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みんなの元に戻れば、もう既に大半の人たちは散らばっていて、反応を見るに明日の富士山へ向かうかどうかの意見は見事真っ二つに割れてしまったらしい。
土門くんや一ノ瀬くん、リカちゃんなどの「監督を信じられないから降りる」派。
守や豪炎寺くん、私などの「監督のことを信じる」派。
あとは監督は信じられるか微妙だけれど、明日の富士山麓へは向かうという人がほとんどだった。

「…守は今夜、キャラバンに泊まるの?」
「あぁ…俺は、ここで一番にみんなを待つ」

私は家に帰ることにした。秋ちゃんたち他の女の子たちもそれぞれ家に帰るというし、塔子ちゃんは今日は秋ちゃんの家へ。リカちゃんは、私と意見が違うようだからきっと気まずくて泊まりには来ないだろう。案の定、秋ちゃんの家にリカちゃんは転がり込んだようだ。

「あら、雨が降ってきたわね…守、大丈夫かしら…」

洗濯物を畳んでいればふと外から雷の鳴る音が聞こえてきて、私は思わず不安に駆られる。…落雷は、ときどき重たい何かが落ちるような音に聞こえるときがある。思わず身を竦めてしまいそうにさえなることもあった。そんな腹の底にまで響くような、震えてしまいそうなその音を聞いて、彼は。
…枝から落ちた雪にさえ怯えるという士郎くんは、果たして大丈夫なのだろうか。

「…お母さん、ちょっと出てくるね」
「外は雷で危ないわよ!」
「すぐ戻るから!」

傘を二本。そして大きなバスタオルをトートバックに詰めて家を飛び出す。とりあえず早足で学校の方に向かいながら電話をかけた。…士郎くんが電話に出る気配は、無い。キャラバンはみんな出払っているのか誰も居なくて、当然グラウンドにも人は居ない。
修練場にきっと士郎くんは居ないだろう。今の士郎くんが、あそこを利用するとは思えなかった。…それなら、消去法で残るのは。

「…いた」

見つけたのは、グラウンドのある河川敷の橋の下。膝に顔を埋めて小さくなっている士郎くんの元へ足早に駆け寄る。
士郎くん、と呼びかけながら軽く肩を叩けば、彼はどこかぼんやりとした表情で俯いていた顔を上げる。その目は、少しだけ赤くなっていた。…泣いたのだろうか。

「探したよ、士郎くん」
「…さがし、た…?ぼくを…?」
「うん、迎えにきたよ」

この雨の中で冷え切ってしまったのか、冷たい体に私のカーディガンを羽織らせる。このままでは風邪を引いてしまうだろう。それはいけないと思った。
カーディガンを羽織らされている間もぼんやりしていた士郎くんは、私が手を差し出してもなかなか立ち上がる気配を見せない。…どうしたのだろうか、と私が首を傾げていれば彼は少しだけ自嘲するように笑った。

「…どうして、僕なんかに構うの。僕は…僕は、何の役にも立てない、完璧にすらなれなかった人間なのに」
「…そっか、そうだったね。士郎くんは、完璧になりたかったんだったよね」
「……うん」
「完璧になりたがるのは大切なことだよ、士郎くん。みんな、完璧を目指してサッカーをしてるから」

でも、前も言ったように完璧が人の幸福だとは限らない。少なくとも私は、完璧を目指しても完璧に至ってしまうことは、少しだけ恐ろしい。
完璧という降りることすら許されない頂の上で、何も無い景色を眺める孤独しか無い終わりを、私は欲しいとは思わないのだ。

「…士郎くん、サッカーは好き?」
「…?うん、好き、だけど…」
「完璧じゃないのに?」
「!そ、れは…」
「あ、違うの。嫌味とかじゃないの。だって私も完璧じゃないけどサッカーが好きだよ。…完璧じゃないからこそ、きっと好きなんだと思う」
「…完璧じゃない、からこそ…」

上手くなりたい。
強いチームと戦いたい。
あの人に負けたく無い。
色んな理由を抱えて人はサッカーをしている。私がサッカーを始めた理由だって、守といつまでも一緒にボールを蹴っていたいからだった。…かつての私はそれが叶わない夢だと知って、一度は諦めてしまったけれども。今はただ一人の選手としてサッカーをしてみたいとも思っているから。

「ねぇ、アツヤくんの声は聞こえる?」
「…」
「聞いてあげようよ、士郎くん。一言でも良い、君だけにしか聞こえないアツヤくんの声を、君だけは聞き逃さないでいてあげて」
「…僕、だけ」
「私たちは、士郎くんに寄り添えるよ。何があったって君を一人にはしない。…でも、士郎くんの心の中にいるアツヤくんに寄り添ってあげられるのは、士郎くんだけだから」

士郎くんの中にいるアツヤくんは、士郎くんの心の一部だ。だから彼がアツヤくんの声を聞くことは、自分の声に耳を傾けることと同じで。

「…帰ろうか、士郎くん」
「…かえる」
「うん、士郎くんが良ければ、またうちに帰ろうか。何かして欲しいこととか、あったりするかな」
「………手を、握って」
「ん」
「離さないで、欲しいんだ。…僕が、帰り着けるまで」
「うん、そうだね。手を繋ごうか」

差し出した左手を、士郎くんは今度こそ繋いでくれた。ゆっくりと私の指先を摘むようにして握り込んだその手を、私はこちらから包み込むようにして握り直す。士郎くんはそれに少しだけ肩を跳ねさせたけれど、私が微笑んでいるのが見えたからなのか、安堵したように息をついてゆるりと笑った。
…そして、次の日の朝。家を出る前に士郎くんに手を繋ぐか尋ねたものの、士郎くんは黙って首を横に振ってそれを断った。その顔に、無理をしているような素振りは見られない。大丈夫?と尋ねた私に、士郎くんは大丈夫だよ、と。その心配が心底嬉しいのだというように笑って頷いた。





明日の朝、全員が集まってくれるのだろうか、という心配で一応スパイクを持ってきてしまった私の心配はどうやら杞憂だったようだ。昨日、啖呵を切ってしまった気まずさからか、リカちゃんに引き摺られるようにして出てきた一之瀬くんと土門くんの姿に思わず安堵する。
ちょうどその時八時になって、昨日の宣言通りやってきた瞳子監督は私たちの顔を見渡してゆっくりと尋ねた。

「…みんな、良いのね?」
「はい!」

…まだ、一之瀬くんたちは監督のことを信じたわけじゃ無い。エイリア学園から逃げたく無いと思いで彼らはここにいる。けれど、それでもここに来たからにはもう逃げられないのだ。
バスに乗り込み、みんながみんな何も言わず自分たちの決まったいつもの席へ座り込んでいく。私もいつも通り、守と立向居くんの間に座ってシートベルトを締めた。

「さあ…出発しましょう!」

バスは私たちを乗せて前へ進む。
向かう先は富士山麓。全ては今日までの決着を着ける為に。





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