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「……い………ろ」

…声が聞こえる。誰かが私の肩を揺さぶりながら私を起こそうとしている。けれど私はその微睡みにまだ浸っていたくて、身動ぎはするものの目蓋は上がらない。するとその声は、私に起きる気が無いのが分かったのか、「おい起きろ!」と苛立ったように揺さぶる力を強めた。そこまでされては眠るどころじゃなく、私は何とも不快な目覚めを強いられることになって。…けれど目を開いたその視界の先、私を見下ろす少年の顔を見て私は跳ね上がるように起き上がった。どうやら私は今まで、このだだ広いベッドの上に寝かされていたらしい。

「春奈ちゃんはどこ!?」
「目覚めての第一声がそれとは、今度の巫女サマは随分と豪胆のようだな」

彼はあのとき、私と春奈ちゃんを連れ去った少年だった。しかし先ほどまでとは異なる雰囲気に思わず戸惑っていれば、彼は私の顎を掴みながら楽しそうに口を開く。

「いよいよお前の出番だ。俺たちと一緒に来てもらうぜ」
「っ!」

その意味ありげな言葉を聞いて、私は咄嗟にその手へ噛みついてやる。それが思いもよらない反撃だったのか、思わず手を離した少年の隙をついて私は後方へと距離を取った。そしてこのときになって私はようやく、自分の両手が重い手枷で拘束されていたことに気がついた。しかもいつのまにか服装さえ変わっている。浄らかなほどに白く、足首にまで届く長さなワンピース状のそれは、何故だか神々しささえ感じられるような気がした。

「チッ…優しくすりゃあ調子に乗りやがって」
「…私を、どうするの」
「どうするもこうするも無ぇよ。魔王はいよいよ復活する。あとは裁定の巫女であるお前を捧げ、強大な力を得るだけだ」

魔王、という言葉を聞いて夏未ちゃんの言葉を思い出す。あのとき聞かされた、この島に古くから伝わる魔王伝説。それが所詮は非現実的であり得ないことだと分かっていても、今この状況に私自身が置かれている以上、信じざるを得ない。そしてつまりリカちゃんを連れ去った三つ編みの少年が天界の民だとすれば、この目の前の少年は、魔界の民だという訳で。

「今頃になって俺たちが恐ろしくなったか?震えてるぜ」
「…ッ」

怖いに決まってる。私がこれからどうなるか分からない以上、まだ守たちの助けが来ていない以上、このまま無事で終わるとは思っていないのだから。だって目の前の彼の言葉を信じるなら、私はつまりその魔王の生贄にされてしまうのだ。もう誰にも会えないまま、死んでしまうかもしれない。守にも、みんなにも。…豪炎寺くんにも。

「ま、震えていようがいまいがお前の運命は変わらない。俺たちについて来てもらおうか」
「…い、嫌」
「…あ?」
「絶対に、嫌!」

ついて行ってしまえば最後、私は死んでしまうのだろう。そんなのは絶対にごめんだ。それならいっそここでギリギリまで足掻いていたい。だってきっとみんなは助けにきてくれる。豪炎寺くんは私を探しに来てくれると信じているから。
手枷と足枷をつけられている以上、私はここから満足に走ることもできない。だから唯一自由な口で噛みついてやろうと歯を噛み締めた。すると、そんな私の反抗心が実に煩わしいとでも言いたげな様子で少年は再度舌を打った。

「面倒くせぇ…!」
「デスタ、そろそろ時間よ。巫女を連れて行かなくちゃ」

そのとき部屋に入ってきた仲間らしい少女を睨みつけると、彼女は楽しそうな顔で微笑む。そしてデスタという名前らしい少年はそれを聞いて、面倒そうな表情は変わらないまま私に近寄ってきて。

「…まぁ良い。従わないなら、無理やり連れて行くまでだ」
「きゃっ…!?」

そう言うや否や、まるで荷物を運ぶようにして肩に担がれてしまった。そしてそのまま、私が足掻き始める暇もないままに歩き出す。どうやら本当に無理やりにでも連れて行くつもりらしい。無遠慮に触れられたこともあって慌てて全身を使って暴れてみるものの、抱える腕の力を強められただけで解放してもらえそうな気配は無い。それでも私はがむしゃらに暴れ続けて、堪らず溢れた涙も拭えないままに叫んだ。

「離して!私に触らないで!みんなのところに帰してよ!!」
「ぎゃあぎゃあ喚くんじゃねぇ!!…会いたいなら会わせてやってもいいぜ。代わりに今は大人しくしてろ」

…本当だろうか。そんなこと、約束したって彼らが守るとは到底思えないけれど、暴れてもびくともしない以上、ここで体力を消耗するのは愚の極みだろう。だから私はせめて土壇場で力を温存するために暴れるのをやめた。そんな私の様子に、少年は満足そうに鼻を鳴らした。

