トロイメライの終焉



『気味が悪い子ども』

私が普通でない子供なのだと悟ってしまったのは、ある日お母さんに連れられて訪れた図書館で、大人たちの奇異の目が向けられていたことに気がついたときだった。まだ四つ程度の子供が背伸びをして大人が読むような本に手を伸ばしていれば、誰だってそう思うのだろう。可愛らしいイラストで描かれた絵本に興味を示さない私は、子供らしくないと気味悪がられた。
そしてそんな大人たちの悪意や忌避に、子供たちはもっと敏感だった。私が普通でないからと仲間外れにされることがほとんどで、私はいつしか家から出ることも嫌になり、部屋の中で本を読むか絵を描くか、テレビの前でジッと座っていることしかしなくなって。

『一香は何も悪くないの』

そんな私を認めて、歪さでさえも私の個性だと笑って受け止めてくれたのはお母さんだけだった。私が物心つく前からお母さんは一人で私を育てている。父親は影すら見えず、写真の一枚も残ってはいなかった。そして何より、お母さんは未婚だった。結婚することのないまま何処かの誰かの男の子供である私を産み落として育てて。
つまり父から母は私ごと捨てられたのだろう。そのせいで、実家とは縁を切られたらしい。それでも私を育てるためにお母さんは必死で毎日働いていた。

『一香はね、笑うとお父さんに似てるわ。いつも素直じゃない人だけど、ときどき笑ってくれるあの人の笑顔が、お母さんは好きだったのよ』

お母さんは父を恨んではいなかった。自分を捨てた男を、自分が苦労する原因になった私でさえも愛してくれたお母さんは、私の知る中で誰よりも美しく優しい人間だったように思える。
ころころと鈴の鳴るような可愛らしい声で笑う人だった。
料理が上手だったけれど、ホットケーキを焼くのだけは下手くそで、いつも真っ黒に焦げたホットケーキを目の前に苦笑いして誤魔化す。私はそんなお母さんによくホットケーキをねだった。一生懸命、フライパンを睨みつけて生地を焼くその姿を側で見ているのが好きだった。
仕事で疲れて帰ってきても、真っ先に私を抱き締めて「ただいま」と笑ってくれる。
そんなお母さんのことが私は大好きで、ずっと一緒に居たくて。…だから。

『ごめんね、一香』

お母さんの病気が発覚したのは、私が五つになる年の春だった。台所で血を吐いて倒れたお母さんは、私が泣きながら電話して呼んだ救急車に運ばれて病院に搬送されて。
たったの半年しか残らない命であると言われた。
もともと心臓の弱かったお母さんは、無理して私を産んだこともあり、前よりも随分身体が弱っていたのだという。それに加えて私を養うために毎日死に物狂いで働いた。…そのせいで身体にガタがきて、もうどうしようもないほどにお母さんの身体はボロボロになってしまっていた。

『お母さん、頑張って長生きするから』

分かってるよ、お母さん。本当はそんなの無理だって私、分かってた。そんな希望のような強がりを信じて笑っていられるほど私は子供じゃ無い。でも他でもないお母さんが、私に笑って欲しそうにしてたから、私だって笑ったの。
そうすれば本当にお母さんが助かるんじゃないかなんて、あり得ない可能性に縋ったりなんかもして。

『あのね、一香。お母さんと約束して欲しいことがあるの』

だからあの日、本当はお母さんの話を私は聞きたく無かった。もう弱々しい力でしか握り返してくれないお母さんの手を、私は一生懸命握って、まるでその魂をここに繋ぎ止めようと必死になって。

『いつかで良いの。誰かに必要とされるような人間に、あなたはなりなさい』

だってその言い方は、まるで遺言だった。今にも私を置いていってしまいそうなお母さんに私は泣くばかりで、ろくな言葉も返せない。けれどお母さんはそんな私を見て笑ったのだ。そんな私でさえ愛おしいと言わんばかりに微笑んで、最後に精一杯の力で私の手を握り返して。

『愛しているわ、一香』

それっきり心臓の鼓動を止めて、お母さんは私を置いて逝ってしまった。残された私だけがその部屋で泣いていて、誰も私を慰めてはくれなくて。
だって私は異端者だ。
歪な人間だ。
普通の人間とは違う私に、手を差し伸べてくれる人は誰もいない。…そう思っていたのに。

