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『全く、随分と慎重に管理するんだな。私もあれを飲めば君より強くなれるのかね』
『さあ、どうでしょう。どちらにせよ、あれは十代の子どもにしか効かないという噂もありますから』

そっと息を潜めながら聞いていた、警備員たちの会話。それを聞いて、私たちの中での疑問は確信に変わった。頷き合う夏未ちゃんたちを他所に、私は昨日の照美ちゃんのことを思い出す。少しだけ不安そうな、焦燥を瞳に浮かべた照美ちゃんの表情。神様なんかじゃなかった、ただの人間の少年のような顔を。

『…誰か、怪我でもしたのかな?』

…影山零治。お前はあの本当は心優しい彼の心と体まで、踏みにじろうとしているのか。
犯した罪は、ドーピング。スポーツ選手ならば禁忌とされるそれは、薬物によって身体能力や精神状態を向上させるもの。それを、成長期の子供に飲ませてまで手に入れようとしているお前の復讐は、どれだけ崇高なものなんだというの。

「許せない…!」

…そのときだった。総帥さんへの怒りで頭がいっぱいだった私と、ドリンクに秘密があることを確信した三人は、背後から近づいてくる男に気がつかなかった。音もなく忍び寄り、夏未ちゃんの肩に手を置いたそいつは。

「…鬼瓦の、おじさん?」
「ああ。驚かせてすまんかった」

思わず構えていた拳を下ろす。いつものあのコートではなく、あの警備員たちと同じものを着た鬼瓦のおじさんは、何でも現在潜入中なのだという。
しかし忍び込んだはいいものの、警備が厳重なドリンクのある部屋には入り込むことが出来ず悩んでいたら、そこに私たちが来たらしい。どうしたものかとみんなが悩む中、私は即座に決めておじさんに告げた。

「私が囮になります」

私の考えはこうだ。まずは警備員のフリをしたおじさんから何かを奪った真似をして四人で一斉に逃げる。途中、私がそれを一人で抱えているように見せかけて三人を逃す。
そう説明した私に、秋ちゃんは首を横に振った。

「そ、そんな無茶よ薫ちゃん!」
「大丈夫だよ秋ちゃん。この中で一番足が速いのも、持久力があるのも私。…三人は、私と別れたら何食わぬ顔でベンチに戻って、みんなに伝えて」
「…わかったわ」
「夏未さん!」
「これは適材適所よ二人とも。…それに、薫さんの覚悟を私たちが受け止めなくてどうするの」
「…ありがとう、夏未ちゃん」

おじさんもしばらくは唸っていたけれど、やがてそれしか方法が無いと諦めたらしい。軽い打ち合わせをし、タイミングを見計らって夏未ちゃんの悲鳴でスタートとだ。

「おじさん、時間は多くて十五分。増援を呼ばれると考えたら、それが限度です」
「あぁ、わかった」

…そして、廊下に響き渡る悲鳴。私たちは、鬼瓦のおじさんを突き飛ばすようなフリをして、廊下を必死に駆け出した。
案の定それに上手く引っかかってくれた警備員との距離を測りながら、私は予定の曲がり角で夏未ちゃんの持つ水筒を引ったくるようにして腕に抱え込む。

「私がこれを届けてみせるから!」
「!やはりあいつら、神のアクアを…!!」
「追え!逃すな!!」

警備員が二人。途中で合流したのが一人。合計三人を背中につけながら、私は必死で廊下を駆ける。階段で飛んだり廊下を上手く滑ったりなどの大立ち回りだ。そんな簡単に追いつかせてやるものか。
そしてしばらく走り続けて、腕時計で時間を確認すればそろそろ十五分。後ろ目でおじさんがドリンクの部屋に入ったのは微かに見えていたから、そろそろ引き上げる頃合いだろう。

