この心臓のはんぶんはもうきみの色をしている


初恋の人に恋人ができた。太陽のような光を背負って、この世の全てを照らしてくれるような眩い人だった。小学生の頃、陰気で下ばかり向いていた暗い少女に「サッカーしようぜ」なんて笑って彼が手を伸ばしてくれたあの日。私は生まれて初めて、人が心を救われたときに感じる幸福の愛おしさを知った。

『苗字ってすげぇ良いやつだよな!俺の話だって呆れず聞いてくれるしさ!』

君の話だから、一言一句聞き漏らしたくなかったのだと言ったら、あのときの君はどんな顔をしたのだろう。君の友人という立場にぬるい安堵を覚えていた、あの頃の私にしか聞けなかったあの問いは二度と吐き出されることなく、この昏い胎の底でいつか消える日を待っている。
…君の側に居るために、私はいったいどれだけ努力を重ねたのだろうか。
マネージャーに誘われて、足を引っ張りたくないからとサッカーを一から勉強して、仕事だって手を抜かずに頑張った。この恋心だけは知られたくなかったから、いつだって私はみんなの輪から外れて、ひっそりと君の笑う顔を眺めて。

「…ばかだなぁ」

物語のヒーローのような人だったから。すべてを愛し、すべてに愛されるような素敵な人だったから。そんな君の隣には、ちゃんと相応しいヒロインが存在していた。少なくともこんな臆病な女じゃない、どんなときでも君の隣で堂々と振る舞いながら支えてあげられる、ヒロインが。
そしてそれを分かっていたくせに、こんな結末がいつか訪れると知っていたくせに。恋を殺すことも、押し込めることさえできなかった愚か者は、こうして不相応な傷を抱えて泣いていた。

「そもそも、私なんて」

選ばれるはずなんてなかった。円堂くんに嫌われたくないと怯えて、彼にとっての大多数でいることを選んだ私が、彼の特別になんてなれるわけがなかったのだ。…そう分かっていても、この涙は止まってくれないのだけれど。
思わず嗚咽をこぼして、ずるずるとその場にしゃがみ込む。これ以上、あの子と手を繋いで笑い合っている円堂くんの顔を見ていられなかった。だってどれだけ私が願っても、彼のあの顔だけは手に入れられない。私には届かぬ、及ばぬ願いだと惨めにも理解していたから。

「…苗字、か…?」

…けれどその瞬間、背後で私の名前を呼ぶ声が聞こえて、私は反射で振り返った。そこには、同じサッカー部でエースストライカーをしている豪炎寺くんが立っていた。彼はたしか円堂くんと同じ中学の出身で、誰よりも仲の良い親友同士だったはずだ。けれど私からすれば彼は、どこか近寄り難い雰囲気を纏う人で、部活で話すこともほとんどないような間柄だった。それに、豪炎寺くんはたしか隣のクラスだったはずだ。なのにどうしてこのクラスに居るのだろうか。

「…泣いてるのか」
「…」
「何かあったのか」
「…何でもないよ、私帰るね」

泣き顔なんて見られたくなかった。私の惨めな恋の終わりなんて、私だけが知っていれば良かった。だから私は豪炎寺くんの言葉を退けて彼を置き去りにしたまま、雑に引っ掴んだバックを持って教室を後にした。
私は一度も振り返らなかった。
豪炎寺くんも追いかけてはこなかった。





私の恋が終わったからと言って、そんな私の想いを知らない円堂くんはいつもと変わらない。私はこんなにも君のことで振り回されているのに、と皮肉に思う反面、私なんかのことで円堂くんに迷惑をかけなくて良かったと思ってしまうのだ。
しかしそれよりも、私には今悩みがある。あの日以来、何故か豪炎寺くんが妙に私を気にするようになってしまったのだ。

「苗字」

ほら、今も。部活中、何故か給水ボトルを私に強請るようになった豪炎寺くんに、私は警戒心を露わにしながらも渡す。彼はそれを何度も喉を鳴らして飲み込むと、再び量の減ったボトルを私に託した。

「悪い」
「…ううん。仕事だから」

他のマネージャーの子や部員の人からは「最近豪炎寺と仲良いな」なんて言われるけれど、その原因は何となく分かっている。あの放課後の教室、私が泣いているのを見られてしまったこと。今までは遠ざけていた存在だったから知らなかったけれど、どうやら豪炎寺くんは知人程度の女の子に対しても気配りをするような優しい人だったらしい。…でも、その優しさは私に必要ないものだ。

「苗字、ノートを職員室に運んでくれ」
「はい」

だから最近、私が家の中以外の日中で唯一心を休められるのは普段の学校生活だけになった。豪炎寺くんとはそもそもクラスが違うし、特に仲が良い訳でもないから話すことも無い。豪炎寺くんのクラスの前を通るとき、意識して視線を逸らしてしまえば、関わることも皆無だった。…なのに。

