無神論者よ眼を闢け



誰に何も告げないまま消えるつもりだった。これ以上誰にも迷惑はかけられないと思っていたから。しかし少しだけ長い入院生活の中、鬼瓦刑事やお見舞いに来てくださった響木様と話しているうちに、私はまだ迷惑をかけた皆さんに償いをしていなかったことに気がついた。
たくさんの方に迷惑をかけておいて、何も出来ないまま姿をくらますなど失礼甚だしい。何よりそうしてしまう自分自身が許せない。
だから私は響木様の誘いを受け、日本代表のマネージャーを引き受けることにしたのだ。

『俺は訳あってコーチを務める。監督は久遠という男に任せた』

お返事を返した際に、そんな説明を受けたものの私にとっては何ら気にすることのないことであった。監督が誰であれ、私はただこのチームに粛々と貢献するだけなのだから。だから始め、紹介された久遠道也という方と対面したときも私はただ淡々と挨拶を交わすだけのつもりだった。

「…お前が、影山の娘か」
「…はい」
「私はかつて、影山に嵌められたことがある」
「!」

しかし、そこで吐き出された言葉に思わず顔を上げた。そこには複雑な色を宿した瞳で私を見る久遠様の姿がある。…お話を伺えば、久遠様が総帥の企ての被害に遭われたのは私が引き取られる前の話だ。けれど久遠さんにとってそんな話は関係無い。私がこの名の頂に影山の名を冠し、総帥の養女である限り、私はこの人にとって「影山零治の身内」になるのだ。

「あ、そ、うすい、が、ご迷惑を、おかけ」
「…何故お前が謝る」

何故、何故、何故。そんなこと、私にだって分からない。けれど、それでも私が謝らなければならないような気がした。この人の言う通り、私は総帥とこの人の因縁を知らない。それでも私にだって、たとえ捨てられてしまったとしても影山総帥に与していたという過去は残る。
癒えない傷のように。
消えない痛みを伴って。
関係なんて欠片も無いくせに、私という存在がまるで罪のように感じてしまうのだ。


「お前は影山零治では無いだろう」


理解している。私は馬鹿でも阿呆でもない。私が憎まれる理由は無く、頭を下げる意味でさえも無かった。…だけども私はきっと、それでも心の何処かで憎まれたがっている。総帥の犯した罪を背負うことで、この世界の何もかもから憎まれてしまえば、それはまた私にとっては一つの救いだ。
「憎まれる」という役目を抱えて、私はこの世界で生きていける。…そんな歪んだ形でも、私はまだ誰かに必要とされることを求めていた。

「憎んでくれなければ、私は誰にも必要としてもらえないのに」

愛情なんてもう要らなかった。私にとって愛とは高嶺に咲く薔薇だった。私が信じて突き進んで手を伸ばしても、それを拒むように棘は食い込み掴むことを許さない。触れることさえ私にとっては不相応だった。
希望だって必要無い。罪を犯し過ぎた私へ本気で手を伸ばしてくれる人間なんて居るはずが無かったから。だから私は、裏切り者の汚名を喜んで受け取ろう。いつか訪れる天罰を心待ちにして、存在などしない神なんかに祈る振りをしてみよう。

「…お前は哀れだな」

そうやって本当に哀れむような目を向けた、その同情でさえも私は享受する。それで良い。都合良く利用してくれて構わない。愛されないと最初から理解していれば、いつか訪れる決別の日の痛みを私はまた味合わないで済むのだから。
だから私は今日、彼らの目の前で無感動に口を開いた。見知った顔ばかりが並ぶ彼らはきっと、私の存在に疑問を感じるのだろう。犯罪者だと後ろ指を差すのかもしれない。…期待することを辞めた私からすれば、それでも別に、構いはしないのだけれど。

「本日より、イナズマジャパンのマネージャーを務めさせていただきます。影山一香です」

驚いたような顔でこちらを見ていらっしゃる皆さんの顔を真っ直ぐ見れないままに、私は目を伏せたまま頭を下げた。





挨拶の済んだ後、すぐに踵を返した私を追いかけてきたのはやはり鬼道様と円堂さんだった。腕を掴んで引き止められたので振り向けば、そこには僅かに顔を歪めて「何故だ」と雰囲気で問うようなお二人がそこにいる。

