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二周目に到達し、とうとう三周目に入った。つまりタイマー係の春奈の引きつったような顔を見るのもこれで二度目。前に出たり出られたりを繰り返しながら、二人はたとえ息が乱れようとも決して負けられないプライドを賭けた勝負を降りようとはしなかった。

「そろ、そろッ…緩めたらどうだ豪炎寺ッ…!」
「それは俺のセリフだッ…!」

三周半。だんだんとペースが落ちては来るものの、それはお互い様で仕方の無いこと。むしろ今こそが粘り時だと言わんばかりにその目は闘志に燃えている。
譲り合うことを放棄した彼らはただひたすらに駆け抜ける。…そこにふと、空気をぶち壊すようなのん気な声が水を差した。

「お二人とも、やる気があるのは良いけどペース配分考えた方が良いよ」
「!?」
「あ」

車道側に居た鬼道の方から覗き込むようにして追い抜いてきた薫に、二人は分かりやすくとも二つの反応を示した。
鬼道は、このハイペースに追いつかれたことへの動揺。豪炎寺は、この後襲い来る残酷な現実を思い出して。
そう言って注告だけを言い残すと、自分たちとは比べものにならないくらいの速度で駆け出した薫を呆然と見送る。とっくに戦意は互いに失せていた。
そして五周を走り終えた先、息一つ乱さず待機していた薫は朗らかに鬼道と豪炎寺へ向けて口を開いて。

「この外周はね、ペースを変えないで長い距離を走る特訓なの。だから最初に走ったタイムを最低時間として、それより三十秒を下回ったらアウト。この後のトレーニングメニューが二倍になるよ。
初めての鬼道くんと、今回新記録を更新した豪炎寺くんは今後はこの記録が最低ラインだね。頑張れ」
「あ、あぁ…」

…あの同情的な視線の意味がようやくここで理解できた。あれは、何も知らずにハイペースで走る鬼道が、これからその事実を告げられるであろうことを哀れんでの視線だったのだろう。教えてくれてもと思ったものの、それではトレーニングの意味が無い。隣では豪炎寺が青い顔をしている。確かに明日以降、あのペースで走り続けなければいけないというのはそれこそ地獄に近い。…だが。

「でも、鬼道くんもあんな速さで走れるんだね。豪炎寺くんも見事に引っ張られてたし、その調子でみんなを押し上げて欲しいな」

そうやって無邪気に、どこか嬉しそうに笑ってくれるから。途端に自分は何も言えなくなって、ただただ頷き返すことしかできなくなってしまう。
初対面からそうだった。するりと内側へ、いつのまにか入り込んでくるくせに、こちらが許すまでは触れようとも近づこうともしてこない。だというのに、少しでも許してしまえば最後、嬉々として手を差し伸べては悪意の無い笑顔で無邪気に心を絡めとる。
それはまるで、心地良い地獄の底に優しく沈み落とされるような感覚にさえ思えた。

「…あぁ、そのつもりだ」
「よしよし、新入りのやる気があるのは幸先良いね。豪炎寺くんもまだまだいけるよ」
「勿論だ」
「お、良いじゃんね。じゃあはいこれドリンクとタオル。私は守のところに行くから休憩しっかりね」

そう言うや否や、彼女はさっさと円堂の元へ駆け出してしまった。遠くでは地面に仰向けで倒れる円堂とその記録係をしていた木野が見える。感慨に浸る間もなくあっという間に置いて行かれてしまった彼らは、一度顔を見合わせて互いに頷き合い、励まし合うようにして肩を叩き合った。





最近の練習を見ていると、豪炎寺くんと鬼道くんのやる気があって何よりである。他のみんなも何だかんだ文句は言いつつ記録を伸ばしつつはあるから、やはり鬼道くんが入ったことで何かしらのやる気に繋がっているのかもしれない。さすが名門の司令塔。
そしてそんな今日は、朝から秋ちゃんと土門くんから遅刻の連絡が入った。何やら空港に知り合いを迎えに行くらしく、詳細を尋ねようとしたら曖昧に濁された。言いにくいのかもしれない。

「…あれ、誰だろあの子」

ふとそこで視線を巡らせたとき、たまたま視界の端に捉えた練習を眺めている男の子。同じ歳くらいだろうか、みんながボールを蹴る姿をキラキラした目で見つめていた。ここら辺じゃ見ない顔だし、偵察にはとうてい見えないのだけれども。

「何してるの?」
「うわっ!?」

とりあえず近づいて声をかけてみると、めちゃくちゃびっくりさせてしまった。申し訳ない、後ろから声をかけるべきじゃ無かったね。
目を丸くしながら振り返った男の子は、とてもカッコいい男の子で女の子に随分とモテそうな顔をしている。それにやっぱり近くで見ても見かけない顔だ。

「ごめん、驚かせちゃったね」
「あぁいや、俺もぼんやりしてたんだし、お相子みたいなものだよ」
「ありがとう。…それで、うちのサッカー部見てたよね。どうしたの?」

一之瀬一哉くんと名乗った彼は、どうやら知り合いに会うためにアメリカから来たらしく、その知り合いの迎えを待ちきれなくてこっちに来てしまったらしい。それはつまり知り合いが置いてけぼりなのでは?

「良かったらベンチの方で見る?」
「いや…せっかくだし俺、彼らとサッカーしてみたいんだ」
「えっ」

いきなり駆け出す一之瀬くん。ちょっとお待ちになられて。アメリカから来たからなのか知らないけど随分とフリーダムだね!?
一之瀬くんはそんな私の制止を聞かず、ちょうど飛んできたボールを蹴り返すことなくドリブルしながら攻め上がっていく。…すごい上手だな。

「すげぇなお前!!」

そのまま華麗にシュートを決めた一之瀬くんに思わず拍手してしまったものの、守の興奮じみた声を聞いて我に帰る。練習を中断させてしまっているじゃないか…!しかし駆け寄れば、一之瀬くんを中心とした輪は和気藹々としていて注意するにもしきれない。
まぁいいか…と半ば諦めて見守っていると、そこで空港から戻ってきたらしい秋ちゃんと土門くんの姿が見えた。何やら浮かない顔だけどどうしたのだろう…と心配していれば。

突然、一之瀬くんが秋ちゃんに抱きついた。
もう一度言おう。突然、一之瀬くんが、秋ちゃんに、抱きついた。

「わ゙ーーーーー!!!!!」
「あ痛ッ!?」
「薫ちゃん!?」

思わずその後頭部にチョップをお見舞いすると、一之瀬くんが怯んだ隙に秋ちゃんを引き剥がして抱き締める。いったい全体いきなり秋ちゃんに何てことをするんだこの人。

「何!事!だ!?」
「落ち着いて薫ちゃん!?」
「あ、あ、秋ちゃんはまだお嫁に行かせませんから!?!?」
「薫ちゃん違う誤解なんだって!!」

思わず母親のようなセリフが飛び出したものの、土門くんや秋ちゃんからの弁明により、一之瀬くんが二人の幼馴染だということが分かった。でも幼馴染だからってやって良いことと悪いことはあると思うんだ。





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