深海の底へと逝く棺



私が率いることとなった真帝国学園選手たちの性能が飛躍的に向上し、雷門が京都の漫遊寺中を出立した頃、総帥がとうとう動き出された。不動様に指示し、密かに盗み出した現在の雷門の監督のメールアドレスで仲間を装い、彼らを愛媛へとおびき寄せこの真帝国学園へと招き入れる。案内役は不動様が行うため、私はただ決戦の時を待てば良いだけの話だった。

「そういや鬼道、アンタにはたしか、可愛い可愛い大切なお姫サマまで居たんだよなァ?」
「…まさか、貴様ら…ッ!」

選手の皆様には待機を言い渡し、私は総帥の指示通りグラウンドの真ん中で待機する。やがて鬼道様と円堂さんを連れられた総帥と不動様がこちらへとやって来られるのを見て、私は深々と頭を下げた。…実に、数週間ぶりの再会となる。あの頃よりも格段に雰囲気が柔らかくなられてしまっていた鬼道様を見て、私は改めて静かに失望する。やはり貴方に、私という存在は必要無かった。

「お久しぶりです、鬼道様。お元気そうで何よりでした」
「一香、お前まで何故影山に…!!」

何故などと、そんなことが分からない貴方ではないはずなのに可笑しなことを仰る。私はただ在るべき場所に戻らんと手を伸ばしただけだ。私を必要としてくれるかもしれない方の元に、再び膝まづいただけの話。
だって貴方は最後まで私を必要とはなさらなかったくせに。何でもお一人でやってのけて、私が手を差し伸べて差し上げる必要なんてどこにも無かった。私から居場所を、存在価値を奪ったのは他でもない貴方だ。

「私はただ、総帥のためにここに居ます。それだけです」
「一香!!」

…もう私に用は無い。それを告げるように一礼して私はお二人から背を向ける。そんな私に叫ぶようにして、円堂さんが声を上げた。思わず立ち止まって体を半分だけ向ければ、そこには何やらもどかしそうな顔で拳を握る円堂さんがいらっしゃった。

「一香は本当にそれで良いのかよ!?」
「…良いも何も、これは私が選んだ道ですから」

今度こそ背を向ける。無感動に凪いだ心はもう、彼らの説得に心を動かすことは無い。そういう風に心を捨てたのは私だった。
きっと前の私だったなら、苦しみ嘆いて泣いたのだろう。
罪悪感に悶え苦しんで、敵対する己の立場が憎かったのに違いなかった。
けれど今の私は、どこまで行っても総帥の駒だ。自ら差し出された首輪に繋がれることを選んで、あの方のために身を捧げると決めたのは他でも無い私なのだ。

「…手早くお済ませください。お話の済み次第、試合へと移ります」
「分かっている」

私とすれ違うようにして佐久間様たちも姿を表される。鬼道様はお二人の姿を認められたかと思えば、その顔をさらなる驚愕に染めた。円堂さんも同じような顔をして。私はそんなお二人を意図的に無視して、試合への最後の確認をするべく控え室へと足を向けた。





雷門イレブンの方々が反対側ベンチへ行かれたのを横目で確認し、私はエンターキーを押すことでデータ入力を終えた。試合の準備をなされていた皆様に声をかけ、ベンチ前へと集める。…当初、私が監督役を務めることに不満を見せる方々は少なくは無かった。「何故お前が」と苛立ちを露わにして詰め寄られたこともある。
しかしその度に私はこの頭脳でねじ伏せてきた。私がこのチームを任された指導者であり、選手の皆様を指揮する者であるのだと知らしめたのだ。

「情報のアップデートをはかりましたが、作戦の変更は特に必要無いと判断しました。昨日までのフォーメーション、及び攻撃でお願い致します」
「りょーかい」

キャプテンは不動様。そして今回この試合の要となるのは、佐久間様と源田様のお二人だ。あの必殺技を授けられたとき、私は言外に総帥に問われた。「お前ならばこれをどう使う」と。だから私はその問いに、実行で示す。勝利という形で総帥に私の能力を提示し、今度こそ私が総帥のお役に立てると証明してみせるのだ。

