愛憎み焦がれる者よ



思えば最初から、目障りな人間だったのだ。
少年が彼女のことを思い語るとき、いつだってそんな言葉から始まる。少年にとって影山一香とは、自分の心を無様なほどに乱す邪魔な存在だった。
そもそもの出会いは中等部に入学したとき。彼女は総帥の養女であり、総帥から直接目をかけられていた鬼道の右腕としてサッカー部のマネージャーの役割を担っていた。そのときの自分はまだ彼女という人間の本質を知らない子供であった。表情の固い女だと、何もかもがつまらなさそうな顔をしている女だという感想を抱いたことを、今でも覚えている。

『総帥からのお言葉です』

そして彼女はそんな想像に違わず、何とも面白味のない人間であった。人形のような冷たい女だと噂していた他の部員の言葉も、少年は決して否定することなく。何故ならそんな彼も彼女に抱く感想は、周りのものと何ら変わらなかったからである。
総帥の犬でしか無い彼女は鬼道を支え、チームの仕事を一手に引き受けるものの、その仕事ぶりは何とも淡々としたものだった。ろくに会話さえしない事務的な対応。しかし少年はそんな彼女に好意を抱かないのは勿論であるが、嫌悪感さえ抱いていなかった。…それが変わったのはたしか、少年が半年を経てようやく一軍に上り詰めた、何度目かの練習でのこと。練習相手とぶつかって肘を強かに打ち付け、擦りむいてしまった彼の治療を行った彼女と初めて部室で二人きりになったとき。

『…なんだコレ』

テキパキと巻かれた包帯に、さすがは仕事人形だと心の中で呆れ混じりに揶揄した少年が腕を持ち上げた瞬間。緩んで解けてしまった包帯に思わず目を点にして呆然とその言葉を口にすれば、それを聞いた彼女が微かに唇を引き結んで眉を顰め、僅かに狼狽えたのである。

『…申し訳ありません。まだ、治療は少し、不得手なので』

少しだけムスリとしてから目を逸らし、くるりと踵を返し背を向けて、誤魔化すように新しい包帯を取りに行った彼女のその様子を見て、少年は思わず呆けてしまった。そして今の彼女の言動と行動が、先ほどの失態の照れを誤魔化すものから来るものだと気がついて、腹の底からぐわりと湧き上がるような何かを感じた。頬が熱くなっていくのが自分でも分かる。…かわいいと。柄にも無くそう思ってしまって、ただ戸惑った。ぎゅう、と締めつけられるかのような心臓の苦しさに思わず呻く。

『…練習、すれば良いだろ』

自分でも情け無いほどに動揺しながらも、絞り出すように何とかそれだけを返した。それ以外に何を言えば良いかが分からなかった。けれどそんな少年の言葉を聞いて、僅かに驚いたような素振りを見せた彼女が目元を微かに和らげたのを目にしたとき。
そのとき自分の中に存在していた彼女の存在は、想いの形は。180°ぐるりと変わって、瞬く間に自分の心を染め上げてしまったのだ。

『…ありがとうございます』

その想いの名前も意味さえも知らぬまま、少年は彼女の姿を目で追う日々を過ごした。何故か何よりも鮮明に映る彼女を見つける度に、その心は軽やかに跳ねて、心の奥底に深く染み込んでいく。そう大して時間もかからずに、少年は彼女への想いの居場所を心の真ん中に形作っていた。…しかし、もしもここで誰かが彼の想いに気づき、声をかけてくれさえすれば、何か変わっていたのかもしれない。
純粋でしか無かったはずの彼の想いが悲惨にも酷く歪み、修復不可能なまでに消えない傷が刻まれてしまったのは。皮肉にも少年が見つめていた彼女の、その心を占める人間の存在の大きさに気がついてしまったからだった。

『総帥』

それは久しぶりに影山が練習を行うグラウンドに現れたときだった。基本は彼女や鬼道を仲介としてチームに関わる影山は、大会の前くらいにしか姿を見せない。一軍に上がって初めて総帥の姿を見た少年は、そんな男を見つめて随分と優しい顔をした彼女を見て、何故だか深く傷ついた。
それはまるで、愛おしいとでもいうような。
不純な物では無い。子が親を慕うような可愛らしい物だ。そこに自分の抱えるような恋慕は存在していなかった。
しかしそれでも少年にとってそれは衝撃以外の何物でも無かった。チームメイトにも鬼道にも、勿論自分にも、全くと言って良いほどに表情を変えない彼女が、影山総帥にだけは心を動かす。それを見て、ふつふつと湧いてきたのは何とも理不尽なまでの怒りだった。