「苗字」
「………どうしたの?」
「手伝っても良いか」

何故か教室から出てきた豪炎寺くんは、そう言って返事も待たずに私の腕の中にあるノートをほとんど掻っ攫ってしまった。そもそも聞き方も卑怯だ。「手伝おうか?」という聞き方なら私も断れたのに、そんな言い方じゃ断りにくい。…実際、ノートは私一人で持つには重かったから助かったのだけれど。

「…」
「…」

並んで職員室へと歩いていく。しかし私たちの間にあるのは沈黙で、特に話すこともないから気まずいことこの上なかった。けれど一応、豪炎寺くんの善意を受けているのだ。私は何とか苦心して話題を捻り出す。

「…次の授業、移動とかじゃなかった?」
「!…あぁ、現代文だからな」
「そっか」
「…そっちも今現代文だったよな。漢字テストはあったのか?」
「うん、あったよ」

辿々しいながらも、ようやく沈黙を気まずく思わない程度の会話を進められた。まぁ会話とは言っても、話すことはさっきの授業のことだったり、部活の話だったりとありきたりなことばかりだ。本当は、どうして最近私に話しかけるのかその本意を聞きたかったのだけれど、それはどうしても聞きにくくて。私はそれ以外の話題を紡ぐしかなかった。

「ここまでで良いよ、ありがとう」
「あぁ」

やがてたどり着いた職員室の前でノートを受け取る。手元に返ってきたノートの重みが腕に食い込むのを感じて、豪炎寺くんが相当の量を持っていてくれたことを察する。その気遣いが嬉しくて、私はもう一度お礼の言葉を告げた。
そして職員室へと入ろうと体の向きを変えれば、そのときふと背後から豪炎寺くんに名前を呼ばれた。振り返ればそこには、どこか複雑そうな瞳を揺らして私を見据える豪炎寺くんが居て。

「…無理はするなよ」

それだけを言い残して豪炎寺くんは踵を返した。私はしばらくその場に呆然と立ち尽くして、今の言葉の意味を考える。豪炎寺くんの言った「無理」とは何を指しているのだろう。彼はいったい、私の何を知っているのだろう。
あの日の涙の意味を知っている人は、誰もいないはずだ。だって誰にも明かさなかった。私の心にだけ秘めていたから。だからこそ不思議だったのだ。ただのチームメイトである私なんかを、理由も分からないまま気遣う豪炎寺くんのことが。それに突然そんなことをすれば、周囲にあらぬ誤解をされかねない。…だから。

「豪炎寺と付き合ってんの?」

部員の一人にそう聞かれたとき。よりにもよってそれを、円堂くんの前でそう聞かれたとき。私は身体中から血の気が引いていくような錯覚に陥った。咄嗟に出た否定の言葉は、果たして震えていなかっただろうか。

「豪炎寺と名前?なんで?」
「円堂知らねーの?最近あいつら仲良いって噂なんだよ」
「へー」

やめて欲しかった。そんな根拠の無い噂を円堂くんに吹き込んで欲しくない。だって私が好きな人は豪炎寺くんじゃないのだ。私が本当に好きなのは、もう私なんかの手は届かない遥か遠くに行ってしまった、君なのに。
けれど豪炎寺くん本人がこの場に居なかったからだろう。もしかすると本人にも尋ねて、相手にされなかったのかもしれない。少ししつこいくらいに部員たちは、私と豪炎寺くんの関係性を疑ってきた。

「でも豪炎寺が女子と話すのなんて珍しいし、案外お似合いじゃね?」
「…豪炎寺くんは優しいから、気遣って話しかけてくれるだけだよ」
「そうかぁ?」

それでもなお疑うような素振りで首を捻る部員たちに、私は密かな焦りを感じる。話題を変えたい。これ以上こんな不毛な話をしたくない。でも私が焦れば焦るほど周りは勘繰るらしく、「やっぱり付き合ってるんじゃないか」なんて口にする。けれどそれだけは認めるわけにはいかない私は頑なに否定して。…そんな私の焦りのような何かを感じ取って気にしてくれたのだろう。円堂くんは「そろそろ練習しようぜ!」と部員たちの背中を押して練習へと追いやった。ようやく終わった話にホッとして、私は円堂くんにお礼を告げる。それを聞いた円堂くんは何でもないように手を振って。