「一香、お前は、今までどこに」
「この街を出て行く準備をしていました」

ひゅ、と息を飲んだ鬼道様の手をやんわりと振り払う。何を驚かれているのだろう。私がこの街を出て行くのは当然のことではないのだろうか。
総帥が完全な犯罪者となられた以上、今まで暮らしていた家も警察に押さえられる。鬼瓦刑事なんかは私を気遣ってくださり、近くに家を借りようとしてくださったものの、私はそれを固辞した。もともとあの家に思い入れなど無い。私だけが住んでいたようなものだ。それに大きな家具を除けば、ボストンバックたった二つに収まってしまった私の荷物が、ことさら私の執着の薄さを物語っている。あそこはもう、私の家では無い。

「響木様に依頼を受け、今回のマネージャーをお受けしました。それを完遂すれば、私はここから出て行かせていただきます」
「出て、行く」
「ご安心を。もう二度と、お二人にもお会いすることは無いでしょう」

お二人はその言葉に対して何か言いたげであったものの、私はそれを意図的に無視して今度こそ踵を返す。今の私の家は、前の家で与えられていた部屋よりも狭い合宿所の一室だった。そこに荷物を運び込み、どうせ使いもしない私服をしまう。身に纏っていたのは帝国学園の制服だった。退学届を出すことは響木様にやんわりと止められてしまい、結局休学という宙ぶらりんの状態で私はまだあそこに在籍している。

「仕事があれば、何でも申しつけてくださって構いません」

よく積極的に他のマネージャーの皆様が声をかけてくださったものの、私はその間に線を引いて自ら距離を取るようにして遠ざかった。馴れ合う必要は無い。どうせ一時の関わりでしか無いのならば、義務的に関われば良いのだから。
仕事は何でも貴賤なく受け入れた。雑事から情報をまとめることまで、皮肉にも私には人並み以上に熟すことが出来るスキルがある。鬼道様を支えろと厳命されたあの日から、死に物狂いで叩き込んだ技術も情報も何もかもを私は手にしていた。

「一香さんは、監督の指示のことどう思う?」
「特に何もありません。妥当な指示であると思われます」

そんな中、久遠様は初戦であるオーストラリア戦に向けての練習を全て中止してしまわれた。それに対して皆様は反感を抱いたものの、私は特にその指示に対して理不尽さを感じはしなかった。オーストラリア代表が使用している必殺タクティクス。久遠様の指示はそれを破る為の策であったから。
だからそう問われたとき、私はその場に他の選手の方が居るにも関わらずそう答えた。案の定、それを聞いて眉を潜める方々が居るのにも気がついていたけれど、私は弁解しなかった。私は問われたことに正直に答えただけなのだから。

「彼女も、何か企んでるとか」

だから、影でひっそりと話されていた皆様の話を聞いてしまったときも、私は別に傷つくことはしなかった。感じたのは、そう思われるのだろうなという納得だけ。
とうの昔に心は奥底にしまい込んで、雁字搦めの鎖をかけた。こんなにも簡単に心は殺せたのだと思わず感嘆してしまうほどあっさりと、私の心は手放せてしまって。
だから私は傷つかない。
だから私は嘆かない。
手を伸ばすことさえ諦めてしまった愛情を目の前にしたとき、どうせ私には身の余る無謀なものだと自嘲して見ないフリでやり過ごすほど、楽なことは無かったと気づいてしまったから。

「…あ、影山、さん」
「……盗み聞きをするつもりはありませんでした。申し訳ございません」

食堂の入り口に立ち尽くす私を見て気まずそうに閉口した皆様を一瞥し、私は頭を下げてその場を立ち去る。そんな顔をする必要は無い。罪悪感だって感じなくて良い。
だって、ほら、今も私の心は痛みも苦しみも絶望だって感じないのだから。





オーストラリア戦での勝利を経て、選手の皆様と久遠様が実質的な和解をされた。一度は聞いた久遠様の過去を無感動に聞きながら、私はこちらへもチラチラと向けられる視線を無視する。これはチームにとって良い傾向なのだろう。選手と監督の不和は、やがてチームの破滅を呼ぶ。それを私は皮肉にも、この身で思い知っていた。

「もしかして、一香さんも監督の作戦を知っていたの…?」
「必殺タクティクスに対応するための策についてでしたら、ある程度推測はしていましたが」
「何故誰にも言わなかったんです!」
「言えば信じたのでしょうか」

目金様が僅かに私を問い詰めるような強めの語気で話されたのを、私はそちらを見ることなく冷たく吐き返した。この人はいったい、何を言っているのだろう。私もどこかの誰かの手先だと、このチームを陥れるかもしれない人間だと考えていたのは、貴方たちの方なのに。
…別に私はそれを咎めはしない。最初から信用を得ることさえ考えていなかったのだ。だが、まるでそれが私だけの責任かのように非難されるのは少しだけ納得がいかなかった。