「それで良いんだよ」

そうしてしばらく黙ったまま私たちがたどり着いたのは、やけに重々しい空気を感じる祠のような場所だった。そこに居たのは、デスタと同じ格好をした十人の少年たちと、三つ編みの少年率いる天界の民らしき少年たちで。仲間たちからセインと呼ばれた彼は、デスタから下ろされたものの腕をガッチリ掴まれている私を見て、険しい顔で叫んだ。

「貴様…巫女様を解放しろ!」
「解放?…ハッ、してやる訳が無えだろ。あの生贄を失った以上、こいつは強き魂に勝る極上の餌だからな」
「巫女様を犠牲にはさせない!我々は円堂くんたちと約束したのだ。魔界との戦いは、我々の力だけで行うと…!」
「守と…?」

つまりそれは、守たちがリカちゃんの救出に成功したということだろうか。そしてデスタの言葉からしても春奈ちゃんの救出までも成功している。それにひとまず安堵した。しかも天界の民である少年たちの言葉を信じるなら、彼らは私たちの味方側だ。私は咄嗟に口を開く。

「守、たちは、ここに来てるの…?」
「!…えぇ、貴女を救うために。ですがご安心ください巫女様、今すぐ我らがこの魔界の下郎共からお救いし、必ず彼らの元に帰して差し上げます」
「やれるもんならやってみろよ」

そう言うや否や、彼らは互いに睨み合う。そのピリピリとした険悪な雰囲気に私は思わず息を飲んだ。…憎悪や憤怒の感情が渦巻いて、痛いほどに肌を刺してくる。かつて天界と魔界の民たちが争っていたということは知っていたけれど、それはここまで憎しみ合うほどのことだったのだろうか。
いつ爆発するか分からない爆弾のように、互いの憎しみと緊張感が膨らんでいく中…その均衡が破れたのは、私たちの横に鎮座していた大きな岩の塊が膨張し、はち切れんばかりに光出した瞬間だった。紫色、石。前々からこの二つにはあまり良い思い出は無いのだけれど。

「!セインさん!?」
「は…ざまぁねぇな」

次々に虚な目で膝をついていくセインさんたち天界の民の少年たちに、思わず悲鳴じみた声をあげてしまった。しかしこの現象に、デスタたちは覚えがあるらしい。その愉快そうな口振りに、私は声を荒げるようにして尋ねた。

「セインさんたちに何したの!?」
「簡単なことだ。こいつら天界の奴らは憎しみに負け、魔界の手に堕ちたんだよ!」

曰く、これこそが本来の目的であったらしい。天界の全てを魔界が飲み込むことで、強大な力を得る。それによって、天界と魔界が融合して生まれるダークエンジェルなのだとか。そしてデスタたちが何度も口にした「魔王」という言葉。それこそがダークエンジェルそのものだという。

「魔王は復活した。…ならばあとは簡単なことだ。裁定の巫女、お前を捧げて俺たちはさらなる力を手に入れる!…あぁ、ついでに俺たちの目的を散々邪魔してくれたお前のお仲間も生贄にしてやるぜ」
「そ、んな」

セインさんたちを見ても目に光は無く、きっと私の声は届かない。つまりは今やこの場全体の人たちみんなが私の敵なのだ。拘束されている以上逃げることもできず、私はただこうして囚われていることしかできない。その無力感による絶望のままに涙が溢れた。それを見て、魔界の奴らは楽しそうに笑っている。

「そうと決まれば、新しい生贄の奴らを迎えに行こうじゃねぇか」

そうしてまた、私を運ぶために。しかし今度は抱き上げるような形で触れられてもなお、私は暴れたりはしなかった。だって今の私には、何をすることもできない。
そしてこの絶望の最中で、圧倒的な強者たちに反抗できるほど、私の心は強くなかったのだ。





デスタたちダークエンジェルがそのまま私を運んでやってきた先に居たのは守たちだった。その中に、無事な様子のリカちゃんと春奈ちゃんを見つけたことにひとまず安堵する。守たちもデスタに抱き上げられている私の姿を見つけたようで、口々に私の名前を呼んだ。
その中に、瞳に強い怒りを宿して険しい顔をする豪炎寺くんも居て、私は思わず声も無しに唇だけで彼の名前を呼んでしまった。…私が何を言ったのか分かったのだろう。豪炎寺くんは唇を引き結びながら一つ大きく頷いてくれた。