「でもさ」

…けれど次の瞬間、私がこの世で最も聞きたくなかった残酷な言葉を、その太陽なような笑顔に添えて吐き出したのだ。


「豪炎寺も名前も良いやつだし、俺も悪くないと思うぜ!」


何の悪気も含まない、ただ眩しいだけの笑顔でそう言ったから。もう殆ど死にかけのようなこの心は、悲惨にもずたずたに引き裂かれて悲鳴を上げる。しかしいっそ泣き叫んで何もかもを喚き散らしてしまいたいような衝動に駆られながらも、私はそれでも。

「…豪炎寺くんとは、ただのチームメイトだよ」

それでも愚かな私は、円堂くんを煩わせたくないだなんて健気な想いのままに、何でもないような顔で笑ったのだ。





私の恋なんて所詮、最初からこんな惨めな思いをする運命にあったのだろう。本当に好きな相手に他の男子との仲を応援される。惨めで、滑稽で、情けなく、馬鹿馬鹿しい。そんなおせっかいのような善意を、「円堂くんからだから」という理由で拒めない私はきっともっと馬鹿だった。
部活が終わってマネージャーのみんなと手分けして片付けを行う中、私は一人になりたい欲を優先してボトルの洗浄を請け負い、周囲の目を避けるように訪れた校舎裏の水道で、たくさんのボトルを無心で洗いながら私はぼんやりとそんなことを考えていた。
円堂くんを好きにならなければ良かったとは思わない。
だって円堂くんへの初恋が、紛れもない私自身の在り方を変えてくれたのだから。今までぼんやりとした世界の中で、初めて私に価値を与えてくれた人。彼の見る世界はこんなにも美しいのだと教えてくれた人。そんな彼に手を引かれて、私は新しい世界へ足を踏み入れたのだ。

『きっとお前もすぐにサッカー好きになる!』

円堂くんはそう言って私をマネージャーに誘ってくれたけれど、そのサッカーよりも先に君を好きになったのだとそんな不純なことを言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。きっと何も気づかずにお礼を言うか、たとえ気づいても律儀で真っ直ぐな人だから悩みに悩むかもしれない。…そんな言葉を送る機会は、少し前に永遠に失われてしまったのだけれど。
私じゃない女の子を選んだ円堂くんに、今の私の想いは重荷にしかならない。だから一生この想いは隠してしまおうと思っていたのに。

『俺も悪くないと思うぜ!』

そんな彼自身の口からそう言われて、何もかもが分からなくなってしまった。いくら私が彼を思って心を隠しても、そもそも何も知らない彼は至って純粋な善意で私の心を傷つける。きっともう円堂くんは私たちが、友人以上の関係性に見えるのだろう。
好きなのに。
私にとっての恋は君だけなのに。
…でもそれが決して、誤解した部員の彼らや私に優しくしてくれる豪炎寺くんだけの責任では無いことは、私にも分かっている。

「苗字」

豪炎寺くんの優しさを突き放さず、ずるずると受け入れてしまった私の弱さだってきっといけなかったのだ。
ちょうど最後のボトルを洗い終えた瞬間に背後から声をかけられて振り向けば、そこには軽く息を乱した豪炎寺くんが立っていた。どうやら私を探していたらしい。

「悪い、あいつらから聞いた。余計なことは言うなと釘を刺しておいたんだが…」
「…豪炎寺くんは、どうして私に優しくするの」

もう、何もかもがどうでも良かった。無意味な恋に悩み苦しんで、意図の分からない優しさに安堵を見出すことも私はうんざりだった。
全部終わらせたい。もう楽になりたい。
そんな願望のままに、私は豪炎寺くんにそう尋ねた。いっそ、何か思惑があるからと言われた方が私は楽だった。楽だったのに。

「…遠くにいると、お前が、一人で泣いてるんじゃないかと心配になる」

あのときのように。豪炎寺くんは確かにそう言った。そして私は、私にだけはそれがいつのことを表しているのかをすぐに悟ってしまった。
そしてそれを聞いて初めに湧いた感情は、羞恥による怒りだった。同情された。私の恋の終わりを、その涙を。誰も知らない私だけのものであったはずの苦しみを、優しさという名の同情に踏み躙られたと感じてしまった。そしてそれがよりによって豪炎寺くんからだったことに、私の心は何故か憎悪に歪んで。
これ以上、彼の話なんて欠片も聞きたくなくて、私は咄嗟に踵を返した。しかし豪炎寺くんはそんな私の腕を掴んで引き留めた。…そうやってまた、くだらない同情なんかで私を振り回すんだ。

「…やめてよ」

だから私は、豪炎寺くんを鋭く睨みつける。一瞬戸惑うように揺れた豪炎寺くんの瞳を見据えて、怒りと屈辱を込めて叫んだ。…思えば、彼とこんな至近距離で真っ直ぐに目を合わせたのは、これが初めてだった。

