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あの後のことを、私はあまり思い出したくは無かった。チームガルシルドには、なんとか勝つことができたけれど、それは夏未ちゃんの分析とそれを生かしたお祖父ちゃんの采配によるものだった。夏未ちゃんがお祖父ちゃんに鍛えられたという分析力は、さすがあのオルフェウスを倒すのに一役買っただけあってとても正確だった。そのおかげであれだけ苦戦していた試合も途端に突破口を見出せたのだから恐れ入る。…その間、私はずっと自分が惨めで仕方なかったけれど。

「…守は?」
「守くんならおじいさんのところに行ったよ。…薫ちゃんは行かなくてもいいの?」
「良い。…ごめん、先に寝るね」
「あ…」

響木監督が目覚めたと聞いて、それには安堵したものの、それよりも遥かに湧いてきた悪感情が胸の内を支配していた。こんな顔で目覚めたばかりの響木監督と会いたくなかった。だから私は、みんなが待合室で寝こけているのを良いことに、久遠監督に許可を取って先に宿泊所へ帰ったのだ。これ以上、お祖父ちゃんと顔を合わせていたくなかった。みんなに無様な姿を見られたくなかった。…私自身を、これ以上嫌いになりたくなかったから。
私は、背後で何か言いたげだったふゆっぺに気づかないフリで自室に帰る。守は、お祖父ちゃんにずっと会いたがっていたし、憧れてさえもいたから、こうして話せるのは嬉しいのかもしれない。だけど私にとってお祖父ちゃんは、もはやそんな純粋な心で慕えるような存在じゃなかった。

「薫」
「…何、豪炎寺くん」
「…今、大丈夫じゃないだろ」

自室に入る直前、私を追いかけてきたらしい豪炎寺くんにそう問われて思わず乾いた笑みが溢れる。…まるで、私が「大丈夫」だと誤魔化すのを先手打っているかのようなその問いかけが可笑しくて仕方ない。…大丈夫じゃないに決まってるでしょ。でも、それを言ったって何の解決にもならない。この私の心を、理解できる人なんて誰もいないんだから。
だから私は、その差し伸べられた手をそっと拒む。嬉しかった。愛おしかった。私に寄り添おうとしてくれるその優しさが、私に向けられていることはきっと奇跡に近いから。…でも。

「ごめんね、放っておいて欲しい」
「…だが」
「一人になりたいの。…一人に、して」

きっと今日のプレーを通して、みんなはお祖父ちゃんのことを好意的に思っている。サッカーに対して真剣に取り組む人をみんなが嫌うわけがない。…そしてそれは、豪炎寺くんだって同じのはずだ。だから豪炎寺くんだって私の心を理解できない。…それに、こんな嫌な姿を見せて、嫌われたく無かった。人を簡単に憎むような最低な私を見て幻滅して欲しくなかったから。
少し強くそう言えば、豪炎寺くんはさすがにもう引き止めてはこなかった。私は踵を返して、今度こそ自分の部屋に閉じ籠る。ベッドの上に無造作に身を投げ出して、枕に顔を埋めて、今度こそ泣いた。嗚咽が誰にも聞こえないように、私の中だけで完結してしまうようにと、そんなことを願いながら。

…今日は、酷く惨めな気持ちだった。
あの中で、私だけが心から笑えていなかった。

一人だけ足枷のように重い心を引きずったままみんなに置き去りにされたような、そんな気分だった。みんなは軽やかに前へ前へと進んで行けているというのに、私はいつまでも後ろを振り向いたまま、前を向けないでいるのだ。
その理由も原因も、私はきちんと分かってはいるけれど。それが分かったって、何一つ解決策にはならないことは、私自身がよく理解している。簡単に解決できたのなら、きっともっと私は楽に生きていけたはずだから。

「…きらい」

どうせなら、綺麗な思い出のままで居てくれたらよかったのに。そうしたら、こんな風に複雑な感情を抱いて嫌悪することなんてなかったのに。いつまでも昔のように、ただ陰謀の犠牲になってした祖父として私と守にとっては一度も相見えることの無かった存在で居てくれたなら。私はきっと、その時こそ何の憂いもなくお祖父ちゃんを好きだと心から言えたはずだった。

「きらい」

それにきっと、お祖父ちゃんだって私のことなんか好きじゃないに決まっている。だって自分を嫌っている孫のことなんて、誰が好きになるというのだろう。私だったなら同じように嫌悪している。守のように、純粋に自分を慕ってくれる可愛い孫だったなら、愛してくれるのだろうけど。お生憎様、私はそんな感情を抱けない。