「私が皆様に求めるものは、ただ勝利のみ。雷門を完膚なきまでに叩き潰し、総帥へ捧げるに相応しい勝利を収めてください」

返事の代わりに返ってきたのは、戦意に満ちた鋭い視線。まるでこの試合の始まりを待つ獣のように、皆様の目はギラついていらっしゃった。特に鬼道様を見つめられる佐久間様と源田様のお二人の目は、殺意さえ抱いているように見える。…その理由を、不動様は「洗脳の一種だ」と笑って仰られた。

『エイリア石ってものは便利だよ。ちょっとコイツを見つめさせて強い言葉を吐きかけりゃ、思考は簡単に憎悪に染まる』

あのお二人が鬼道様へ抱かれる憎悪も殺意も決して偽者では無い。しかしそれは本来ならば自然と消えるはずだったもので、無理やり増幅させられただけのこと。その結果、お二人は総帥へと膝まづき、鬼道様と敵対する道を選ばれた。そして私はそれを知っていて、咎めようとはしなかった。総帥のお役に立つ選手であるならば、利用するしかない。そう思ったから。

「…それではお時間です。健闘を祈ります」
「さぁて、いっちょやってやるか」

ポジションに立たれた皆様に、私はつい先ほど仕上がったばかりの筋道が描かれたコンピュータの画面を見下げて目を細める。試合開始のホイッスルが鳴るのを他人事のように耳にしながら第一のステップを映した画面を指の背で小突いた。…決して負けはしない。敗北だけは、認めない。
総帥が見ておられる以上、私が掴まなければならないのは勝利の二文字のみ。だからそのためならば、私は。

「佐久間ァ!見せてやれよ、お前の力を!!」


たとえ、誰が犠牲になってしまったって構わなかったの。
 

「うああああぁぁぁぁぁ!!!」

吠えた佐久間様に、鬼道様が何事かに気づかれた。愕然としたような表情で手を伸ばされるが、もう遅い。悲鳴のような怒号にさえ振り返ることなく指笛を高らかに鳴らされた佐久間様の足元から勢いよく飛び出す、血のように真っ赤なペンギンが佐久間様の右足へと食いついた。

「それはッ…禁断の技だァァァァァァ!!!」

その光景を冷めた目で見つめて、私は目を伏せた。これ以上見なくとも結果は既に見えている。
「皇帝ペンギン1号」と銘打たれたそれはかつて、使用者を破滅に追い込む危険な技として排除された禁断の技。総帥から一度は指示されてなお、鬼道様ご自身が危険だと見て封じられたそれを。私は他でもない貴方を封じるために使ってみせるのだ。

「やめろォォォォォォォォ!!!」

慟哭な叫びも叶わぬまま、正確にボールを捉えられた佐久間様のシュートは円堂さんのゴッドハンドを貫いてゴールを割る。円堂さんまでもが吹き飛ばされたのを横目に、私は蹲って呻く佐久間様へ冷たく声をかけた。

「お立ちください、佐久間様」
「一香…!?」
「そこで這いつくばったままでよろしいのならば、話は別ですが」

半ば煽るようにそう言えば、佐久間様は私を睨みつけながら立ち上がられた。そんな私たちの様子を見て、鬼道様が咎めるように私の名を呼ぶ。

「一香…お前は何故佐久間を、影山を止めない!あの技が禁断の技だということはお前も分かっているはずだ!!」
「…何か、勘違いなさられているようですが」

どうやら鬼道様は、佐久間様が総帥に命じられてあの技を使用していると思っているらしい。相変わらずお優しくて、盲目な方だ。まだ私が仲間思いで不器用な少女であると信じて疑っていないらしい。
その少女を殺して私を産んだのは、他でもない私を置いて行った貴方自身だというのに。