『____君が、××一香かね』

貴方だけが私を見つけてくれた。貴方だけが私に手を伸ばしてくれた。
影山総帥。その人だけが、この世界で一人ぼっちになってしまった私の手を取って、居場所と存在価値を与えてくれた。お母さんから遺された言葉の意味を考えて、飲み込んで。私は誰よりも、この人に必要とされたいと思った。

『私のことは総帥と呼べ』

けれどあの人はきっと、私をただの道具としか見ていなかったのだろう。幼い頃のあの日、勇気を振り絞って呼びかけた言葉を否定された時、私は本当は泣きたくて仕方がなかった。けれどあの人がそれを望むのならと堪えて、私は無理やり微笑んで。
私はきっと誰よりも、貴方に愛して欲しかったのだと思う。
手を繋いでくれたのは一度だけ。あれきり、私に背を向けたままなあの人に振り向いて欲しくて、勉強もお仕事も必死に頑張って。そうすればいつか私のことを褒めて、娘だと認めていただけるんじゃないかなんて淡い希望さえ抱いていた。

『笑うな』

だから笑わなかった。感情を見せてはいけないと命じられれば、それに従った。

『鬼道をサポートしろ』

だから鬼道様に献身を見せた。お友達を止めてしまった私たちの間に、二度と繕えない亀裂が生まれると分かっていて、私は鬼道様から一歩退いた。
…けれど、それでも総帥は私のことを見てくださらなかった。裏切りの汚名を晴らさんと足掻く私を一瞥さえせず、あの方はあっさりと私を捨てられてしまって。


『お前は私の計画に必要無い』


何度だって伸ばした手は。
何度だって絞り出した声は。
所詮あの方にとってはどうでも良いことでしかなかった。いつだって切り捨てることのできた都合の良い駒に成り下がった私を嘲笑うように、何の躊躇いもなく手放されたあの瞬間の絶望をきっと誰も理解することは出来ない。
…いや、違う。誰も理解しないで欲しかった。

『いかないで』

だってあれは、私だけが持ち得た愛だった。誰も犯すことの出来ない、不変で不滅の想いだった。
私の愛は盲目で、総帥だけが私の世界の唯一だったのだ。総帥のためならば何でも出来た。総帥の側にさえ置いてくれれば、他に何も望まなかった。本当に、それだけが私の望みだったの。





「私には、総帥だけが希望でした。あの人だけが私を救い、私を見つけて、私に存在価値を与えてくれた。だから私は、あの人の為だけに生きていたかった」

病院の白い壁に囲まれた個室。入院着に身を包みながら膝を抱えて蹲るようにベッドの上で座る彼女がぽつぽつと溢す昔話を、響木はただ静かに聞いていた。口を挟むこともなく、たとえ彼女の語る聖人のような男が実際は悪魔のような男であると分かっていても、響木は彼女の言葉を否定しなかった。
真帝国学園が沈んだ後、彼女は海上に浮かぶビニールボートの上で発見された。気を失って海を漂う彼女を保護した後、しかし彼女は生気を失ったかのように呆然としていたのだという。

『一時期は、食事さえも拒んでいました。今は何とか看護師や我々の説得で少量を口にしてはいますが…それでも、痩せる一方です』

面会さえも拒んだ。エイリア学園の騒ぎがひと段落つき、彼女に会いたいと訴えた鬼道らの願いを全て彼女は跳ね除けた。まるで自ら孤独を選び取り、何者の侵入を許さない堅牢な孤城に閉じ籠もるかのような彼女は、たとえ誰の名前を挙げても頑なに首を横に振って再会を拒む。そして会わなくても良いのかと尋ねた看護師に対し、彼女は決まってその虚な目に涙を浮かべて言うのだ。

『そうすいに、あいたい』

その一言だけを繰り返し、静かに嗚咽を溢す彼女を見ていると何も言えなくなってしまう。時折事情聴取のために病室を訪れた鬼瓦も、素直に真帝国学園の経緯を話した彼女に始めは狼狽えたのだという。あの日、影山をこれ以上裏切りたくはないからと頑なに口を閉ざし続けていた彼女が、こんなにも簡単に情報を吐き出した訳を思わず尋ねた。