「だいっきらい」

それに、そう言えば結局一度だって、あの人は私の名前を呼ばなかった。話しかけさえもしなかった。私自身が離れて会話を拒んでいたというのに、それを棚に上げて「薄情者」と酷く罵る。…こんな奴なんて、そりゃあ遠ざけてしまいたいに決まっているのだから、仕方ないのだろう。
自自嘲気味にそう笑ってみたくせに、その分溢れる涙は増えるばかりで、私はもう一度息を深く吸い込みながら、耐えるようにして枕に顔を押しつけて声を殺した。



















「…一人で泣かないでくれ、頼むから」

微かに聞こえる私の泣き声を扉の外で聞きながら、私たちの間を阻む扉をもどかしげに爪で掻いた彼の苦しげな声さえ、私は知らないままで。





夏未ちゃんがイナズマジャパンに戻ってきた。今度はマネージャーとしてでもあり、凄腕のチームオペレーターとして。いつもならきっと嬉しくて仕方なかったはずなのに、今回ばかりはお祖父ちゃんのこともあって複雑だったから、私は自分から話しかけにはいかなかった。監督補佐だという立場を良いことに、選手たちの補佐をすることで意図的に会話する機会を絶ったのだ。…でもこんなことしたって、チームメイトに戻った以上はいつか話す機会は出てくる。けれど私はそれならせめて時間が欲しかったのだ。…それなのに。

「隣、良いかしら」
「…うん、ピーラー、使う?」
「ありがとう」

晩御飯の仕度中に手伝いを申し出てきた夏未ちゃんに、私は断る理由を見つけられないまま仕方なく使っていたピーラーを渡す。新しいジャガイモを手にして苦戦しながら剥いていく夏未ちゃんをよそに、私も新しいピーラーを取り出して剥き始めた。普段ならそこで和気藹々と会話が始まるのに、今はキッチン内は無言で埋め尽くされている。私のピリついた空気を察知しているのか、他の作業をしている秋ちゃんたちも釣られて無言になっていた。

「……そ、そういえば、今日話してたんですけど、キャプテンのお祖父さんと試合なんて何か不思議ですね!」

…恐らく春奈ちゃんは、この空気を変えようとして会話を始めようとしてくれたのだろう。その考えは悪くない。最近のホットな話題としてお祖父ちゃんのことをあげてくるのも当然の流れだ。けれど、それを振る相手が悪かった。何故なら知らないとはいえ、相手は守とは違ってお祖父ちゃんに絶賛嫌悪と憎悪を抱いている私だったからだ。

「そ、そうね!薫ちゃんは、複雑じゃないの?お祖父さんと戦うなんて…」
「複雑も何も、ずっと四十年も家庭を、妻と娘と孫を。放ったらかしにした人なんかにかける情けも容赦も欠片だってないから」

話を膨らまそうとしてくれた秋ちゃんの言葉に返した答えは、自分でも眉を顰めてしまいそうなほどに吐き捨てるような言い方をした言葉だった。それを聞いて、私がお祖父ちゃんのことをよくは思っていないことは分かったらしい二人が途端に沈黙する。…嫌になりそうだ。こんな自分勝手に不貞腐れて、気を遣ってくれた二人に最悪な態度を取ったりなんかして。

「…じゃあ、薫ちゃんは、お祖父さんのことが嫌いなの…?」

恐る恐るふゆっぺが尋ねてきた言葉に、私は思わずピーラーと剥きかけのジャガイモをシンクに落とした。ガラガラとした落下音がシンクの中で反響している。それを何も言わずに広い、水で洗い流しながら、私はなるべく冷静さを保ったまま短く答えた。

「…嫌いだよ、大っ嫌い」
「…ならどうして、そんなに苦しそうな顔をしてるんですか…?」
「してないよ」

…嫌いだもん。少なくとも四十年もお母さんを悲しませた事実は間違いなく存在するんだし、たとえ守がそれを許せても、こればっかりは私も思うところがある。…そりゃあ分かってるけども。その死んだフリが、お母さんたち、私たち家族を守るためのもので、お祖父ちゃんだって好きで死んだフリをした訳じゃないことも、ちゃんと分かってる。それでも嫌でも思ってしまうのだ。お祖父ちゃんは私たちのことなんて、大切には思って無かったんじゃないかって。