「私は響木様からこのチームのサポートを仰せつかってここに居ます。最初から、このチームの不利になることをするつもりはありません」

誰も何も言いはしなかったものの、空気が戸惑っているのが分かった。鬼道様も何か言いたげにこちらを見ているのを感じたけれど、私は決してそちらを見ない。それ以上は何も話すことは無いと意思表示をしたつもりだった。
…だから試合後、合宿所に戻ってすぐ鬼道様に引き止められて話しかけられたとき、私はその行動を意外に思う。私の考えていることが分からない訳でも無いのに、と訝しげに振り返れば、鬼道様は少しだけ険しい顔で私を見つめていた。

「…まだ、このチームと距離を取るつもりなのか」
「…?」

何を今更、当たり前のことを尋ねられているのだろう。そんなこと、私に聞かずとも鬼道様なら分かっているはずだというのに。

「お前がこのチームにとって味方だということは皆理解した。お前が疑われることはもう無い。だからどうか、お前も俺たちを信じて、」
「鬼道様」

失礼なことだと分かっていながら私はその言葉を遮った。思わず閉口なされた鬼道様に向き直り、私はただ淡々と言葉を返す。そんな気休めのような言葉なんて、私には不要のものでしかなかったから。

「ご無理はなさらないでください」
「…無理、など」
「貴方がお優しいことは分かっています。ですが無理をして私を気にかけなくても構いません。…私はもう、一人で良い」

そうだ、もう、一人で良い。いっそ誰も私を構わないで欲しかった。友人も仲間も家族も要らない。私に無駄な希望を抱かせて、いつか離れていってしまうというのなら、それなら初めから孤独でいた方がよっぽどマシだ。
信じろと貴方は簡単に言うけれど。何を根拠に私は信じてしまえば良い。私が本当に裏切られることは無いと、いったい何を証拠としてそれを言えるのでしょうか。
そう告げれば、鬼道様は悲痛に顔を歪められて私に訴えかけるようにして口を開く。どこか悲鳴のようにも聞こえたそれは、私に目を逸らすなと言いたげに私の弱さを糾弾した。

「無理なんてしていない!俺は俺の意思でお前と関わっている。そこに、お前の言うような同情も憎しみも存在しないんだ!!」

鬼道様の赤い瞳が、ゴーグル越しに私を射抜いた。目を逸らせない。そしてその途端にドクリと跳ねた心臓を思わず抑えて私は息を飲んだ。…やめて欲しい。それ以上、口を開かれないで欲しかった。私の心にかけた鎖を無理やり引き千切るようなその言葉が、また愚かだった頃の私を呼び起こしてしまう。

「もう二度とお前を置いて行かないと決めた。俺はお前を二度と一人にはしない、だから」

それ以上の言葉を聞きたくなくて、私は掴まれていた腕を振り払って耳を塞ぐ。一香、と鬼道様が私の名前を呼んだのが唇の動きで分かった。
けれど私はその呼びかけには応えない。甘美な響きばかりを孕んだその言葉が、また私の心を希望で蝕む前に拒絶してみせる。

「どうして、いまさら、そんなこと」

だってもう傷は要らない。こんなにも引き裂かれて傷つけられた心に、もうこれ以上傷を刻めるような余裕は無いのだ。それを知らない貴方が、そんな私を引き摺り込もうとするから、私はそれが恐ろしくて仕方ない。
希望というものほど、不幸がすぐ側に寄り添っていることを、私は嫌というほど理解して飲み込んでしまっていたから。

「どうせ、きっと貴方だって最後は捨てる。私みたいな人間、必要無かったと嘲笑って捨てるに、決まっているくせに」

もう、わたしに、きぼうをもたせないで。
それだけを恨み言のように呻いて、私は逃げるようにその場を立ち去ろうとした。けれど鬼道様はそれすら許さないとでも言いたげに、私を背後から抱き締めるようにして私の身体を抱き竦める。それが強くて、痛くて。本当は今すぐにでも逃げたいはずなのに、相反した、何故か逃げたく無いと叫ぶ心がぶつかり合って弾けては消える。

「もう、俺は後悔したくないんだ」

私だって後悔したくない。また無謀な希望と願いを抱いて、最後に手放されてから悔いるような人生なんて、もう二度と要らないと思っている。だからこそ今、貴方を突き放したくて仕方ないというのに。…それなのに。

「…どうして」

私を一人にしない、と真っ直ぐに叫んだ貴方の言葉が、もう既に感情さえも失ってしまったはずのこの胸に響いて、いつまでも鳴り止んでくれなかったのだろうか。




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