黎明を告ぐ鳥が泣く



記憶の中、遠い昔。あの日の少女が一人、今も私の胸の奥で泣いている。





あの日、鬼道様に抱き竦められた日から、周囲の皆様による私への態度は分かりやすく軟化した。オーストラリア戦での私の言動をどうやらピッチに立っておられた他の皆様も知ったらしく、私に害意が無いと分かってからは気遣うような素振りも増えた。私は戸惑ったものの、やはりそれでも遠い向こう側に線を引き、不必要な馴れ合いを拒む。何故そう簡単に敵方だった私を信じることが出来るのか、私には理解が出来なかった。

「…で、何でお前は俺に寄ってくんだよ」
「…ご迷惑でしたでしょうか」
「ハ、別に?鬼道たちの渋い顔は見ものだからよ」

そしてそんな私は、皆様との距離を開ける代わりに不動様のお側に寄ることが増えた。やはり真帝国学園のときの因縁が未だに残っているらしく、不動様は特に鬼道様から敵視されているように見えた。私も真帝国学園の一員であったというのに、あれだけ対応が甘くていらっしゃるのは単なる昔からの情が捨てきれないからなのだろう。そう呟けば不動様から「捻くれている」と鼻で笑われてしまったのは少し前の話だった。

「…不動様は、私を咎人として扱ってくださいますから」

鬼道様をはじめとした他の皆様は、私が真帝国学園に与していたことを「何か訳があったのだろう」とまともに責めてはくださらない。あの場にいたことが、私自身の意思であったと語ったとして、それを取り合ってくださることはきっと無いのだろう。
しかし不動様は違った。不動様は決して私を気遣われない。同じ場所で罪を犯した者同士であったことを当たり前のように全面に出される。…それを聞いて、私は何度安堵しただろう。私の罪を咎めてくださる方がまだ存在している。それだけで、私の心は少しでも救われるような気がした。

「責め立てられる方が好きとはねぇ」
「…当然です。私は、決して許されたい訳ではありませんから」

マゾヒストみたいだな、と嗤われる。…果たして私はそうなのかもしれない。幸福と愛情の代わりに自ら痛みや苦しみを求める私はきっと、この心ごと歪んでしまっていたのだろう。…だって、私はまだ、償えていない。過ちを贖うことすらできていないのだから。
目を伏せて思いを馳せる。ここには居ない方たちのことを考えた。あの方たちは。…佐久間様と源田様は、お元気なのだろうか。佐久間様は一度代表候補に選ばれたと伺ったが、源田様についてはまだ何も聞いていない。

「一香チャンも可哀想なこって」
「…何のことでしょうか」
「惚けたって無駄だ。鏡見てみな、『今すぐ死にたいです』ってツラした女がいるぜ」

この場から立ち去る前にそう嘲笑われたのを聞きながら、私は自分の頬に触れる。…そんなみっともなく情け無い顔を、私はしていたのだろうか。動かないことに慣れてしまった表情筋では、自分さえどんな顔をしているのかが分からない。鏡なんて見ても意味はないのだ。何せ、前よりも少しだけやつれた顔についた二つの瞳を絶望の色が染めていたことなんて、とうの昔に知っていたのだから。





「…久しぶりだな」

そう言って少しだけ気まずそうに頬をかいた目の前の人に、私はだんだんと血の気が引いていくのが分かる。呼吸が浅くなって、体が小刻みに震えた。…何故、こんな時に話しかけてくるのだろう。私はこんなにも一生懸命貴方を避けていたのに。
私は胸元のバインダーを抱き締め直して、震えそうな声を何とか堪えながら口を開いた。おひさしぶりです、と唇からこぼした言葉は、果たして正しい発音であったのだろうか。それさえも今の私には分からない。

「…源田様」

それは、予選第二回戦であるカタール戦を勝利で終えた、予選決勝を目の前に控えたある日のことだった。ネオジャパンと名乗り、現れた彼らは、イナズマジャパンの選考会にさえ呼ばれなかった者たちの集まりだったのだという。
そんな彼らは皆様に日本代表の座を賭けた試合を申し込んできた。そしてその試合で真の勝者を定めようという。お断りなさるかと思ったものの、予想外にも久遠様はその申し込みをお受けになられた。
結果、試合はイナズマジャパンの勝利。代表交代というチャンスを失われたネオジャパンの方々を遠目に、私は記録の整理を理由にして足早にその場を去ろうとした。…しかしそんな私の足をお止めになられたのは、他でも無い、私がきっと今一番お会いしたくなかったであろう源田様本人だった。