『どうして、お前はそんな顔をする』

自分たちには、そんな顔をしないくせに。まるで何もかもがどうでも良いような顔をして、命じられた指示を淡々と熟すだけの人形めいた行動しかしないくせに。
初めて彼女のことが人間に見えた。血が通い、心のある自分らと何ら変わらない少女のように思えた。…それが、酷く憎らしい。自分という存在は所詮、彼女にとっては取るに足らない程度のものでしかないのだと嘲笑われたような気がした。

だから憎んだ。
だから遠ざけた。

彼女がその目に己を映してくれないのならば、自分の世界に彼女は要らない。この想いは反転して、憎悪に染まって穢れてしまったのだから。
お前も傷つけば良い。お前もこちらを嫌えば良い。そうすればきっと自分はその時、心の底から彼女の在り方を嗤って詰ってやれたのに。
…だから少年は何度でも、呪詛のように彼女への嫌悪を口にする。

『お前のことが嫌いだ』

歪み、歪み、それでもなお消えない彼のその想いの本質は、どうしようもなく救われない恋の形をしていた。
影山一香という存在を憎み、嫉み、癇癪のまま突き放す。
それが少年の。…佐久間次郎という少年の、捻じ曲がって歪んでしまった初恋の在り方であった。





「申し訳ありませんでした」

そんな久々に相見えた彼女は、自分の知る在り方から随分と変わったように見える。少なくとも自分の知る彼女は、こうして自分の目を真っ直ぐに見返すような人間では無かった。いつでも自分の立場が下であると位置づけて、自ら身を落としてみせるような、そんな過剰なまでの献身が彼女の在り方だったというのに。

「源田さ…さんは、憎んでいないと、仰っていました。帝国の皆さんも。…貴方も」

再会のきっかけは、日本代表の追加メンバーとしての招集。それに呼ばれて出向いた先、久々に顔を合わせた彼女は佐久間と二人での対談を望んだ。心配そうな鬼道がそれに同行を望んだものの、彼女はそれを辞退したし、自分も鬼道の同席だけは遠慮したかった。
だってこれから彼女と会話するであろう自分の顔はきっと、酷く情け無いものになってしまうのに違いないから。

「ですが、私はそれでも、許されないことをしました。貴方を傷つけて、利用した私は、貴方に憎まれる義務があります」

謝りたかったのだと彼女は言った。佐久間からの言葉に怯えるようなその瞳は、それでも彼の恨み言を受け止めようと必死になっている。…氷のように冷たく、人形のようだった彼女にだってそんな愚直さがあったのだと、今更のように彼は気がついた。
そんな謝罪の言葉をもう一度口にして頭を下げた彼女のつむじを見つめて、佐久間は静かに息を吐く。そしてその謝罪を跳ね除けた。…跳ね除けたにしては、随分と穏やかな声音をしていると、自分でも他人事のように思う。

「…憎むも許すも無い。知ってるだろ。俺は最初から、お前のことが嫌いだ」

…嗚呼そうだ、俺は彼女のことが嫌いだ。
そしてなお、それを上回るほどにその全てが愛おしいと思う。そんな単純明快な己の恋の有り様を、自分は今頃になってようやく理解した。
心を覆い尽くしていたはずの彼女への憎悪と嫌悪は今や、すっかり鳴りを潜めて大人しくなってしまっている。それはきっと彼女が雷門中との練習試合以降、自らの在り方を変え始めたあのときから起こっていたことかもしれないけれど。しかし決定的になったのはあの海上のグラウンド。

『ちがう、わたし、わたしは、こんなこと』

彼女は泣いていた。禁断の技を用いた代償として得た重傷、薄ぼんやりとした殆どあって無いような意識の中、あの無機質であったはずの瞳から止め処なく涙を溢す彼女は紛れも無く佐久間の為に泣いていた。佐久間を引き留めようとしていた、引き攣ったような悲鳴だって、本当は聞こえていたのだ。…そのとき、彼は自分の中に巣食っていたはずのどす黒い思いが消えてしまったのを感じた。そうしてようやく真っ直ぐに、彼女への恋心を自覚して。
だって、あのとき確かに彼の心は救われたのだ。自分の存在など、影山ばかりを目で追う彼女にとっては炉端の石ころ同然であると自嘲していたその思い込みこそが虚構であったのだと、やっと理解できたから。

