き終わり、後半開始までの僅かな時間を持て余していれば、ふと佐久間くんに話しかけられた。

「鬼道に、何か言ってやってくれないか」
「…私が?」
「あぁ、何でもいいんだ。激励でも、慰めでも構わない」

思わず戸惑ってしまった。だってそれなら、同じく総帥さんに因縁のある佐久間くんや不動くんの方が適任ではないだろうか。私なんかじゃ鬼道くんの葛藤も過去への苦しみも分からないのだから。…しかし佐久間くんは、だからこそ自分では駄目なのだと言った。

「影山とは何の関係も無い、お前からの方が良いんだ」
「…分かった」

お祖父ちゃんのことを考えれば私も無関係とは言えないけれど、それでも佐久間くんよりは遥かにマシなのだろう。そう思い、私は一人離れたところで無人のグラウンドを見据える鬼道くんの背後に近づいて声をかけた。

「鬼道くん」
「…なん」

なんだ、と言おうとしたらしいその言葉は振り向き様、私に指を頬へ刺されたことによって途切れてしまった。きょとり顔をしているそんな鬼道くんに私は微笑み、静かに口を開く。

「『君はただの鬼道有人でしかないよ』」
「!」
「あの言葉は嘘じゃないって、今こそ証明して欲しいな」

これは前に、総帥さんの駒として扱われ、自分の存在意義は何なのか、と苦しんでいた鬼道くんへ私が贈った言葉だった。鬼道くん自身をそっくりそのまま、ありのままの彼と仲良くなりたいと願った私の本心でもある。

「大丈夫、鬼道くんは、鬼道くんらしく走って良いんだよ」

きっとまだ、鬼道くんだって総帥さんに対して思うことがあるだろう。何せ彼のサッカーは、忌避していた総帥さんの教えそのものであり、何度も何度も総帥さんの策略に心を苦しめられてきた。それを今この試合で、すべての決着をつけようとしている。だからこそ私は彼に、何度だってこの言葉を贈るのだ。鬼道くんがいつだって、自分らしく戦えるように。

「それに、この試合がチャンスだもんね」
「…チャンス?」
「うん。師匠を超える、チャンス」
「!」

けれど私は存外、鬼道くんのプレーは嫌いじゃなかったりするのだ。敵ならば怖いけれど、味方であればこれほど心強い司令塔は居ない。そんな鬼道くんを教え導いたのは、他でもない総帥さんだった。
だからこそ今が本当の意味で鬼道くんが過去を乗り越えるチャンスなのだ。この試合に勝利し、総帥さんと、自分と良く似たプレーをするフィディオくんを超える。相手に二人揃っての対戦なんてそんな機会、この先きっと二度とないのだと思う。だから。

「がんばれ、負けるな」
「…あぁ、もちろんだ」

拳を一つ合わせて笑い合う。…大丈夫、鬼道くんは弱くない。もう前のように苦しむことだって、これから先二度と無いことを願っている。だって鬼道くんには、仲間が居るのだから。辛いときも悲しいときも、互いに支えることのできる存在が居るということ。それはきっと、鬼道くんを助けてくれる最大の力になるはずなのだ。

「…お前はずっと変わってくれるなよ」
「分からないよ、私だっていつか変わるかも」
「いや、変わらない。…お前はずっと、きっとそのままだ」

何の根拠でかは分からないが、そう言って楽しげに笑う鬼道くんに首を傾げる。けれど結局最後まで鬼道くんはその理由について教えてくれないまま、私の肩を叩いて後半戦の待つフィールドへと駆け出して行った。













「お前はずっと、これからも、誰かを心から信じることのできる、その優しい強さのままで居てくれ」

そんな彼の穏やかな言葉は、喧騒の中に溶けて届くことは無かった。





後半戦は激闘だった。オルフェウスは後半からナカタさんを投入。キャプテンマークもそれによってフィディオくんからナカタさんへと移り変わる。…そしてそんなナカタさんを加えたことによって、オルフェウスは凄まじいほどに一変してしまった。攻略できていたはずのカテナチオカウンターも、ナカタさんを組み合わせたことによって不落に返り咲き、再びイナズマジャパンを苦しめた。一時は逆転され万事休すかとも思われたものの、しかしイナズマジャパンだってただでやられてはいなかった。鬼道くんが佐久間くんと不動くんと共に三人がかりでカテナチオカウンターを突破し、皇帝ペンギン三号で同点に追いついたのだ。

『もう一度突き放す!』
『決勝点を取る!』

お互いが必死だった。勝利を掴まんと、一生懸命ぶつかり合いながらゴールを狙った。…それでも試合の終わりはやってくる。最後は鬼道くんとフィディオくんの一騎打ち。しかし結局その勝負はつかないまま、高く空に跳ね上がったボールを嘲笑うかのように、試合終了のホイッスルは鳴り響いた。…同点決着。それはつまり、私たちイナズマジャパンが決勝に進むための決定的な勝ち点を逃すことになってしまったということだった。