「元気だったか」
「…はい」
「いや、先輩ちょっと痩せたんじゃないっスか」
「あぁ…たしかによく見りゃ前より」
「うえ、寺門先輩のえっち」
「あ!?」

硬い形式ばった会話をする源田様と私に、成神様と寺門様がその場の空気を和らげるかのような軽い会話を交わす。その喧嘩のようなやり取りに少し笑った源田様は、ようやく落ち着かれたような顔で唇を引き結び、私に改めて向き直った。けれどこちらを真っ直ぐに見つめるその目を、私はどうしても見つめ返せなくて。
そしてそれでいて、源田様からのお言葉を聞くことさえ恐れているのだから、何ともまぁ私という人間の浅ましいこと。…口を開いて何事かを言いかけた源田様より先に、私は頭を深く下げた。皆さんが息を呑まれたのが気配で分かる。

「申し訳、ありませんでした」
「ッ!」
「先輩」

成神様が私に何か言いたげな様子であったけれど、私はそれに構うことなくもう一度謝罪の言葉を繰り返した。吐き気すら催す重い重い罪悪感が私の心臓を押し潰してしまうかのような息苦しさに耐えながら、私はシワになる程スカートを握り締めて地面を見つめたまま、なおも懺悔の言葉を吐き出した。

「わ、たしの、責任です。帝国を裏切り、お二人を利用し、私は、私は結果、ただ貴方がたを害しただけでした」

あの日のことを思い出す。何度も悪夢のように蘇っては消えない光景を思い出す。私の目の前で、悲鳴の声も無くスローモーションのように倒れて行く佐久間様のお姿が、私を何度も絶望の淵に導いて止まない。
総帥に認めていただきたいという私の身勝手な望みの駒にされたお二人には当然、私を責める権利がある。もともとあの場には、洗脳のような形で連れて来られていたのだから。自らの足であの場に赴くことを決めた私とは、罪の色も形も重さも何もかもが異なる。

「いくらでも贖います。罪を償います。申し訳ありません。私は本当に、皆様に、取り返しのつかないことを」
「待ってくれ」

しかし焦ったようなご様子の源田様に肩を掴まれて言葉を遮られた。…嗚呼、私は懺悔することすら許されないのだろうか。言葉を尽くして皆様に頭を下げることしか、今の私にできることは無いというのに。
しかしそれでも、私にはその要求を跳ね除ける権利は無い。待てと言われれば待つ。それが今の私にできる最善の行動であるのならば、私はそれに黙って従おう。…だから。

「…一香さん」

…だから、源田様から名前を呼ばれたとき、私は息が止まってしまうかと思った。だって彼から名前を呼ばれるのなんて初めてで、いつだって私は皆様から呼ばれる名は「マネージャー」で。私が名の頂に冠する名は、皆様にとっては忌避すべきものだったから。だから思わず顔を上げた先、そこに見えた優しくも苦しげな瞳を見て、私は何も言えなかったのだ。
源田様はまるで私の今までの懺悔を咎めるように、しかしそれにしては優しく柔らかな声で口を開かれた。

「誰も君のことは恨んでいないし、憎まない。怒ってすらいない。俺も。…佐久間の奴も」

嘘だ、と口をついて出そうになったその言葉が音になることなく喉の奥で消えてしまったのは、私を見る源田様のその目が真剣な色をしていたから。その言葉にただ戸惑う。
何故恨まない。
何故憎まない。
何故怒らない。
私のしたことは到底許されることでは無かったというのに。私のせいで佐久間様は重傷を負われ、源田様も決して軽くは無い傷を負った。何ら関係の無い染岡竜吾の怪我も、私のせいであるも当然だったというのに。

「謝るのは俺たちも同じだ。ずっと、苦しめてすまなかった。支えてもらってばかりで、俺たちは君に何も出来ていなかったことに今さら気がついた。…だから、これは俺たちのエゴで、勝手だ」

それでもと前置いて、源田様は少しだけ泣きそうに細められた目で私を見つめて、優しく微笑まれた。寺門様も成神様も、同じような顔で私を見ていて、それが何故だか心臓を騒つかせて。
けれどその直後、源田様から告げられたその言葉がまるで虚空を彷徨う迷子を導く光のように、私の心を貫いてしまったから。