『私は、償いを、しなくては』

彼女が挙げた名は、佐久間や源田、そして染岡の名だった。自分のせいで苦しめた、と呻きながら顔を覆う彼女に責任は無いのだと諭しても、それでも彼女は首を振って己の罪を肯定する。鬼瓦には、彼女のその心を蝕む絶望が見て取れたと語った。
そんな彼女の元に響木は根気強く通い続けた。顔を合わせることが出来ずとも毎日のように足を運び、短い手紙や差し入れで彼女を気遣って。
そうしてある日、彼女は響木を病室に招き入れた。数ヶ月ぶりに顔を合わせた彼女はかつて対面したときとは変わり果て、触れてしまえば今にも壊れてしまいそうな様子に、響木は思わず絶句した。

『…毎日のように来ていただいて、ありがとうございました』

響木は問いかけた。何故今まで顔を合わせなかったというのに、今になって自分と会う気になったのかと。それを尋ねられた彼女は薄らと笑んで答える。

『もうすぐ、退院します。そうすれば私はこの地から離れ、二度と帰ってはこないつもりです』

身寄りの無い、引き取られるあても無い。おまけに今や犯罪者となった養父の娘となれば、誰も見向きもしないだろうと自嘲した彼女はどうやら、どこかここから遠く離れた孤児院か何かに身を寄せるつもりでいたらしい。もう二度と鬼道や円堂たちと顔を合わせる気も無いと語った。

「…本当にそれで良いのかね」
「はい、だって、私は間違え過ぎました。優しい人の思いを全て裏切って、踏みにじって、私は結局何も手に入れられないままここにいる」

鬼道も円堂もそんなことは少しだって気にしてはいないと諭してもきっと彼女の心はそれを拒むのだろう。もう一度人を信じてみせるには、彼女はどうにも絶望し過ぎていた。
影山零治という響木からすれば哀れな敵でしかない男でも、彼女にとって奴は誰よりも慕うべき父であったから。
…そんな彼女に響木はかつての自分の姿を重ねた。同じ男に裏切られ、人生を狂わされる。そうして自分が得た人生を、彼女に歩んでほしくは無かった。そんな響木の胸中さえ知らず、彼女はぽたりと涙を落とす。何もかもを諦めきった顔で溢した言葉を、響木は静かに聞いていた。


「もう、良いんです。私はやっぱり、要らない子だった。お母さん以外には愛してもらえない、だめな子でした」


愛して欲しかった、と彼女は言う。
置いていかないで欲しかった、と彼女は言う。
たったそれだけの願いで何もかもを放り捨ててみせた彼女はしかし、もう二度と立ち上がれぬほどに傷ついていた。
そして影山に二度も突き放されたことで、彼女はようやく目を覚ましたらしかった。
だからこそ響木はそんな彼女に救いを望む。同じ被害者であるからこそ、彼女は救われるべきだと思った。自分が時を経て、今の雷門中サッカー部に救われたように。

「…本当にそうかね」

響木は影山一香の絶望を否定する。
まだ何もかもを諦めて蹲ってしまうには、早過ぎているから。少しだけ呆然としたような彼女の肩に手を置き、響木はその目を真っ直ぐに見つめて言葉を差し出した。これは、他でも無い自分だからこそ言えることなのだ。

「人は変わるものだ。お前さんが鬼道を変わったと評したように、お前さんだっていつかは変われるときが来る」

まだ影山の呪縛から解き放たれたばかりの孤独な彼女は、立ち上がる術さえ知らない赤子のような存在である。しかし手酷く突き放されてもなお、無意識に影山を求めてしまう彼女はそれでも現実を見ていたから。

「そしてその瞬間を掴むことが出来るのは、お前さん本人だけだろう」

彼女は、もう二度と影山零治が自分を求めることはなく、自分が奴からの愛を得ることは無いと思い知らされた。それならば次は、立たねばならない。自らの足で立ち、誰かと対等に寄り添いながら歩む。そんな人間としての道のスタートラインに、彼女はようやく今置かれていた。
そして響木は、その手助けをしてやれるのは鬼道たちであると思っている。鬼道もまた、未だ影山の呪縛から完全に解き放たれてはいなかったから。


「もう一度、やり直すチャンスが欲しくはないか」


彼女に向けて手を差し伸べる。その手は響木にとって、何の思惑も無い純粋な善意と心配であった。
まだ絶望するには早いのだと、それを彼女自身に教えるための慈悲の手でもあって。
しかし彼女は躊躇うように伸ばしかけた手をやがて諦めたように引っ込め、「考えさせてください」と頭を下げることで、その話に終止符を打った。




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