「だが、これからは少しずつ、お前を好きになりたい」

歪みきって二度と元には戻れなかった哀れな自分の初恋は、あの涙でようやく報われてくれた。殺し方さえ見つからなかった想いは、こんなにも満たされてしまっている。…ならばこの想いは、もう終わるべきだと思った。
叶うことの無い不遇な恋だったのだと、けじめを着けて前を向きたいと思う。
憎しみも嫌悪も含めて彼女へ抱えた想いは間違いなく恋だったのだと、彼女を初めて愛おしいと思ったあの頃の自分に向き合えると思った。
そうしてその時初めて、自分は今度こそ彼女を真っ直ぐに想えるのだろう。恋なんて関係無しに、ただ一人の人間として。影山一香という存在を愛せるような気がしたのだ。

「それでも、良いか」

俺はお前のことが嫌いだった。
決してこちらを見ないお前が鬱陶しくて。
そのくせ俺の視線を奪ってゆくお前が目障りで。
…それでも俺は、お前が好きだった。
そんなみっともなく哀れな初恋を、それでも俺は抱えて生きよう。だって彼女は変わった。決して振り向かぬ亡霊を追い求めることを止め、自らの足で立ち上がることを決めた彼女に倣って、俺も今度こそ前を向くんだ。

「…はい、佐久間、さん」

動かぬ表情に浮かべた、まるで花が綻ぶような微かな笑みを見て俺も笑う。まだ慣れずとも、それでも確かに変わって歩み出した新しい関係性は、俺の終わりと彼女の始まりを示していた。
悲しいとは思わない。傷つくことも無い。そんな生温い恋の終わりはきっと、何もかもを間違え過ぎた俺にしては随分優しいものであったのに違いなかった。
そしてそんな結末を心から笑って享受できてしまうくらいには、決して悪くは無い終わり方だったのだろうと、俺はどこか他人事のように思う。





前を向くと決めた。過去に縋り、決して与えられないものを求めるのは止めにしようと歩き出した。真帝国学園の試合以来、久しぶりにお会いした佐久間様…でなく、佐久間さんは怪我からもすっかり回復してお元気そうなご様子だった。改めてお話もさせてもらって、完全とは行かずとも私たちなりに歩み寄れたのではないかと一人思う。…様付けを止めたのは、あの日の夜に有人さんから指摘されたことがきっかけだった。

『お前が自分を貶める必要は無い。俺は、お前と同等でありたい』

長年の癖のようなものであったから敬語を外すことは出来なかったけれど、敬称をつけて名前を呼ぶのは止めにした。他の皆さんもそれを手放しで歓迎して受け入れてくれて。
特に有人さんは苗字ではなく、かつてのように名前で呼ぶことを求めてこられた。私もそれに異論は無く、何となく何か言いたげな皆さんの雰囲気には流石に見ないフリをさせていただいた。

「一香!」
「円堂さん」
「一緒に食堂まで行こうぜ!」
「私で、良ければ」

円堂さんは、ずっと距離を置いていた私の変化も柔軟に受け入れてくださった。どんな私であったとしても、私が友人であることに変わりは無いと笑ってくれたその優しさに、私は幾度となく救われる。そしてそんな円堂さんはやはりチームの中心であるからか、彼が仲介してくださるおかげで私は随分とこのチームに馴染むのが早かったように思える。マネージャーの皆さん…特に、有人さんの実の妹である音無さんとはまだギクシャクしているものの、有人さんと似て人に優しいその性格は、見ていて微笑ましくなった。

「本当に、申し訳ありませんでした」

…そしてもう一つだけ、私にはやらなければならないことがあった。円堂さん伝いに対談を申し込んだ彼は、嫌な顔一つすることなく私に応じてくれて。そうして実現した対談の先、私の目の前に座る染岡竜吾に対して私は頭を下げた。それを見てしばらく黙り込んでいた彼が、やがてため息混じりに口を開くのが分かる。

