66
豪炎寺くんに手を引かれながら帰ったその日、暗い顔をしている私を見ていろいろ察したのか、雷電くんはいつもよりも明るい声で励ましてくれた。豪炎寺くんもずっと心配そうな顔だったし、ちぃちゃんたちもいつもとは違う私の様子にずっと悲しそうな顔をしていた。
「眠れねぇのか」
「…雷電くん」
夜になっても何故か珍しく目は冴えたままで、体も心も疲れ切っているのに眠ることだけが出来ない。思わず身体を起こして縁側で座り込んでいれば、後ろの方でパチリと電気がついて明るくなった。どこか仕方なさそうな顔で微笑む雷電くんだった。
「ほらよ」
「ありがとう」
麦茶を持ってきてくれた雷電くんからグラスを受け取って一口飲む。ひんやりとした冷たさが喉を潤してとても心地良かった。隣では麦茶を一気に飲み干した雷電くんが小さく満足げな息を吐いていた。
しばらく、お互いが黙っていた。しかしやがてその沈黙を破るように、雷電くんがそっと話を切り出す。
「今日、広場んとこに居たろ」
「…気づいてたんだ」
「俺のとこからはチラッと見えたんでな。…久しぶりの兄貴だったんだろ、どうだった」
どうだった、か。そう言われると、私はただ「元気そうで良かった」としか言えなくなる。瞳子監督から聞いていた憔悴ぶりは鳴りを潜めて、いつもの守でしか無かった。
そう返すと、雷電くんは今度は質問の形を変える。
「兄貴たちに隠れてる理由がバレて、どう思った」
…ずるいと思った。その聞き方は、とてもずるい。私の悩み苦しむことを的確に聞きにきた雷か雷電くんに思わず苦笑して、でもやはり私は正直に答えてしまう。
私の答えは「悲しくて嫌だった」だった。
「しんぱい、させたくなかったの」
「…」
「みんなの、守たちの邪魔になりたくなかった。私なんかが妨げになるのは、死んでも嫌だった」
捕まってしまうのは、怖い。何をさせられるのかも分からない以上、敵の手に囚われてしまうことは恐ろしかった。
けれどそれ以上に、戦わんと立ち上がってくれたみんなの足手纏いになる方が怖かった。たとえ側に居られなくとも、危険を抱えて側に在るより遠くで危険と戦う方がよっぽど楽だったから。
なのに、私は結局守にあんな顔をさせてしまう。悲しげな顔を、まるで自分を責めるような顔を。…そんな顔をさせたくなくて、私はここに居るはずなのに。
「俺は妹のお前の気持ちはよく分かんねぇけどよ」
「…」
「兄貴だから、円堂の気持ちは分かるぜ」
「!」
「俺だったら、助けてくれって言われる方が救われる。あいつらが俺を気遣って一人追い詰められてる方が、よっぽど辛ぇや」
…守も、そうなのだろうか。私のやったことは、ただの自己満足だった?思わずほろりと涙をこぼした私に、雷電くんは苦笑いでタオルを差し出してくれる。勘違いすんなよ、と前置きして彼は口を開いた。
「もちろん、お前の気持ちが全部分からねぇわけでもねぇさ。俺だってきっと、弟たちやチームメイトに危険が及ぶかもしれねぇってんなら迷わず逃げる」
「…」
「どっちも正しくて、正し過ぎるからどうしようもないんだ。仕方ねぇんだよ」
いつのまにか頭に乗っていた手の重みが心地良くて、こぼれる涙と嗚咽をタオルの中に埋めて、私は強く強く目を閉じる。分かってる。私のしたことが守やみんなを傷つけることだったって、今ならもう分かる。でも、そうするしか無かった。そうすることでしか誰も守れなくて、方法も無くて。もしもあの時に戻ったとして、私はきっと何度でもそれが正しい道だと信じて選ぶのだろう。
私はどうしたって、そういう風にしか生きられない人間だから。