「薫を離せ!」
「そうは行くか。魔王様が復活した以上、巫女は極上の生贄となる」
「ま、魔王!?」

まだ何も知らないみんなが辺りを見渡しながら魔王の姿を探す。…けれどもその魔王は、他でも無いみんなの目の前にいるのだ。そしてデスタが、自分たちダークエンジェルこそ魔王の真の姿であることを明かしたところで、ふとセインさんがよろめく。先ほどからずっとこうだ。自我を魔界に飲み込まれかけてもなお、彼は先ほどからこうして何度も抗おうとしている。

「…悪魔…に意識を支配されるなど、何ということだ…!」
「!」
「止めてくれ、我らの手が汚れぬうちに…!」
「セイン、セイン!」

しかし次の瞬間、セインさんの瞳は再び虚となってしまった。また魔界に飲み込まれてしまったのだ。何もしてあげられない不甲斐なさが痛い。この人たちはさっき、私を助けてくれようとしていたのに。
そんなセインさんは、足で蹴り上げたボールを守に向けて撃った。ものすごい勢いで飛んでいったそれは、守を最も簡単に吹き飛ばして。

「守!」
「円堂!」

よろめきながらも立ち上がる守を見下げてセインさんは嗤う。そこにあの敬虔な誠実さはどこにも見えなかった。

「お前たちの魂、寄越すがいい」
「…サッカーは、そんなことのために使うんじゃない!お前は俺たちと試合して、サッカーの楽しさを分かってくれたんじゃないのか!?」
「知らんな」
「セイン…!」

今の彼には何を言っても無駄だ。守たちが対面したであろう、天界の民としての彼の意識はここに居ないのだから。ここに立っているのは、魔界に飲み込まれたことによって魔王に昇華されてしまったダークエンジェルの一員なのだ。

「我らは魔界も天界も超えた存在、ダークエンジェル。魔王なのだ!」

するとその瞬間、どこからともなく十一の光が守たちを囲む。まるでみんなを選別するかのように回り出した光の中で、デスタの声が辺りに響き渡った。

「戦って分かった。お前たちの魂は、素晴らしい。よって、我々がより完璧なる魔王になるための生贄にしてやるぜ」

それと同時に、光がみんなの中から十一人を選び定めた。ダークエンジェルによって、生贄として選ばれたのは、守、豪炎寺くん、鬼道くん、士郎くん、基山くん、不動くん、飛鷹くん、壁山くん、虎丸くん、テレスさん、フィディオくんの十一人。どうやらダークエンジェルはみんなと戦い、勝利することで魔王の力をさらに得るための儀式を成功させようとしているらしかった。

「ほらよ、お仲間の元に帰ってやれ」
「…え…?」

しかしそこで突然、デスタから解放されたかと思うと彼が指を鳴らした瞬間に手枷と足枷が外れて地に落ちる。いきなりのその行動に戸惑ったものの、けれど彼は別に慈悲によって私を解放した訳では無いらしい。顎を掴みながら目を覗き込むようにして私に囁きかける彼は、まるで私の絶望と恐怖を煽るかのように嗤った。

「どうせすぐにお別れが来る。せいぜい、残り少ない人生を惜しむんだな」
「…ッ!」

その言葉に、声に、足が凍りついたようにして動かなくなってしまう。何か言い返したくて仕方ないのに、胸に刻まれた恐怖がそれさえも許さない。せいぜい私にできることは、デスタから目を逸らさないことくらいで、それでもそれが強がりだと分かるくらいに私は怯えてしまっていた。

「おっと」

すると、そんな私たちの間を割くようにしてボールが飛んできた。僅かに炎を纏ったそれを撃ち放ったのはこちらを…デスタを鋭く睨みつける豪炎寺くんであったらしい。豪炎寺くんは、その視線をこちらに向けると、何の躊躇いもなく手を差し出した。
そうして、呼ぶ。私の名前を、真っ直ぐに。


「薫!」


その途端、あれだけ動いてくれなかった足はいとも簡単に動いて駆け出した。しばらく歩いていなかったせいか、少々縺れそうな足を叱咤して、最後は半ば倒れ込むような形で私は豪炎寺くんの体にしがみついた。同じように抱き締め返してくれた腕の中、私は再び溢れ出した涙と共に嗚咽を吐き出す。そんな私の頭を撫でて、豪炎寺くんは悔いるような声音でそっと呟いて。

「遅くなって悪かった」

無事で良かった、と続けた豪炎寺くんに、私はただ首を横に振ってさらにしがみつく。謝ることなんて何もない。君は私を迎えに来てくれたし、こうしてまた会うこともできた。デスタたちダークエンジェルのことは怖くてたまらないけれど、それでもきっと豪炎寺くんたちなら勝てるって私は信じているから。

「負けないで」
「あぁ」

そんな私の弱々しい懇願に、豪炎寺くんは何の迷いもなく即座に頷いてくれた。
たったそれだけで私の心は、こんなにも軽くなってしまったのだ。





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