「…円堂たちに聞いた。お前が全部悪りぃ訳じゃねぇんだろ。なら構わねぇよ」
「…ですが」
「…だぁ!面倒くせぇなお前!!俺が気にしねぇって言ってんだ!!俺に謝りてぇんなら受け入れろ!!」
「は、はい…」
「んじゃ、これで話は終わりだな!?」

最後は半ば捲し立てるようにして話を終わらせた染岡さんに、私は思わず目を白黒させる。恨み言までとはいかずとも、皮肉の一つや二つでも受け止める覚悟はしていたから尚更驚いた。そんな私の元へ、外で待っていたらしい円堂さんと有人さんが近づいてきた。

「ごめんな、染岡も悪い奴じゃないんだ」
「…いえ、どなたであってもハッキリとした、良い方だと思います」
「だろ!」

嬉しそうに破顔される円堂さんに、どこか同意するような面持ちで微笑まれる有人さん。その様子を見ていて、私も思わず微笑ましくなる。前は有人さんが帝国でない場所に居るだけであんなにも嫌だったというのに、今はそんなことは思わないようになってしまった。帝国も雷門も、どちらも有人さんにとっては大切な場所であることを理解できたからなのだろうか。
そう思ったところでふと、円堂さんが私を見て嬉しそうに破顔しているのが目に入る。それに首を傾げて訳を問えば、円堂さんは本当に楽しそうなお顔で笑って口を開いた。

「一香がさ、笑うようになってくれてすっげぇ嬉しいんだ!」
「…!」
「前はもっとつまんなさそうな顔してたけどさ、今はそんなこと無いんだろ?」

思わず頬に手を当てた。…そんなに、私は変わっただろうか。たしかに総帥からの指示であった感情を殺すという行為を止めてみて、随分と息がしやすくなった気はする。かつて本来の私を思い出すにはきっと時間が経ち過ぎていて、だからこそ前のように無邪気に生きることはできないのだろうけれど。
それでも、自分本来の在り方を縛られないでも良いということが、こんなにも自由だったなんて知らなかったから。

「…はい、とても、楽しいです」

総帥の存在だけが唯一だと思っていた。あの方に認められ、愛されることこそが私の幸せなのだと思っていた。そんな孤独の底、何もかもを裏切って手放して駆け抜けた道の先、手元に残ったのは喪失の痛みと絶望ばかりで。
いっそ消えてしまいたいと願った。
もう二度と誰も信じるものかと蹲った。
けれどそんな私でも、ほんの僅か踏み出せばそこにはたくさんの光があるのを見つけた。失った心の代わりになれずとも、そんな新しい拠り所として生まれたこの想いはきっと、前よりもずっと優しく穏やかな色をしている。…そうしてその時、私はようやく母の遺言の意味を理解できたような気がした。

『いつかで良いの。誰かに必要とされるような人間に、あなたはなりなさい』

それは決して、都合の良い道具になれという意味じゃなかった。愛はあれど、それが盲目的なものなんかじゃ意味は無くて。
対等に、同様に、平等に。誰かと支え合って生きていく。人間は一人で生きてはいけないのだから、差し伸べることができる腕と心を持ちなさいと、きっとあのとき母は言ったのだ。
たとえそれを実行した母の行き着いた果てが、何処に居るかも分からない父から捨てられる結末であったとしても。それでもただ母にとっては愛する人でしかなかった父に手を差し伸べたことは、悔いでもなんでも無かったらしい。いつだって父を想う母の表情は、とても優しい色をしていたから。

「行くぞ、一香」

母にとって父の存在は、きっと私にとっての総帥であった。手酷く裏切られてもなお、憎むことができないあの人を、私は背を向けた今でもときどき思い出す。…けれどそれも、何だか悪くはないような気がした。
そして今はどうか、この優しい人を慈しめるようになりたいと願う。私を必死で繋ぎ止めようと足掻いてくれたこの人が私に向ける想いを、卑怯にも私は察してしまっていた。それでも打算の無い無垢な想いを隠したつもりでいる彼を、私はいつか同じ意味で愛せるだろうか。…それだけは今も分からないことではあるけれど。

「…はい、有人さん」

それでも今、こうして伸ばされた手に触れられる距離に貴方が居る。
たったそれだけで何だか私は、もう自分は十分幸せであるような、そんな気がしたのだ。




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