「俺たちは帝国で、君と鬼道の帰りを待っている」


話はそれだけだった。それだけを告げて帰って行かれた皆さんを追いかけることも、背を向けることも出来ずに私はその場に立ち尽くしていた。どうすれば良いかが分からなかった。あんな言葉をかけられて、どんな顔をしていれば良いかが分からなかったのだ。…けれど、それでも、源田様からのお言葉を聞いて、不思議と不快には思わなかったのは、何故だったのだろう。

「…どうして」

私はこんなにも、今すぐ泣き叫んでしまいたいような衝動に駆られているのだろうか。





決勝である韓国戦が終わり、日本はとうとうアジア予選の頂点に立った。本戦出場を決めた今日、皆様は歓喜に溢れていらっしゃる。記念にと開かれたささやかな祝勝会で賑わう食堂の中、私だけはどうしてもその場に居辛くて仕方なくて。その喧騒を良いことに、気配を殺してその場を立ち去る。外に出れば、秋が冬に染まりつつある肌寒い風が肌の上を滑って思わず小さく震えた。暗闇に落ちたグラウンドをジッと見つめて、何をするわけでも無く、玄関先の階段に腰を下ろす。

「…わたしは」

今日の試合を思い出す。試合開始前から驚くことばかりの一日だった。何せ韓国代表にあのアフロディが居たのだ。途端に思い出したのは、FF本戦で倒れ臥す帝国の皆様の姿で。思わず青い顔で後退した私をチラリと見た彼は、少しだけ寂しそうに微笑んでいた。…彼はどうやら、エイリア学園の騒動の際は雷門側に立ったのだそうだから、悪い方では無いのかもしれないけど。
そしてそれに加えて私を戸惑わせたのは、主将という己の役割をようやく自覚した円堂さんに、真帝国学園の際の不和を払拭なされた不動様。そして不動様と和解の道を選ばれた鬼道様のお姿だった。まるで私ばかりが置いて行かれるようなその寂寥感に思わず自嘲する。もう、一人で良いと決めたのは、他でも無い私自身のくせに。

「わたしは、どうしたいの」

鬼道様の抱擁が、源田様のお言葉が。私の心を絡め取ったまま自由にしてくれない。孤独になることさえも許されない私という存在は、自分でもその価値を決められないまま、宙ぶらりんの状態で何かを待っていた。
私という存在が何であるのかを示してくれる、誰かを。


「…ここにいたのか、一香」


後ろを見ずとも、その声の持ち主が誰であるのかはすぐに分かった。分かったからこそ振り向かなかった。鬼道様はそんな私に何も言わず、黙ったまま隣に腰を下ろす。ひと一人分開けられたその距離が私を慮ったものだと悟って、思わず静かに安堵した。何故貴方はそんなにも、私のことが分かるのだろうか。
そのまましばらくは、お互いに黙ったままだった。何も見えない闇夜を見つめて、街の明かりに阻まれた星の鈍い瞬きに目を凝らす。…そうしてしばらくして、先に口を開いたのは鬼道様の方だった。

「…俺は不動を許す。あいつのしたことは怒って当然だった。…それでも、許さなければ前には進めない」
「…」
「…そうして俺は、お前のことも許すんだ」

顔を上げて思わず横を向いた。そこにはゴーグルを外して赤い瞳を晒した鬼道様が、真剣なお顔で私を見つめている。…今、この方は何と言ったのだろうか。私を許す、と?あれだけ「お前は悪くない」と何度も諭した貴方は今、私を許すと言ったのか。

「お前が何も悪くないという俺の気持ちは、今でも変わらない。…だが、それでもきっと俺は、心のどこかでお前に怒っていたんだろう」

顔を歪めて私の肩を掴んだ鬼道様が目と鼻の先までに近づいて、私は嫌でも鬼道様から目を背けることが出来なくなってしまった。だから彼の瞳の奥でゆらりと揺れた小さな炎が燻っているのも分かる。それは、ずっと私が欲しくて堪らなかった、鬼道様の私への怒りであった。鬼道様はそのまま険しい顔つきで言葉を連ねる。

「何故、待っていてくれなかった。何故、影山の甘い言葉に乗せられた。お前があそこに居るのを見たとき、俺がどれほど絶望したのか、お前には分かるのか」

分かるものか。だってあの時の私にとって貴方は、私の望みを破壊しようとする敵にしか見えなかったのだから。総帥に認めていただき、総帥の真なる望みを叶えることが出来たそのときこそ、私の内なる願いは果たされる。そう囁かれて歓喜したのが、あそこに立った愚かな私だったのだ。だから貴方を排除するのに、躊躇いなんて一つも無かった。私を大事にしてくださった貴方に、私何度も背き続けた。…それなのに。