「あの技を総帥より授かり、佐久間様へ実行せよと命じたのは他でもない私です」
「な…!?」

さらにそれを快諾したのは、佐久間様。危険性も激痛も苦しみも、十分に理解して彼は覚悟を背負ってあの技を身につけられた。だからこそ、そのことに対して鬼道様が口を挟まれる資格は無い。
そしてきっと鬼道様はここで、作戦を決められるのだろう。皇帝ペンギン1号の使用回数は、二度までが限界。三度目は限界を超え、立ち上がることすら不可能になる。ならば鬼道様がここで決意するのはただ一つ。

「佐久間様にボールを渡さない」

たしかにそうすることで、あの凶悪なまでのシュートは封じ込めるのだろう。佐久間様お一人を徹底したマークくらいならば、今の雷門でも容易いこと。…しかしそう簡単には行かせない。これはまだ序の口でしかないのだから。
そして再開した試合、鬼道様はこちらへの攻撃として「皇帝ペンギン2号」を選択された。あれは先ほどの1号の危険性を削ぎ落とすことで威力は落ちるものの、選手の体に負担のかからないようにと改良された技だった。…けれど、そんなもので私たちは止まらない。

「ビーストファング!!」
「!」

二つ目の禁断の技である「ビーストファング」もまた、私が源田様に授けたもう一つの策。佐久間様と同じく激痛に苛まれる源田様に、鬼道様は二度も同じ質問はされなかった。ただ無感動にグラウンドを眺める私に悲痛そうな顔を向けて、視線だけで何故だと問いかける。
…これが、私の立てた作戦。とてもお優しく、たとえ敵対しようともかつての仲間を見捨てることのできない鬼道様を封じるための一手。

「ほら、もう、手足は出せないでしょう?」

シュートは打てないまま、実質雷門は攻撃することさえも出来なくなってしまった。パスばかりを回して、時たまこちらにボールが奪われるたびに佐久間様へのマークを固めてしまえば守備は手薄になる。
加えて、先ほどの佐久間様のシュートによって円堂さんにも決して軽くは無いダメージが積もっていらっしゃるはずだ。今も不動様のノーマルシュートを弾いたものの、その勢いで簡単に吹き飛ばされてしまっている。

「何故だ!何故あいつらを引き込んだ!!」
「俺は負けるわけにはいかねぇんだよォ!」

不動様と鬼道様による激しい接戦の末、ボールは高く空へと打ち上がり、結果は互角のまま前半終了を迎えた。ベンチへ戻ってこられた佐久間様と源田様にアイシングを差し出す。そして皆様に向き直り、後半の作戦を伝えた。

「後半からは攻撃に力を入れてください」
「あっちも棄権するんじゃねぇの?大事なお仲間が苦しんでんだ」
「それだけはあり得ません」

先ほど不動様が首から下げていたエイリア石を目にして目の色を変えた吉良瞳子を私は確認している。彼女が吉良星二郎の実子であり、この騒動を止めるべく一人奔走する人間であるということも。…ならば彼女が取る道はただ一つ。この試合の続行だ。

「選手の意思を意図的に無視した吉良瞳子の指示に対して、彼らがどれだけ素直に従うのでしょうね」

良かれと思って棄権を勧めた選手らの意思を切り捨てて、試合続行を強いる彼女の指示がチームの不和を呼ぶ。そうすれば戸惑いや苛立ちに揺れる彼らの隙は簡単に生まれるだろう。そこで再び佐久間様にシュートを撃っていただけば、雷門は確実に戦意を失うことになる。

「佐久間様、あと一度シュートを撃った後は牽制に徹してください」
「…俺の勝手だ」
「佐久間様」

佐久間様は私の指示を無視してグラウンドの方へと歩いて行かれてしまった。…まぁ、良い。たとえ佐久間様に止まる気が無くとも、佐久間様へボールを出さないよう不動様に指示すれば良いだけのこと。そう思い直し、私は息を吐く。ここからは後半。徹底的に追い詰めていけば、私たちの勝利は確実なものとなるだろう。
…そう思っていた。しかしそれは、雷門のFW陣による迅速な連携シュートによって打ち砕かれてしまった。