「…皆さん、まだ予選通過できないって決まったわけではありませんよ」

目金くんはそう言ったけれど、それはつまり他のチームの負けを期待していると言っているのと同義だった。案の定その言葉に染岡くんが憤ったものの、私はそれを嗜める。…けれど染岡くんの言いたいことも、目金くんの言いたいことも分かる。私だって他のチームの負けを願いたくは無い。それでも私たちが決勝トーナメントへと進むためには、得失点差で戦えない以上、他のチームの敗北か引き分けが必須になってくるのだ。

「胸を、張ろうぜみんな!」

けれど、俯くみんなを他所に守だけは顔を上げていた。明日どんな結果が待っていようとも、それでも自分たちは誇れる試合をしたのだと。この激闘に恥じるところは無いのだと。そう言うかのようにみんなを見渡した守に、私も自然と背が伸びた。…そうだ、私たちはやるべきことを全身全霊でやり遂げたのだ。どの試合だって少しも手を抜くことはなく、がむしゃらに駆け抜けてきた。
だからこそ、明日の試合を待つことしか私たちにできないとしても、私たちはただ心を穏やかにしてすべての顛末を見守るしかない。

「…勝たなければいけない試合に勝てなかったな。それが今のお前たちの現実だ」

そして監督は、私たちに向けてそう言った。しかしそれは決して、私たちの奮闘を嘲るものではなく、むしろ逆の意図をもって告げられたもので。

「だが、誰に恥じることもない。最良のプレーだったと言えるだろう」
「!」
「…あとは結果を待て」
「はい!」

それは監督なりの精一杯の励ましだった。私たちはよく戦ったのだと、他でもない監督だからこそ言うことができた言葉。私たちをここまで導いてくれた監督だって、この結果は悔しいはずなのに。
そしてそこでようやく私たちは、フィディオくんと相対して話す総帥さんに目を向けることができた。何故カテナチオカウンターに影山東吾のプレーが必要だったのか、と問われたフィディオくんはそれにこう答える。

「俺はあなたを知りたかった」

総帥さんの追い求めるサッカーの根源には影山東吾という存在があった。それを知ったフィディオくんは、総帥さんを理解するために影山東吾のプレーが必要だと思ったらしい。そして総帥さんの心の闇を救うためには、カテナチオカウンターを完成させなければならないと思ったとも言う。
そしてそこまで総帥さんのためにフィディオくんが尽力したのには理由があった。話によればフィディオくんにもプロサッカー選手の父親が居て、影山東吾と同じく自分の才能の限界に苦しんでいた人であったらしい。けれどたとえ総帥さんと同じように生活が荒れても、フィディオくんは父親のプレーを好きなままで居た。…これが、総帥さんとの違いだったのだろう。
変わってしまった父親をサッカーごと憎んだ総帥さんと、それらすべてを愛して向き合ったフィディオくん。…不思議だと思う。ここまで二人は似通った人生を歩んでいるのに、選んだ道は尽く真逆のものばかりだ。

「あなたは父である、影山東吾というプレーヤーが好きなんです」

総帥さんが復讐のために選んだ手段がサッカーであったことにも理由があったらしい。無意識のうちに総帥さんは、父親の影を追い求めていたのだと。それこそ、鬼道くんに教えたことが影山東吾のプレーに似通っているように。

「……そうか、お前ごときに気づかされるとはな。…いや、お前だから、か」

やや皮肉めいた口調とは裏腹に、総帥さんがその口元に浮かべていたのは何とも穏やかな笑みだった。自分と同じ境遇に立たされていたフィディオくんだからこそ、総帥さんと対等に向き合えたのかもしれない。

「…さすがだな、お前たちは本物だ」
「貴方こそ」

総帥さんの静かな賛辞に対して、鬼道くんは間髪入れずに答えた。その目にはもう、迷いも苦しみも、葛藤さえも存在しない。ただ今あるのは、因縁を果たしてようやくしがらみから解き放たれた師匠と教え子の姿だった。

「…私もなりたかった。お前たちのように」
「貴方ならなれたはずです」

そんな二人を穏やかな空気が包む。この中では誰よりも長く深い付き合いであったからこそ、二人にしか分からない思いがあるのかもしれない。…しかしそのときだった。会場の外から聞こえ出したパトカーのサイレンに私たちは思わず騒めく。

「まさか、自分で…!?」
「私にとってこれは最後の試合だ。楽しかったよ」

入ってきたのは警察の人たちだった。鬼道くんの驚愕に答えることなく、ただ緩やかに笑んでそう告げた総帥さんに、鬼道くんは自身のゴーグルを外して向き合う。少しだけ驚いたような顔をした総帥さんに対し、鬼道くんは満足そうな笑みを浮かべた。