「お前は悪くないと言い続けたのも、所詮は俺の勝手な都合だ。危険だと、分かっていても。俺の身勝手な望みだったとしても。
…お前を離さず連れて行けば良かったと、そう考えてしまった俺自身の愚かな思いを認めるのが、俺は嫌だったんだ」

それなのにどうして貴方のその怒りは、どこまでも私への優しさに溢れているの。
たとえ貴方に責められても、詰られても、嗤われても、私にはそれらを全て受け止める義務がある。貴方の怒りと蔑みを受けることで、私はようやく貴方に償うことが許されるのに。…けれど貴方はそうやって、私を責めるフリをして、結局は私を突き放してくれないのだ。

「頼むからもう二度と、俺の手の届かない場所には行かないでくれ」

そう言って私の体を抱き竦めたその腕を、私は拒めなかった。それは罪悪感からでも、義務だからでも無い。ただシンプルに、どこまでもこの心を満たして震わせていたのが、歓喜でしかなかったから。
音も無く瞳から溢れた涙が頬を伝い、鬼道様の肩に落ちる。微かに震える手を背中に回して、縋るように抱き締め返した。それを受けて僅かに体を跳ねさせた鬼道様が堪らずというように強く私を抱き締め直す。その強い拘束は息苦しくて堪らないくせに、私はどうしようもなく幸せで仕方なくて。


「一香」


ゆうとくん。


そんな呼びかけに口の中で音も無く呟いた、かつての彼への呼び名が。不思議と私の欠けていた何かにぴたりと嵌っていくのを感じて、私は今度こそ嗚咽を溢して、目の前の肩に顔を埋めた。





「お前は、何を望んでいたんだ」

抱擁を止めて、それでも手だけは離さなかった鬼道様は、律儀にも送ってくださった私の部屋の前で、静かにそう尋ねられた。

「…佐久間から、聞いた。お前だけは、自ら影山の元に降ったことも、何かを望んでいたことも」
「…そ、れは」
「教えてくれないか。…一香、お前は、影山に何を望んでいたんだ」

…言ったなら、貴方は笑ってくれるだろうか。下らない、身分不相応な願いだったと。幼い頃から何度も願って、焦がれて、何をしてでも叶えたいと思ってしまった私の望みはきっと、誰も理解は出来ないのだろう。
だから私は自嘲するかのように、過去にたった一度繋がれた温もりに縋った少女を嘲笑うように。その願いを何でもないように口にする。


「お父さん、と」


かつて、たった一度触れただけの彼の人の温もりに焦がれて泣いた少女がいた。
かつて、一度も見ることの無かった父の存在を夢見て足掻いた少女がいた。
今は愛されずともいつかは愛してくれるのではないかと、あるはずもない希望に縋ってまで望んだその願いが、本当にどこまでも無謀なものであったのだと。愚かだった私はようやくその事実にたどり着いた。

「…たったの、一度で良かったんです。それ以外、私は何も要らなかった。…ただ一言あの方を、お父さんって、私は、呼びたくて」

もう二度と願わない。
もう二度と望まない。
盲目的なまでに焦がれた愛を手放して、私はそれでも貴方の居ない世界を歩まなければならないのだから。

「呼んだって、愛されないことくらい、分かっていたくせに」

総帥、と心の中で呼ぶ。結局一度だって私を振り返ることは無いまま、私を置いて何処かへ消えたあの人を静かに思う。…もう、最後にしよう。希望に縋って足掻くのは今日で終わりだ。
だって、ほら。私はもう一人じゃない。こうして抱き締めてくれる腕が、あの優しい瞳が、声が。私をどうしたって、孤独にはしてくれないのだから。


「きどうさま」


鬼道様は何も言わず、私を抱き締めたまま何度も私の名を呼んでくれた。その度に何度も愛を囁かれているかのような、まるで母の腕に抱かれた赤子のような安堵を覚えて、堪らず閉じた目から一筋だけ涙が落ちる。…どうか願わくば私が、もう二度と優しいこの人を、裏切ることがありませんように。何度でも私に手を差し伸べてくれたこの人に、報いることが出来ますように。
ただ、それだけを切に願う。
行き先の無い暗闇の中、私を導くように煌めいた光を。私はようやく、見つけたような気がした。




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