「…一足遅かったッ…!」

思わず歯噛みする。まさかあれほど躊躇い無くシュートを撃ってくるとは思わなかった。対策を立て直さなければ。今の一点でスピードならば隙を突けることが証明されてしまったのだ。
私は通信機器を繋ぎ、不動様へと繋ぐ。小型のイヤホン型のそれに不動様が触れたのを遠目で確認して私は指示を出した。

「十一番を抑えてください」
「あ?白い方じゃ無くて良いのかよ」
「半分以上が雷門メンバーの今、封じ込まれた場合に動揺を生むのは彼の方です」

それに、吹雪士郎を抑えるとなればそれ相応の技術が必要となる。残念だが、今の彼に対抗できる技術を持った選手は不動様お一人のみ。それに不動様を吹雪士郎封じに集中させれば、司令塔が機能しなくなってしまう。それゆえの指示だった。…しかし次の瞬間、プレーを続行した直後に不動様が染岡竜吾の足目掛けてスライディングを仕掛けたのを見て、私は思わず立ち上がりかけた。イエローカードが上がるのを横目に、私は即座に通信を繋ぎ直す。

「不動様、一体何のつもりで…!」
「はぁ?俺は指揮官サマの指示に従っただけだぜ?言ったよな、十一番を抑えろって」
「ッ!」

…たしかに、言った。けれどそれはこんな形では無い。今染岡竜吾が怪我をする必要は無かった。私はただ彼を抑えていて欲しかっただけ。二人がかりでも良い。雷門に揺さぶりをかけられればそれで十分だった。…なのに。

「お前は所詮甘ちゃんなんだよ。悪役になり切れない善人もどきの一香チャン」
「…そんな、ことは…!」
「本当に言えんのか?何処の誰が傷ついても、死んでも、それでも総帥の役に立ってみせるなんて言えんのか?」
「…!」

不動様の嘲笑う声が私を試す。何も言えないまま絶句して黙り込んだ私に呆れたように嗤って、遠くからこちらを楽しげに見つめた不動様はひらりと手を振った。

「言えねぇのなら、一生そこで指を咥えて見てるんだな」

…何も言えない。言い返せなかった。私はたしかにちゃんと、総帥のお役に立つつもりでここに居る。佐久間様たちが怪我をしようとも構わないとさえ思っていた。…でもそれは、本当に?
私は本当に、心の底からあの人たちを見捨てられていた?この必殺技習得のための日々で「本番に役立たなかったら意味が無いから」と言い訳して練習を無理やり切り上げさせたあの時も。「少しでも長く使うために」と理由をつけてアイシングを手渡したさっきも。
…私は彼らに対して非情になることを、本当に覚悟出来ていた?

「皇帝ペンギン…1号ッ!!」
「やめろ!!!」

佐久間様が二度目のシュートを放たれた。それを見て私は必死に自分の体を抱き締める。佐久間様の苦しむような声が、まるで私を責め立てる苦悶の声に聞こえて耳を塞ぎたくなった。…これで良いはずなのに。
私は間違っていない。総帥に従い、雷門を倒すという使命を与えられた。それを完遂し、総帥からの信頼を得るためならばなんだってすると誓ったのは私だ。お二人を苦しめる道だと分かっていて、勝利の為だと囁いたのも私。…なのにどうして、こんなにも私の身体は怯えで震えている。

「…さむい」

佐久間様のシュートは、鬼道様と円堂さん二人がかりで止められてしまった。点差は未だ同点のまま試合は終盤を迎えつつある。…けれどもう、これ以上佐久間様には撃たせられない。
優しさでも甘さでも何でもなく、これ以上あの技を使えば、佐久間様はコートにすら立てなくなってしまう。そうすれば使えない。だから、だから私はあのシュートを撃たせない。それだけの意図でしか無い!