「同情なんてしないで!」
「俺は同情なんかしない!」

豪炎寺くんは私の肩を掴むと、私の怒りを即座に否定した。じゃあ同情じゃないなら、いったい何。私なんかを気にかけて、周囲の目も気にせず私なんかに声をかけ続けるのはどうして。
豪炎寺くんはどうして、まるでやり切れなさを抱えたように瞳を揺らして、私を見ているの。

「…好きだからだ」

豪炎寺くんの優しさの意味が心底分からなかった。だからその言葉を聞いたとき、私はそれを最初は信じられなかった。何かの聞き間違いか冗談かと思ったのだ。けれど豪炎寺くんはそんな私の疑惑を否定するように言葉を重ねて繰り返した。

「お前が、好きだからだ」

何もかもを燃やし尽くしてしまいそうなほどに熱く揺らいだ瞳が、冗談では無いと訴えている。私から逃げ場を奪うように、私の全てを絡め取ろうとする。それが何だか嫌で、負けを認めてしまうような気分になりそうで。私は必死に考えを巡らせて彼の思いから逃げる術を探した。

「…私、好きな人居るよ」
「知ってる」

辛うじて絞り出した私の台詞に、「円堂だろ」と呟く豪炎寺くんが一瞬だけ哀しみに目を伏せて、けれどすぐに私を見つめ直した。…それならなおさら、どうして。私という人間に取り柄なんて一つもない。加えて無様で無謀な恋なんかをする馬鹿で浅ましい私なんかが、他の人から好かれる要素なんて一つもないのに。

「私が、私自身でさえ嫌いな私なんかを、どうして豪炎寺くんが好きになるの」

眩い初恋を叶えられなかった私を。
それでもなお円堂くんを忘れられない未練がましい私を。
豪炎寺くんの好意でさえ端から疑うような最低な私を。
良いところなんて一つも出てこないくせに、嫌なところばかりはいくらでも出てくる私なんかを好きになる意味が分からない。いっそドッキリだとか、罰ゲームだとか言ってもらった方が随分マシだ。…けれど豪炎寺くんは私の肩を掴んだままどこか泣きそうに、しかし瞳だけは少しも逸らさないまま。私の燻る心ごと射抜くようにして言葉を吐き出す。


「俺が好きなのは、円堂のことが好きなくせに、あいつの為を思って何も言わずに泣いていたあの日のお前だ!」


あの日を思い出す。私の恋が破れて、二度と叶わないことを知らされた惨めなあの日を。誰もいない教室の窓際、寄り添って歩く彼の笑顔を見つめて一人でひっそりと泣いていた。
…けれど、そういえば。ちゃんと居たのだ、そんな私を見つけてくれた人が。誰も知らない私だけの恋に価値を見出して、私だけの恋を肯定してくれたのが、豪炎寺くんだった。

「ずっと見てたんだ。お前は知らないんだろうが、俺はずっと、円堂を見つめて嬉しそうに笑うところも、真剣な顔で仕事に取り組むところも、他の女子と話している姿を見て泣きそうになっていたところも全部見ていた」

気持ち悪いだろ、と豪炎寺くんは自嘲するように吐き出す。やけくそで吐き出したらしい彼なりの精一杯の愛の言葉は、たしかに純粋とは言い切れない複雑な想いに満ちていた。
けれどそれを切り捨てて、拒絶しようとは思えなかった。そんな告白に喜びを、嬉しさを感じて揺れた心はどうにも、この無謀な恋で傷つき過ぎてしまっていたらしいから。

「お前が円堂をまだ好きなのは分かっている。…だから俺にも、お前を好きでいる権利をくれ」

やっぱり狡いその聞き方に黙ったまま、それでも一つ小さく頷いた私に、豪炎寺くんは安堵したように息を吐くと私の手を引いて歩き出した。それに倣うようにして歩き出した私はこのとき、たしかに一つの恋に区切りをつけてみせた。
私の恋はまだ終わったばかりで、太陽のようだった彼を思う心は未だ私の中に燻っている。けれど突き刺さった抜けなかった失恋の棘は、ようやく消えて痛みに疼く傷だけを残した。
そしていつかこの傷も、痕を残して綺麗に消えてしまうのだろう。
そうして私はきっとまた懲りずに新しい恋をするのだ。
けれどその恋が始まるのは、まだこの傷が癒えぬままでも構わないだろうか。私の手を引いて歩いてくれるこの優しい人に赦してしまった心のまま、今度は彼の優しさに応えても構わないのだろうか。

(それはまだ、分からない、けれど)

もしもそれが赦されるというのならば、私は。
そんな優しく不器用なこの人が居る同じ世界で。君の想いを呑み込んで、いつかは同じ色に染まってみたいと、たしかにそう思ってしまったのだ。