「明日の朝、野菜の収穫手伝ってくれねぇか。円堂たちに差し入れするからよ」
「…うん、する。…ありがとう、雷電くん」
「よせやい、同じ兄弟持ちのよしみだ。…眠いんだろ?何も考えないで寝ちまえ寝ちまえ」
「ん、ん…」
たしかにさっきまで冴えていたはずの瞼は重くて、ずっと軽くなってしまった心の重しが無い分、私の意識はふわふわしていた。眠い。とても眠い。このままじゃ雷電くんに迷惑をかけてしまうと分かっていながら、それでも私は遅い来る眠気には勝てず、そのままスイッチを落とすようにして眠りについた。
*
「…出てこいよ豪炎寺、そこに居るんだろ?」
「…あぁ」
名前を呼ばれ、特に驚いた様子も無く物陰から出てきた豪炎寺は、土方の肩を枕にして眠る薫を横抱きして持ち上げた。穏やかな寝息が首元を擽るのに少しだけ肩を跳ねさせながら、グラスを盆に乗せて立ち上がる土方に向き直る。
「悪りぃが、こいつを部屋まで頼むわ。俺はグラスを片しとくからよ」
「分かった。…土方」
「ん?」
「…助かった。俺では、何を言っても駄目だった」
「チビたちが心配すんだよ、こいつが笑ってねぇとな」
そのままそこで別れた豪炎寺は、なるべく静かに廊下を歩きつつ行儀は悪いと分かっていながら足で薫の部屋の襖を開けた。部屋の真ん中に敷かれていた布団に歩み寄り、ゆっくりと横たえさせ布団をかけてやった後、乱れていた前髪をそっと撫でる。…そうだ、自分じゃ彼女を泣かせてやることは出来なかった。
豪炎寺と彼女は「友人」だから。対等でありたいと願う彼女はいつだって、弱みを見せてはくれない。泣きたいときや、辛いとき。そういうのを吐き出すことの出来るのはいつだってそれこそ円堂や風丸の役目だった。
「…笑っていてくれ」
ならばせめて自分は、彼女を悲しめ苦しめる全てを阻む壁でありたい。彼女が逃げられない窮地に立たされたとき、抱き上げて逃げ出してやれるような足でありたい。
自分だって今まで、嫌というほど救われてきた。自分を責めてサッカーから目を背け続けていたあの頃、疑心暗鬼に陥った自分に睨めつけられてなお無邪気に言い放ったあの言葉を今でも忘れられない。
『サッカーを理由にしなきゃ、豪炎寺くんと仲良くなっちゃいけないの?』
あの言葉が心に落ちて、枯れない想いの種を植えつけた。まるで、サッカーが出来なくとも自分が価値ある人間なのだというように。踏み込まれたくない内側の一歩手前で手を差し出して、豪炎寺が踏み込ませてくれる瞬間を気長に待っていてくれた。そんな冷たいようで優しい思いやりに、たしかにあの日の自分は救われたから。
『どこに居たって、何があったって豪炎寺くんは豪炎寺くんだよ』
彼女を救える人間になりたい。
苦しみを肩代わりしてやれる存在になりたい。
それはサッカーで、自分の言葉で、自分の体で、それこそ自分の持つもの全てで。
…盲目的だと笑えばいい。それでも間違いなくこれが自分の恋だった。きっとこの先、彼女が自分でない誰かを選んで好きになったとしても、この気持ちは変わらない不変のものだ。いつだって自身を犠牲にしてまで優し過ぎる彼女が笑って幸せになれる世界であるならば、たとえそこに自分が居なくても構わないとさえ思う。…だから、どうか今だけは許して欲しい。
「お前が好きだ。…いつまでも、ずっと」
こうして眠る彼女に向けてしか想いを告げられない臆病な自分を、今だけは。
決して多くを望みはしないから。
…指の背で前髪を払って、額にひとつ唇を落とす。恋を心に黙した少年はそのまま立ち上がり最後に少しだけ、眠る少女に微笑んで。
そうして、夜の帳は降りてゆく。