「…お前にはもう必要ないか」
「いいえ、これからも使わせてもらいます。これは俺のトレードマークですから」

トレードマークだったのか、と一瞬突っ込みそうになったものの、私は辛うじて我慢した。周りのみんなも微妙な顔をしているから同じことを思ったらしい。口を滑らせそうな面々は即座に口を塞がれているのが視界の端に見えた。
そしてその場に駆けつけた警察の人たちに対して、総帥さんは抗うことなく大人しいまま連行されていった。

「…私がこの言葉を口にすることなど無いと思っていたが…。ありがとう、フィディオ。そして鬼道」

最後に、その言葉を二人に残して。









そしてそれが、生きた総帥さんを見た、最後の機会になった。









[本日、イタリア代表チームオルフェウスの監督であるミスターK氏が事故により亡くなりました]

その訃報を聞いたのは、宿泊所に帰ってすぐ。夕方のニュース番組と共に流れてきた。一瞬何を言っているのか訳が分からず、その場に居た全員が呆然としていたのは今でも覚えている。そして間髪入れずに鬼道くんが部屋を飛び出し、久遠監督の部屋の扉を叩いたことも。…そんな久遠監督伝で鬼瓦のおじさんから聞いた話曰く、総帥さんは暴走したトラックに撥ねられて亡くなったらしい。あまりにも酷なタイミングに、私は何も言えなかった。

「鬼道くん」
「…可笑しなものだな。あれだけあの人を憎んでおきながら、いざ本当の姿を僅かに垣間見ただけで、こんなにも苦しくなるとは」

俯く鬼道くんに、私はこれ以上何も言えなかった。佐久間くんや不動くんですら口をつぐんで黙ったままなのだから、なおさら私に何かを言える資格は無い。
けれど、それでも鬼道くんの中ではある種の覚悟はしていたのだろう。一晩経てば、いつもと変わらない様子のまま私たちの前に姿を現していた。そこに無理をしている様子は見られなかったし、彼なりに総帥さんの死とはある程度の折り合いをつけたようだった。

「…何もできないのは、少し辛いね」
「あぁ…そうだな」

今鬼道くんは守と一緒に、ジャパンエリアを訪ねてきたナカタさんやルシェちゃんと一緒に浜辺の方に行っている。どうやら、総帥さんから鬼瓦のおじさんに託されていたルシェちゃん宛ての贈り物があったらしく、鬼道くんたちを通して渡しに行っているらしい。私はそれについていかなかった。多分行くなら人数の少ない人の方が良いと思うし、その役目は守で十分だ。だから私は現在、手伝いを買って出てくれた豪炎寺くんと一緒に洗濯物を干している。秋ちゃんたちも他に仕事があったから、結構ありがたかった。

「…豪炎寺くんは、大丈夫?」
「…俺か?」
「うん。…夕香ちゃんのこととか、ルシェちゃんを見て、いろいろ思うことなんか…」
「…そう、だな。…何故、とは思った。夕香を傷つけ、苦しめておいて、同じくらいの女の子には手を差し伸べた。…正直、怒りで手が震えた」

それは私も思っていたことだった。静かに眠る夕香ちゃんを知っていたからこそ、なおさら。ここまで対極的な存在が他にあっただろうか。総帥さんによって傷つけられた女の子と、救われた女の子。どちらも真逆でありながら、それでもたしかに存在していた。

「だがそれと鬼道が影山を悼むのは別の話だ。これは俺個人の感情であって、鬼道が配慮する必要は無い」
「…うん、そうだね」
「…お前は、大丈夫なのか」
「…私?」
「お前も、お祖父さんを」

…そうだね。私も、お祖父ちゃんを総帥さんに殺されたと聞いたときは許せなかった。今は生きている可能性が高いと聞いているからそうでもないけれども、お祖父ちゃんが失踪し、お母さんが悲しむ原因になったのが総帥さんであることに変わりはない。実質的にお祖父ちゃんを追い詰めたのは、他でもない総帥さんだ。…それでも。

「友達が悲しむほどに悼んだ人を、これ以上恨みたくないなって思ったの」

鬼道くんにとって総帥さんはきっと、ある意味父親のような存在だったに違いない。自分にサッカーを教え、長く導いてくれた存在を、そう簡単に切り捨てることはできなかったはずだ。それを考えると、私個人の感情で憎みたいとは思わなかった。誰かにとっての唯一は、誰かにとっての憎しみでもある。私のお祖父ちゃんが、かつて総帥さんに心から憎まれていたように。

「…お前は強いな」
「強くなんかないよ」

私はただ、私も含めた誰も彼もが傷ついて欲しくないと願っている、傲慢で強欲な人間であるだけなのだから。





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