「欲しいなら…くれてやる!!」
「アッ!?」
「アクアが!!」

なるべく遠くに水筒ごと放り投げて、私はその場でさらに加速した。追いつけそうで追いつけない距離を保つのはそれなりに難しいんだぞ。
先程前半終了のホイッスルが遠くで聞こえてきたところだ。私は後ろで水筒を追いかける警備員たちを置き去りにし、まるで転がり込むようにして雷門中のベンチに駆け込んだ。

「薫ちゃん…!」
「任務、完了…」
「無茶しやがって…!」
「点数は…?」
「…まだ三点のリードを許している。四点目がホイッスルで不発に終わったおかげでな」

皮肉げな鬼道くんの背中を一度叩いてから、私は守の元に歩いていく。シュートをいくつも受けたせいで、誰にも負けないくらいボロボロの守。…そんな守に、私は今から無茶振りを言う。
守の手を取った。誰よりも努力してきた、私たち雷門のゴールを守り続けてくれた大きな手。

「…ドーピングのことは聞いた?」
「あぁ、秋たちから…」
「…守、一生に一度のお願い、聞いて」
「…?」

私はグラウンドには立てない。女だから。選手じゃ無いから。…だけど、この燻る怒りも意志も何もかもを託すことは、女の身だって出来ることだから。

「サッカーを踏みにじるやつなんかに、負けないで」

大事なものを何もかも、嘲って踏みにじって弄ぶようなやつに負けたく無い。照美ちゃんたちを使い捨てるような真似をするあの男に、復讐を果たさせてなんてやるものか。
私たちを侮辱するな。馬鹿にするな。いつまでも神になったような気分で高いところに居座ってないで正々堂々、来るなら真正面から来れば良い。
真っ直ぐにそう言い切った私に、守はたしかに真剣な目で頷いてくれた。お互い、どちらともなく抱き締め合う。…これがきっと最後だよ、守。ここに渦巻く陰謀全てを振り払って、蹴落として。
お祖父ちゃんの果たせなかった頂点で、私たちは笑ってみせようね。





そして、後半が始まった。前半と変わらぬ勢いでディフェンス陣を吹き飛ばしながら、ゴール前へたどり着く照美ちゃん。…だけど私の目に、もう焦りは無かった。
守を信じている。たとえ今目の前で何度もボールに吹き飛ばされていようとも、それでもゴールを許そうとしない守が、もう二度と理不尽な力に負けないことを信じている。

「大好きなサッカーを、汚しちゃいけない…!」

…ねぇ、照美ちゃん。どうして君はそこに立っているの。サッカーが好きだと言ったくせに、偽物の力を得てまで決めたシュートは、とても空虚で虚しいもののはずでしょう?

「そんなことは…そんなことは、許しちゃいけないんだ!!!」

守の怒りが、叫びが、物凄い気迫と共に力となっていく。隣の響木監督が驚愕の声を上げた。…あぁ、そうか、守。
また守は、自分の力で前に進んで行くんだね。少し前までは寂しくてたまらなかったけれど、今の私にとってはただただ誇らしくて仕方がないよ。

「___神が恐れを抱くなどッ…そんなことがあるものか!!!」

照美ちゃんが守を恐れるのはね、それが君の選んでしまった真逆のものだからだよ。守はとても眩しいでしょ。光り輝いて、何者も飲み込んでしまいそうな闇までをも焼き尽くして、そうして誰かの絶望を希望に変えてくれる。だから、雷門中のみんなは守をキャプテンと呼ぶんだよ。

「神の本気を知るが良い!!!」
「あああああああ!!!」

神様の力なんて要らない。必要ない。そのことは誰よりも私が知っている。
ただ一人会ったことの無い祖父に憧れてノートという影を追って、大きすぎるボールを抱えながらも必死に走り抜けてきた努力の人を、私は知っているから。

神の光はここで死んだ。
天使の羽ばたきはもう絶望を連れては来ない。

守の出した唸る魔神が捉えた神の一撃は、やがてその掌に飲み込まれて。
ただのサッカーボールへと成り下がってしまったのだから。





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