「まァだそんなこと考えてんのか、お前は」
「…これ以上、佐久間様にパスを出すことを、禁止します。これは命令です…!」

…繋ぎっぱなしだったらしい通信機器から、不動様の呆れたような声が聞こえる。私はそれに縋りつくようにして、震えそうになる声を叱咤しながら指示を出した。もう必要無い。佐久間様のシュートは必要無いのだ。これ以上は雷門が手出しできないのだから。…でも。

「それじゃあ可哀想だろォ?」
「…不動様、まさか、そんな」
「撃ちたいなら撃たせてやれば良いじゃねぇか…なァ!!」

不動様が雷門のDFである少女を吹き飛ばし、奪い取ったボールでパスを出す。それは呆気なく佐久間へと渡り、ボールを得た佐久間様が脂汗を滲ませた顔を笑顔に歪ませてゴールを見据えた。それを見て私は、手にしていたコンピュータを無造作に投げ出し立ち上がる。よろめきつつもただ真っ直ぐに、足を振り上げた佐久間様を見つめて。

「だめ!!!」

反射で叫んだ瞬間に、佐久間様の足がボールを捉えた。再び飛翔した赤いペンギンは、負傷しているはずの染岡竜吾によって止められてしまったけれど、今の私にとってそれはどうでも良かった。私がずっと目を離せなかったのは、まるで糸が切れたように崩れ落ちてしまった佐久間様の姿だけ。源田様が必死に名前を呼ばれながら駆け寄っていくのを見て、私は呆然としながら歩き出す。

「…さくま、さま」

苦悶の表情のまま意識を失った佐久間様は、源田様に抱きかかえられている。私はそこによろめきながらも近づいて、崩れ落ちるように膝をついた。その頬に手を伸ばす。
そのとき、私の頭の中でフラッシュバックしていたのは、あの時の光景。圧倒的な力の前に倒れ伏した皆様を、あの時の私は救うことも出来ないまま見ているしか無かった。

「ちがう、わたし、わたしは、こんなこと」

こんなことまでは、望んでいなかったのに。ただ勝てれば良かった。犠牲はあっても、こんな風になるまで誰かが傷つくことを私は求めていない。
けれど今こうして佐久間様が倒れているのは、染岡竜吾が怪我をしているのは。
私が、指揮官として、指示を出したからで。
全部、全部、全部、愚かな私が招いてしまったことじゃないか。

「!?何の音だ!?」
「爆発したぞ!!逃げろ!!」

船の何処かが爆発した。それを他人事のように聞きながら、私はふらりと立ち上がる。外へ逃げようと走る他の人々に逆らうように、私が目指す先は上の方へ。
何が正しいのかなんて分からなかった。
私が間違っていたのかでさえ思い至らなかった。
けれど今、一つ理解できたのは総帥のこと。このままじゃまた、総帥は姿を消されてしまう。私を置いて、すべてを捨てて何処かへと行かれてしまう。それだけは嫌なのだと、私自身の心が叫んでやまなかったから。

「どこ行くんだよ一香!逃げないと!!」
「…行かなきゃ」
「一香!!」

私を引き止めようとした円堂さんをすり抜けて私は船の中を駆ける。上へ上へと続く階段を必死で駆け上がってたどり着いた先、そこには総帥と対峙する鬼道様がいらっしゃった。総帥は、そんな鬼道様との話がついたのだろう。私になんて見向きもされないまま船の中へと戻っていく。それを見て中へ引き返そうとする私の腕を、鬼道様が引き止めるようにして強く掴んだ。

「待て一香!目を覚ませ!!影山の元に行くつもりか!?」
「…離して!!」

腕を掴まれて振り払う。それでもなおがむしゃらに私の肩を掴んでみせた鬼道様は、私に怒鳴りつけるようにして叫んだ。引き止められたことに苛立つ。目を覚ませともう一度叫んだこの方は、いったい何を見ろと言うのだろう。私の目はこんなにも冴え渡っていて、優先するべき人が誰であるのかなんて、明白に理解しているというのに。

「お前は騙されてるんだ一香!影山の言葉に惑わされるな!俺と一緒に来るんだ!!」
「う、るさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!」