「……どうせお祖父ちゃんも、私のことなんてどうでも良いんだよ」
「そんなこと無いわよ!」
「だってあの時、私じゃなくて、夏未ちゃんの方を頼った」
「!」

ガルシルドとの戦いのとき、お祖父ちゃんは相手の分析を私じゃなくて夏未ちゃんに頼んだ。そりゃ付き合い的に考えても、生まれて初めて顔を合わせる孫よりも、何週間も一緒に居た弟子の夏未ちゃんの方が頼り甲斐があるのは分かっている。それでも私はあのとき確かに、心の底から深く傷ついたのだ。私はお祖父ちゃんにとって、血の繋がらない他人よりも頼る価値の無い孫なのだと、そう突きつけられたような気がして自分勝手に傷ついた。

「夏未ちゃんには分かんないよ。お祖父ちゃんに頼られて、その信頼に応えてみせた夏未ちゃんには、私の気持ちなんて」
「…薫さん」
「わたしだって、ちゃんと、おじいちゃんの、まごなのに」

…だから、お祖父ちゃんなんて嫌いだ。大嫌いなのだ。イギリス戦で他人のフリして近づいたあのときも、きっとあの人は私が自分の孫娘だと気がついていたくせに、何も言わずに他人のフリを貫いた。回りくどい真似をして手紙なんかも出して、生きているなら生きていると言えば良かったのだ。そうしなかったということはつまり、私は、私たち孫は、あの人にとってガルシルドよりもサッカーよりも、優先度の低いその程度の存在だったということじゃないのか。

「わたしのことなんて、きっと、どうでも良いんだよ」

あの試合の時だって、ゴールキーパーとしてお祖父ちゃんに何らかのアドバイスを守は貰っていたじゃないか。そもそも守がサッカーを始めたのはお祖父ちゃんのノートを見つけたからだ。そんな、サッカーを始めるきっかけやアドバイスなどの何もかもをお祖父ちゃんから貰ってきた守と違って、私には何も無かった。
私には、お祖父ちゃんと繋がれるものが血縁以外の何もない。だから、お祖父ちゃんは私のことには興味も無いし、きっと愛してさえいないのだ。


「それは違うわ」


…けれど私のその涙まじりの言葉を否定してきたのは、他でもない夏未ちゃんだった。私の知らないお祖父ちゃんのことを、私よりも知っているからこその否定だろうか、なんて皮肉めいたことを呟いた私に、夏未ちゃんは静かに首を横に振って否定する。

「だって大介さんは、嬉しそうだったもの。貴女たちの写真を見せたとき、とても嬉しそうに笑っていたもの」

夏未ちゃんはお祖父ちゃんに会いに行ったときに、私たちの写真をそれぞれお祖父ちゃんに見せたのだという。守の顔を見て「サッカー馬鹿の顔だ」と笑い飛ばし、私の顔を見て「婆さんに似ている」と目を細めた。それを聞いて思い出したのは、私が初めてお祖父ちゃんとちゃんと顔を合わせた、イギリス戦の日。

『お嬢さんは美人だなぁ』

婆さんに似ているだろう、と。そう言って私を見つめたサングラス越しのあの瞳は、いったいどんな色をしていたのだろうか。お祖父ちゃんはどんな思いで、そんな言葉を私にかけたのだろう。私の顔に、お祖母ちゃんを、お母さんを、思い出したりなんてして。

「孫のことが大事じゃない祖父なんて、居るわけないじゃない」

その場に蹲りながら、声も無く嗚咽を溢して泣き出した私の肩を抱いて、背中を撫でてくれた夏未ちゃんにしがみつく。そうなのだろうか。私は、離れていてもちゃんと、お祖父ちゃんに大事に思われていたのだろうか。守と同じくらい、大切な孫として、愛されていたのだろうか。

「薫ちゃん、今の言葉を、ちゃんとお祖父さんに言おうよ」
「…ふゆっぺ」
「守くんたちは絶対に勝つから。だから、そのときちゃんと、お祖父さんと話そうよ」

ね、と微笑むふゆっぺは優しくて、思わず無言になりながらも頷いた私を見る他のみんなの目も、優しくて。春奈ちゃんが「いっそ一発入れてやれば良いんです」なんて拳を振りかざして見せたから。私はまた一つ涙を溢して、ようやく笑うことができたのだ。





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