しかし、その最後の言葉を聞いて私の中の何かが決壊した。力の限り鬼道様の胸を叩いて突き飛ばす。呆然とした様子の鬼道様を睨みつけて、私は今となっては面倒になってしまった敬語でさえもかなぐり捨てて吠えた。

「貴方に私の気持ちなんて何一つ分からない!!愛してくれる父親が居て!守りたいと思える家族が居て!貴方の全てを肯定してくれる仲間さえも居る貴方にいったい私の何が理解できたの!!」
「一香」

そうだ、貴方に私の気持ちなんて分からない。自分を尊重し愛してくれる父がいて、離れていても大切に思い合える妹がいて、自分の全てを受け止めて受け入れてくれた仲間のいる、貴方には。
私の孤独がどれほど悲鳴を上げていたかなんて知らないでしょう。心臓を引き裂くような痛みを以てこの道を選んだ私の覚悟だって知らないくせに。…そして、私を置いて行ったくせに。
だから私は貴方を拒む。私が必要だと言った貴方は二度と私を迎えには来なかった。雷門に自分の居場所を見つけて、私から背を向けたのは貴方の方が先だったのだから。


「私の邪魔を、しないで」


鬼道様にそう吐き捨てて私は踵を返して走り出す。鬼道様はもう、追いかけては来なかった。それで良い。私のことなんて見限って、貴方はどこへだって飛び出してしまえば良いのだ。
私にもう光は必要無い。貴方に救いは求めない。
私が本当に寄り添いたかった人は、この世で唯一あの人だけだった。

「総帥!!!!!」

脱出用船艇の前に佇んでいた総帥が振り向いて私の姿を捉える。私はがむしゃらに駆け寄って、縋るようにして総帥の服を握り締めた。泣かないように必死で涙腺の崩壊を堪え、総帥に訴えるようにして言葉を絞り出す。サングラスで隠れた総帥の目が、どんな色をしているかなんて下を向いた今の私には分からない。それでも。

「置いて、いかないでください。もう、捨てないでください。次はちゃんともっと上手くやります。総帥のために、今度こそどんな手を使ってでも指示をやり遂げてみせます。だから、だからどうか、ッ」

その時、腹部に衝撃が走って私は全身から力が抜ける。腹部を強かに殴られたのだということに気がついたのは、鳩尾の辺りがズキリと痛み始めてからだった。思わず総帥から手を離してよろめいた私に、今度は何か布のようなもので口と鼻を覆われる。それには何か薬品が染み込ませてあったらしい。殴られた痛みとショックで混乱していた私は思わず吸い込んで、代わりに酩酊感と意識の歪みを得た。そして、意識を失う直前に吹き込まれた言葉が、私の心に癒えない傷を刻み込む。


「お前は私の計画に必要無い」


…そんなこと、たとえ本当のことであったとしても言わないで欲しかった。貴方の捨て駒としてでも良いから側に連れて行って欲しかった。
だって私にはもう総帥しか居ない。私を迎えに来てくれたのも、居場所を与えてくれたのも、役目をくださったのも。全部全部、私という存在を作り上げてくださったのは貴方だったのに。

「そうすい」

___夢を見る。蘇る。思い出す。
記憶の中の私は幼く、もう二度と目覚めない母の隣で一人静かに泣いていた。冷たくなった母の温かかったはずの手を握る私を見て、あの時総帥は何をお思いになられたのだろう。…今となってはもう、考えることも聞くことさえも忘れてしまったあの疑問を、私は今更のように記憶の中で巡らせた。

『…来い』

夕焼けの中、白い病院から背を向けて歩き出すあの人は、こちらを見ないままに手を差し伸べる。促されて反射で掴んだ手は冷たくて、それでも二度と目覚めなくなった母の手よりも温かくて。
何処に向かえば良いかも分からなかった私を、宙ぶらりんだった私をこの世界に繋ぎ止めてくださったあの人に、私はたしかに救われていたのに。

「いかないで」

けれど今、私の手を握ってくれる人はもう居ない。たった一人、ずっと私は孤独なまま。
いっそこの海の底まで沈んで、死んでしまえたならきっと、私は幸せになれたのだろうか。




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